34-6410

商品番号 34-6410

通販レコード→仏レッド黒文字盤

ハイドシェックの豊かな詩情が胸をうつ。 ― アルフレッド・コルトー(1877〜1962)の愛弟子のひとりであり、60年以上に亘る演奏歴を持っている。その活動はもちろん国際的ではあるが、いわゆる世界トップクラスの超人気ピアニストというよりは、一部のファンに深く愛されるという印象がある。本盤は日本にもコアなファンが多く存在しているフランスの名ピアニスト、エリック・ハイドシェック若き日の名演集です。〝魅惑の巨匠〟と呼ばれるフォーレのロマン性、神秘性、こまやかな情緒を見事に描き切った作品。美しいタッチ、透明な輝きで、フォーレの内面を明確に捉え、彼独特のクセの強さや自由な即興性で、より興味深い形で表われている。フランスの古都ランスのシャンパン王シャルル・エドシック家に生まれたハイドシェックは、粋で洒脱で色彩感に富む個性的なピアノを奏でることで知られる。確かに恵まれた子ども時代を過ごしましたが、私の時代は戦争があった。その苦難はいまでも忘れられません。明るく見える曲でも楽譜の裏に秘められた影や暗い部分を読み取るようになったのは、この経験があるからですこう語るハイドシェックは、6歳のときに偉大なピアニスト、コルトーに才能を認められピアノを始める。コルトーも作品が内包する影を愛し、ほの暗い表現が好きでした。ですから私も作品に潜む哀愁や陰影を表現することを好みますここにいるフォーレは慎ましく端正、折り目正しく律儀、温和でひっそりとした柔らかな抒情といったキーワードが似合うばかりのフォーレではなく、激情とあり余る生気、不可解な神秘や幻想も露にする、あまりにもダイナミックなフォーレである。ふつう私たちの目に留まるフォーレの写真とかカリカチュアは、白髪謹厳な老作曲家のそれであるが、フォーレにもシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の若き日があったのである。ガブリエル・フォーレの「バラード 嬰ヘ長調 Op.19」には、ピアノ独奏版とオーケストラとピアノのための版とが存在する。ピアノ独奏版を試奏したフランツ・リストが「指が足りない」といった有名な話があり、オーケストラ版を勧めている。「これは難しすぎる」と言ったのではなく、フォーレが用いた大胆な転調法から来ているのだろう。フォーレ独特の音階や転調はそこかしこにあらわれるが、晩年に見られる晦渋で難解さを思わせるものはない。むしろ、ごく自然な流れのうちに心地よい驚きに心が奪われる。この「三本の手」の効果をオーケストラを混じえたら晴れするとリストは直感したことだろう。ハイドシェックは、ロベルト・ベンツィ指揮のオーケストラを従えて、歌舞伎の見栄を切っているようだ。フレーズの解釈も、同じメロディーを最初スタカートで、次にスラーで変化をつけた表現をしたのにはたまげた。このような演奏は、フォーレ固有の音楽様式とは反するように思えるのだが、これは贔屓の引き倒しだろうか、なぜか許してしまう。
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ガブリエル・フォーレ(Gabriel Urbain Fauré)は1845年5月12日、カトリックの信仰の篤い南フランスのピレネー地方の小さな町パミエに、6人兄弟の末っ子として生まれた。生後間もなく養子に出され、どのようにして幼いフォーレが音楽的天分を伸ばしたかは明らかでないが、師範学校の校長をしていた父は息子に音楽的才能があることに気づき、9歳のフォーレをパリのルイ・ニデルメイエールが開校した「王立古典と宗教の音楽学校」の寄宿舎へと送った。ニデルメイエールは少年の才能に感動し、即座に弟子にすることを確約したばかりでなく、フォーレの父が払うことのできなかった学費と生活費のすべてを持つことになった。こうして、フォーレはこの学校で11年間学び、ニデルメイエールが亡くなった後はカミーユ・サン=サーンスに師事している。サン=サーンスがフォーレにシューマン、リスト、ワーグナーの音楽に触れる機会を与え、10歳違いの2人は師弟関係を越えて親しく交流し、それはサン=サーンスが亡くなるまで続いた。在学中、既にフォーレは初のピアノ曲〈歌詞のない3つのロマンス 作品17〉や歌曲〈蝶々と花 作品1〉などによって認められるようになった。20歳で同校を卒業したフォーレは、まずレンヌの教会オルガニストとなり、4年後にはパリに戻ってサン=サーンスの紹介で様々な教会のオルガニストとして活躍する。1896年にはサン=サーンスがポストを務めていたことで知られるマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任する栄誉に浴する。歴代の偉大な音楽家がオルガニストを務めているマドレーヌ教会は、定礎は1764年に築かれたが、革命をはじめとする様々な中断を経て、1842年にようやく完成を見た。その7年後の1849年には、ここでショパンの葬儀が行われ、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されている。またパリ音楽院の作曲の教授にも迎えられた。作曲家としても宗教曲や歌曲、ピアノ曲、室内楽曲など広い分野に多くの作品を生み出していく。その後、1905年にはパリ音楽院の院長となり、音楽教育の改革に尽力した。フォーレの代表作である「レクイエム」の初演が行われたのもマドレーヌ教会で、1888年1月16日に行われた。フォーレは大げさな効果を狙ったり誇張すること無く、慎ましやかで柔軟性に富み、均衡を保つ作品を数多く生み出した。晩年は耳が不自由になり、1922年にはすべての公職を辞し、2年後の11月4日に亡くなっている。国葬が行われたのはやはりマドレーヌ教会、自身の「レクイエム」がしめやかに奏でられた。フォーレの音楽は、人を無垢な状態にしてくれる。日常の衣を脱ぎ捨て、素のままの自分と向き合う大切さを促す。とかくフォーレは謹勅そのものの人のように思われがちだが、院長時代には、自分の趣味に反する一派を学校から追放するのに強権をふるったという。だから私は、ストレスが溜まると、その音楽に身を委ねたくなる。
エリック・ハイドシェック(Eric Heidsieck)は、1936年に生まれたフランスのピアニストである。父はフランス北部の古都ランスを代表するシャンパン王、シャルル・エドシック、母はピアニストという恵まれた家庭に育った。5歳からピアノに親しみ、6歳の時、たまたま接した巨匠アルフレッド・コルトーの奨めで、正式にピアノを勉強し始める。8歳でエコール・ノルマル・ド・パリへ入学、1952年から、パリ音楽院でマダム・バスクールに師事し、卒業の翌年、パリのサル・ガヴォーでデビュー・コンサートを開いて、好評を博した。彼の名を一躍有名にしたのは、1957年、パリのシャンゼリゼ劇場で行ったリサイタルで、その後は、世界各国で演奏活動を続けている。1960年代のハイドシェックは、特に「モーツァルト弾き」として、数々のコンチェルトをレコーディングしている。コルトーには、その死の年(1962年)まで指導を受け続けた。このコルトー直伝の個性を優先する演奏法は、現在も彼の中で脈々と息づいている。フランス・ピアノ界を代表する演奏家で、日本では、1968年の初来日以来度々演奏会を開いて、真摯な姿勢と音楽の隠れた魅力を引き出す凄演で人々を魅了してきた。1997年6~7月の全11公演、1998~99年の3期に渡って行なわれた「ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ」演奏会は大盛況を極めた。その宇和島でのライヴ録音などを通してファンが多いが、3年ぶりになる2018年7月に、来日50周年特別公演を行った。
フォーレ:夜想曲≪クラシック・マスターズ≫
エリック・ハイドシェック
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-08-20

幻想曲 op.111、バラード op.19:エリック・ハイドシェック(ピアノ)、リリー・ラスキーヌ(ハープ)、ピエール・ドゥカン(ヴァイオリン)、エマニュエル・クリヴィヌ(ヴァイオリン), Viola – Pierre Cheval, Violin – Rodrigue Milosi, ブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)、Double Bass – Yves Chabert, Flute – Maxence Larrieu, French Horn – Daniel Dubard, Gilbert Coursier, Bassoon – Paul Hongne, Cello – Roland Pidoux, Clarinet – André Boutard, Oboe – Pierre Pierlot, グラン・リュエ音楽祭管弦楽団、ロベルト・ベンツィ(指揮)1974年録音。CASSIOPÉEは、高額なフランス・マイナー・レーベル。
FR CASS 369 187 エリック・ハイドシェック フォーレ・…