厳格に継承するか、発展させるか。 ― ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの急死で垂涎の銘器ベルリン・フィルが棚から牡丹餅式に舞い込んだ、ヘルベルト・フォン・カラヤンは1960年代に入ってヨーロッパ音楽界においては飛ぶ鳥を落とす勢いだったものの、アメリカでのレコード販売数が伸びないことに不満を感じていました。彼がドイツ・グラモフォンに移籍するときの最大の懸念が、ドイツ・グラモフォンのアメリカ国内での販売網の弱さだったと伝えられています。そして、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を手中に収めることは、英デッカと専属契約をウィーン・フィルが結んでいたことでアメリカでの販路をも獲得できるところに魅力があった、ところも少なからざりしと憶測できる。この背景には、戦争が終わってもアメリカ国内には根深い反ナチス、反ドイツの感情が残っていたことを示唆します。同時に、第2次世界大戦という試練を経て、レコード産業に劇的ともいえるテクノロジーの変化の波が押し寄せる発展がもたらされ、音楽の録音・複製・再生の様相を大きく変えた時期である。それは音楽の生産から消費にいたるまでのいたるところで、従来とは異なる状況を産むことになったのである。昨日も書きましたが、補足を加筆すると1950年代のCOLUMBIA,RCA両社は世界最高レベルの録音技術を確立していた。米国RCAはイタリア・マルコーニ社を素地に、全米各地のラジオ会社の大半を傘下に収めると共に、RCAレコード・NBCなどのメディア事業を経営、1923年までに海底ケーブルを利用した大西洋通信の3割、太平洋通信の5割を市場占有した。ハリウッドの映画会社RKOに資本参画すると、世界最初の電気式蓄音機を発売開始。イタリア出身のアルトゥーロ・トスカニーニが戦中・戦後のRCAビクターの顔になっていた。米国コロムビアの発祥は1930年に設立されたコロムビア・アーティスツ・マネージメント・インクという会社で、ユダヤ系資本が大株主で音楽界に絶大な力を及ぼしていることについては色々と書かれていることもあり、ニューヨーク・フィルハーモニックで頭角を示し始めていたユダヤ系のレナード・バーンスタインや同時並行して1950年代後半から引退中だったこれまたユダヤ系のブルーノ・ワルターの起用したことは周知の事実。1950年と言えばすでにテープ録音が本格的に導入されていますから、SL(蒸気機関車)や航空機など交通機関の音、寺社や教会の鐘、野鳥の声や波音など自然の音、街の騒音や喧騒音など従来は録音することはもとより、レコード化が困難だった自然や人工のさまざまな音が記録され複製されるようになった。クラシック音楽の分野ではライブ・レコーディングが、ある時期からはむしろスタジオ録音よりも多くなったが、各コンサート・ホールはそれぞれ独自の音の響きを持っており、オーケストラと合唱、ソリストを含んだ音楽を録音するというのは大変な難事であることは事実なのですが、ドイツ・オーストリア系が中心になるクラシック音楽はそれでも、長時間収録が可能となったLP盤に相応しい録音が求められていて、その様な需要に応えて録音そのものはヨーロッパに丸投げをして、「強いドル」を背景にアメリカはヨーロッパの音楽を買いたたいていったのです。しかも、ドイツで録音されたものながら「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」とか「ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団」と言う名前を使うことが難しくなって、ドイツとは関係ない振りをして発売する方策に、専属契約の関係で名前を明確に出せないときに変名や偽名を使う〝幽霊指揮者〟〝幽霊オーケストラ〟というものが登場するようになるのですが、シュミット=イッセルシュテットも〝ヨーゼフ・バルツァー指揮〟とクレジットして発売されたバッハのレコードがありました。→コンディション、詳細を確認する
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音楽の父、ヨハン・セバスチャン・バッハはふたりの妻を娶り、先妻のマリア・バルバラと、後妻のアンナ・マグダレーナ。それぞれ、音楽家として優れた息子を生みました。ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach, 1710年11月22日〜1784年7月1日)はマリア・バルバラを母に生まれた長男で、バッハの息子たちの中でも特に才能に恵まれていたといわれています。バッハが一番評価し、〝自分の心にかなった息子〟と周囲にも自慢するように、溺愛していました。幼少から父親について音楽の手ほどきを受けたが、父バッハがフリーデマン・バッハのために「小プレリュード」「インヴェンション」「シンフォニア」「平均律」などを書いたことはよく知られている。フリーデマン・バッハはケーテンのルーテル教会系のギムナシウム(大学進学学校)とライプチヒの聖トーマス学校を経て、1727年にライプチヒ大学に入学した。大学では法律を学んだが、その頃はすでに音楽に専心しており、33年にドレスデンの聖ソフィア教会のオルガン奏者に就任、46年にはハレの聖マリア教会のオルガン奏者の地位についた。しかし、1750年の父バッハの死後、怠惰、粗暴な性格が表面化し、64年にハレのオルガン奏者を退職した。その後は定職もなく作曲、演奏などで生計をたてていたが74年にベルリンに移住し、84年に没した。ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの作品にはシンフォニア(器楽用)、協奏曲、室内楽曲、鍵盤楽器曲などがあるが、鍵盤楽器曲がその主要部分で、作品には古典期の"ソナタ形式"と"感情過多主義"のはしりが見られ、鍵盤楽器曲「メヌエットとトリオ」では"もの静かなメヌエット"に対し"嵐のようなトリオ・セクション"を組み合わせるなど激しい感情の起伏を見せている。
Bing Crosby, Mel Torme and his Mel-Tones – DAY BY DAY – Sammy CahnDay by day, I wake up for you, I do
And I rise to who knows who
Well if I can say, some other dayDay by day, I reach out to you I do
And I pretend, there's something to it
And if I can say, I've had better daysDay by day, I resort to you, I do
And I wash up after you're through
If I can say, that's okayYou're in my head again
You're in my bed again
You're in my mirror againAnd if you don't mind me
I don't mind youDay by day, I reflect on you, I do
I reflect on you, I do
黒人ジャズ歌手の歌を聴き、盗み取ることで歌唱を磨いていったビング・クロスビーに訪れた好機は、1931年のこと。視点を日本に向けると、昭和6年、コロムビア商標を英国コロムビアから譲り受けた日本コロムビアは、すべての国産レコードのマークを現在の音符のコロムビア・マークに統一。東洋一のコロムビア・マークのネオン塔を川崎工場屋上に完成させた頃。舞踊や教材として蓄音器は普及していったが、マイクロフォンを使って電気録音されたポピュラーソング・歌謡曲のレコードが人気を得始めていた。わが国のラジオ放送は1925(大正14)年、東京と大阪で始まりました。続いて名古屋でも始まり、放送開始以来わずか1年半で、聴取者数30万という爆発的な普及をみました。昭和3年11月10日の昭和天皇即位式のラジオ放送計画を機に、新規加入者数に応じて取扱者に仲介手数料のほかに奨励金を払うことで加入者増大を図っていますが、1931(昭和6)年の岡山・小倉放送局の開局、受信機の低価格化と品質の向上、さらに9月の満州事変の勃発で戦況や国内状況の迅速な情報取得が必要となったことから、同年から加入者が急増しました。また、戦時下にあって、政府は、国防強化の面からラジオ放送を聴取することを奨励し、一層ラジオの普及に拍車がかかりました。閑話休題。この年、28歳になったクロスビーはCBSラジオ放送で、自分の名前が冠に付いた15分番組『ビング・クロスビー・ショー』を持つチャンスを掴む。毎週放送される、その甘い歌声はたちまちラジオを通してアメリカ中に広がり、彼は一躍アイドル的存在となってゆく。クロスビーの歌唱は、テクニシャン・タイプではなく、持って生まれた好ましい声質を上手に使って、〝好ましい気分・雰囲気〟を漂わせる高等技術に、その魅力的に聴かせる本質があると考えています。加えて、それこそ〝古きよき時代のアメリカ〟を思い起こさせる声質と同時に彼は、音楽史上においていち早くマイクロフォンを用いることで、新しい時代の歌い方を確立してしまう。
- Record Karte
- Symphonie en ré m : adagio ; allegro / Wilhelm Friedemann Bach, Rudolf Prick, violin solo ; Hans Brinckmann, Louis Knöbber, flute ; Kammerorchester des Philharmonischen Staatsorchesters, Hamburg ; Hans Schmidt-Isserstedt, dir. 1940年発売。
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