Salzburger Festspiele 1983
34-30035

終わりの革命 ― 恐怖政治下の歴史メロドラマ・オペラ

大革命勃發ぼっぱつの5年後、第一共和制下のフランスでは、ロベスピエール卛ゐひきいる急進的なジャコバン派が食糧難に喘⻝あえ下層かそう市民の憤懣ふんまんじょうじて勢力を擴大かくだい、革命勢力內部ないぶ反對はんたい派を次々にギロチンだいに送っていた ― 『ダントンの死』(Dantons Tod)は、夭折したドイツの自然科学者・劇作家カール・ゲオルク・ビューヒナー(Karl Georg Büchner, 1813.10.17〜1837.2.19)が1835年に執筆した戯曲を、20世紀のオーストリアの作曲家、ゴットフリート・フォン・アイネム(Gottfried von Einem, 1918.1.24〜1996.7.12)がオペラ化したもの。ビューヒナーはアルバン・ベルグ(Alban Maria Johannes Berg, 1885.2.9〜1935.12.24)のオペラで有名な未完の戯曲「ヴォツェック」(Wozzeck)の原作者である。
第一共和政下のフランスで実権を握ったマクシミリアン・ロベスピエールによって、革命の立役者の一人であったジョルジュ・ダントンが追い詰められ、断頭台に送られるまでの1794年3月から4月までを描いている。
ビューヒナー自身、大学生時代に反体制運動に関わり、警察の手に追われながら、亡命資金を得るために5週間のうちに書き上げ、出版された、生前に発表された唯一の文学作品。
オペラ版は1947年8月6日にザルツブルク音楽祭において、オットー・クレンペラーの代役としてフェレンツ・フリッチャイの指揮、ウィーン交響楽団、ウィーン国立オペラ・コーラスの歌い手によって初演されている。
フランス革命のオペラと言えば、ウンベルト・ジョルダーノ(Umberto Giordano, 1867.8.28〜1948.11.12)の「アンドレア・シェニエ」(Andrea Chénier)やジュール・マスネ(Jules Emile Frédéric Massenet, 1842.5.12〜1912.8.13)の「テレーズ」(Therese)が思い浮かびます。フランス革命という時代や場所が私たちを魅了することですが、「アンドレア・シェニエ」に革命の場面は直接出てこないものですし、オペラの騒動の背景にフランス革命があることを知っていれば、そのオペラをより楽しめる、というもの。「テレーズ」にいたっては、時代設定がフランス革命時代というくらいで、架空の登場人物の物語。
それに対して、アイネムの「ダントンの死」は、悲劇のヒーロー、ジョルジュ・ダントンが、革命を推進した中心人物、カミーユ・デムーラン、マクシミリアン・ロベスピエール、ルイ・アントワーヌ・ドゥ・サン=ジュストらを敵に回す、歴史メロドラマのオペラです。
クレンペラーは、オペラ「ダントンの死」の台本が原作であるゲオルク・ビュヒナーの戯曲から乖離しすぎている、音楽も悲劇的な気分に欠けるとして作品への興味を失ってしまいキャンセルしました。そのおかげで代役したフリッチャイの名声が高まることになったという話で、こちらでも歴史的な背景があってのことかと色々な思いを巡らせてくれて、面白くなる。
アイネムは1918年にスイスのベルンでオーストリア軍の駐在武官の息子として生まれ、ボリス・ブラッハー(Boris Blacher, 1903.1.19(旧暦1月6日)〜 1975.1.30)に作曲を師事。この師が、初期はジャズ風な新古典主義の音楽を書き、バルトークに刺激を受けて前衛に転じた作曲家だった。さて、アイネムは1938年からコレペティトールとなったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で自作を初演し、1944年にドレスデン国立歌劇場の音楽アドバイザーにもなっていた。
ナチス・ドイツ時代に音楽家のコンラート・ラーテ(Konrad Latte, 1922.5.5〜2005.5.21)を救ったということで戦後にイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」のメダルをもらっているが、一方でナチ時代はまだ若かったということもあり、重責のポストには就いていませんが、ナチの重鎮でもあった作曲家ヴェルナー・エック(Werner Egk, 1901.5.17〜1983.7.10)と親しかったことで兵役を逃れ、1931年から1944年にかけてバイロイト音楽祭の芸術監督を務めたハインツ・ティーティエン(Heinz Tietjen, 1881.6.24〜1967.11.30)の助手も務め、ナチ時代のバイロイトで活躍しました。
オペラ「ダントンの死」初演の後は、アイネムは1953年にウィーンに移り住み、1954年からウィーン国立歌劇場の芸術顧問を務め、1963年から1972年まで(現在の)ウィーン国立音楽大学の教授を務めた。さらに1965年から1970年までオーストリア音楽アカデミーの会長を務めた。
現在、ウィーンの王宮の元帥門の壁にはアイネムの記念碑があり、2017年にウィーン川沿いの通りの一部(シャラウッツァー通りとオットー・ヴァーグナー設計の税関橋に挟まれた場所)が「ゴットフリート・フォン・アイネム・プラッツ」という名称に変更された。
ジャズとイーゴリ・ストラヴィンスキーと、セルゲイ・プロコフィエフの影響も受けている面白い音楽を書く作曲家だった。典型的なウィーン保守派に属し、乾いたリズムや確固とした旋律が特徴。好きになる必要はないが、歩み寄る努力は必要。アイネムは、自分の個人的なスタイルを固守して、この「ダントンの死」を書きました。彼自身が、ダントンと個人的なつながりがあったのでないかと疑いたくなるほどです。どちらも自分が信じることを、あくまでも主張する人間でした。その結果、「ダントンの死」の音楽は、聞いて心地よいというだけでなく、オペラのストーリーを理想的にたどる、誠実さに満ちています。
群衆への見せしめの処刑で、ダントンは、雄弁を振るい、陪審員の心をつかみかけます。その後の処刑の後には、デムーランの妻リュシールが断頭台の上で、ダントンとデムーランの死を嘆く名場面になる、第2幕にアイネムの才能が光ります。
「ダントンの死」第2幕で展開される場面は、ダントンがギロチンで処刑されたあと、人の死を見て踊りながら喜び合う群衆。さらに、気の狂ったリュシールが、夫カミーユ(ダントンの同志)の生首を抱えて出て来て叫んで終わるのだから、何とも異様である。しかし、不思議なことに、音楽は心地良い。
アイネムは、シラーの「たくらみと恋」とネストロイの「分裂した男」を原作とするオペラを作曲しているし、先妻に先立たれた後に再婚した、オーストリアの劇作家ロッテ・イングリッシュの作品もオペラ化している。60歳ごろから没するまでの20年間、森のなかで暮らしたアイネム、卑猥さやグロテスクな雰囲気はあるが、表出力の強いメロディーを書く劇音楽の作曲家であった。
「ダントンの死」には、ジャズ、フランス革命歌、シェーンベルク、リヒャルト・ヴァーグナーらの音楽のスタイルが使われているとのことだが、牢獄に入れられる主人公とは違って、自由な音の動きに気持ちが救われる思いがした。
1983年はビューヒナー生誕170年、これはその1983年のザルツブルク音楽祭でデジタル録音された優秀録音盤。
  • 演奏:テオ・アダム、ヴェルナー・ヘルヴェヒ、ウィルフリート・ガームリヒ、ホルスト・ヒースターマン、ヘルムート・ベルガー=トゥーナ、クルト・リドル、フランツ・ウィズナー、クリストファー・ドイク、カール・テルカル、アルフレート・ムフ、イングリート・マイアー、クリスティナ・ラキ、ガブリエーレ・シマ、マルヤナ・リポヴシェク。ローター・ツァグロセク指揮、ウィーン放送交響楽団、ウィーン放送合唱団
  • 録音:1983年ザルツブルク音楽祭、デジタル録音。



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