34-18298
商品番号 34-18298
通販レコード→独ブラック・ラベル銀文字盤
低音が響いているのでしょう、音は艶やかで倍音が多く響いている。 ― 残響が少なめで、ピアノの存在感が強くてピアノ・パートの細部までくっきりと明瞭。やや木質感のあるピアノの音がまろやかで、クラウディオ・アラウのタッチや多彩な音色と響きを伝えてくれる。ドイツ・ピアニズムの最も正統的な継承者として確固たる評価を得ていたアラウ。ベートーヴェンの協奏曲は3度にわたって全曲録音を行いましたが、この演奏は1964年に61歳のアラウが臨んだ2度目の録音です。技巧的に安定して切れ味よく明るい色調の伸びやかな響きで、調和のとれた安定感があって全盛期の演奏は疑うべくなく安心して聴ける。アラウの完全にコントロールされたタッチから出てくる音の美しさと響きの多彩。これはピアノ・ソナタ全集でもなかなか聴けないくらいに素晴らしく、弱音の繊細さとニュアンスの多さはソナタ全集でも感じたことで、ペダルを使ったときのスケールやアルペジオの重層的で濁りのない響きはドビュッシーでも聴いているような気がするくらいに美しい。ショパンとは趣きが違って、アラウの弾くベートーヴェンやブラームスのコンチェルトは堂々とした風格があって素晴らしい。チリ出身でドイツで学んだアラウは、20世紀の名ピアニストのなかでも屈指の名匠の1人に数えられる。神童として知られチリ政府によって、7歳でベルリンに留学していたアラウは、8歳でベルリンのシュテルン音楽院に留学する機会を得る。ドイツ音楽の権威、リストの弟子のマルティン・クラウゼに師事。後述しますが、アラウはピアノ演奏における師弟関係の影響力の強さが演奏に現れている典型的な例である。本来ラテン的な血を引いているはずのアラウながら、正統的なドイツ音楽の継承者として名声を高めた。母国語のスペイン語よりもドイツ語を得意にしていた。そういう背景からも感じられる通り、自然体で力むことなく何の飾り付けもすることなく音楽を表現している。ドイツのピアニストもはるかに及ばないと謳われた、そうした重厚なピアニズムの健在ぶりは特にベートーヴェン演奏の権威として ― ソナタ全曲の彼の校訂版がペータースから出版されており ― 多数のレコード録音が、その証明として知られています。テンポを大きく揺らすことなく、ただテクニックとリズムの切れが良いだけで演奏に張りと煌きがあって、とても生き生きしている。自然が作り出した芸術は、いつまで見てても飽きないと言いますがアラウの演奏にも似たようなことを感じます。
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ライプツィヒ楽派の名教師と呼ばれたクラウゼは『リストの曲は楽々と弾いているようにみせ、またよく響かせるためには普通以上のテクニックが要求される』とクラウディオ・アラウ(Claudio Arrau León 1903年2月6日〜1991年6月9日)に語っていた。アラウはまた、大作曲家でピアニストだったフェルッチョ・ブゾーニがリストのソナタを弾いた時に受けた啓示を絶対忘れることがなく、そこには深い情熱と意味があったと回想している。アラウはチリの首都サンティアゴ・デ・チレから400km南にある都市チリャンの名門の家系に、眼科医のカルロス・アラウ(Carlos Arrau)とアマチュア・ピアニストのルクレシア・レオン(Lucrecia León)の息子として生まれた。南北に7,000Kmを超える南アメリカ大陸は地殻変動は複雑で火山活動、地殻変形、地震など大半の地殻活動は活発でマグニチュード8から9クラスの巨大地震も起きており、1900年から2017年11月25日までの約118年間にマグニチュード8.0以上の地震は93回記録され、その津波による影響は東アジアまで達している。2010年のチリ地震で、チリャンは大きな被害をこうむった。犠牲者数は分かっていない。アラウ少年が3歳になった1906年8月18日、大地震がチリ中部のバルパライソを襲い、様々な物的な損害が出て、3,000人の犠牲者を出した。チリの首都サンティアゴ・デ・チレから震源地は熊本から福岡間、東京の新宿区から茨城県水戸市の距離。首都を新宿区とすると、岐阜県岐阜市でアラウは成長する。早くから神童として知られ、5歳で最初のリサイタルを持った。1911年にサンティアゴでデビューし、同年チリ政府の援助によってドイツに留学。ベルリンのシュテルン音楽院で、フランツ・リストの高弟であるマルティン・クラウゼ(Martin Krause, 1853〜1918)に師事。リストにはかなりの数の弟子がいたため、リストの孫弟子、即ちベートーヴェンの曾々孫弟子にあたる著名なピアニストは多い。クラウゼの弟子ではエトヴィン・フィッシャー(1886〜1960)はレコードファンは馴染みのある存在だ。
アラウによれば、クラウゼの印象は「凝結された体力」「ザクセン訛り」「ユーモア」「激しい気性」であったという。7歳の時からクラウゼ家に同居していてクラウゼの娘たちが、その練習を監視していた。クラウゼはアラウに毎日2、3時間ピアノを教え、さらに毎日1時間、一緒に散歩し世界文学の読み方を教えたり、ベルリンの博物館や国立オペラに連れて行った。クラウゼはそのための報酬を一切とらなかったという。そのおかげでアラウは8歳になるまでにワーグナー最後の楽劇である長大な『パルジファル』を聴くことが出来た。ベルリンでのデビューは1914年。大成功を収め、以後ニキシュ、ウィレム・メンゲルベルク、フルトヴェングラーらの大指揮者と共演。ヨーロッパでの名声を確立する。1918年のクラウゼの死後は、ほとんど独学で勉強を続け、他の先生にはつかなかった。1921年には故国でリサイタルを開き、1922年にはロンドン、1923年にはアメリカ・デビュー、1927年にはジュネーヴ国際ピアノコンクールに優勝して世界的な名声を不動のものとした。1924年から40年までは母校シュテルン音楽院の教授として後進の育成にも携わった。ベートーヴェン、シューマンなどのドイツ系の作曲家の作品を得意とするピアニストとして世界的に有名だが、リストやショパンの演奏にも独自の境地を見せている。またベートーヴェンやウェーバー、シューベルトのピアノソナタ連続演奏会をヨーロッパや南米各地で行い、その名声を不動のものとした。アラウは11歳でデビュー・コンサートを開いたが、その時にバッハ「平均律クラヴィーア曲集」から数曲を弾いている。これは当時としては異例のことでした。まだまだコンサートでのバッハ演奏は一般的ではなかった。けれどもアラウはベートーヴェンやブラームスと並んで、バッハを積極的にレパートリーに採り入れていた。1923年頃にはバッハ・プログラムで4回のリサイタルを開き、1935年から翌年にかけてはベルリンで12回に及ぶバッハ「クラヴィーア作品全曲」リサイタル・シリーズを敢行、史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏ということもあって、ヨーロッパで大絶賛された。ところがアラウは、その後バッハをあまり弾かなくなった。それまでベルリンを本拠に演奏活動を行なっていたアラウが、ナチスの台頭と戦局の悪化のためアメリカに移住し、1941年2月のニューヨーク・タウン・ホールとカーネギー・ホールでのデビュー・リサイタルで大成功を収め、翌年より本拠をアメリカに移す。
アラウの録音は何といっても1963年から亡くなるまで続いたフィリップス録音が質量ともに膨大であり、次いで1955年~62年までのモノラル~ステレオ初期のEMI録音もアラウ円熟期の姿を伝える名演ですが、この1941年~52年のRCAとコロンビアへの録音は、ちょうど30歳代後半から40歳代後半にかけての壮年期の颯爽たる演奏を聴くことが出来る。第二次大戦後は南北アメリカ、東西ヨーロッパ、アジアなど世界的に活躍。この間、日本には1965年初来日。最晩年までコンサート・録音を精力的に行い、文字通り「巨匠」の名にふさわしい活躍をみせた。クラウゼは師リストを崇拝していたが、同様にアラウもリストを尊敬している。ベルリン仕込みのゲルマン魂。大柄で渋めの演奏が特徴で、抑制の効いた大人の世界は「噛めば噛むほど味が出る」と評される。アラウの重厚で神秘的なリストとしては、1960年代から70年代にかけての演奏に、その本領が発揮されている。ショパンの『練習曲集』やショパンが書いた最高の音楽とアラウが語った『夜想曲」の名演奏もあるが、さらに重要なレパートリーはシューマンである。重厚で黒光りするようなアラウのシューマンは聴くものの胸の奥底に響いてくる。〈じっくりと〉〈丁寧に〉〈繊細に〉、言葉に書くと微妙に少しずつ違う味わいを、ゆっくりしたテンポの中で複雑に描き分けてゆく。少しも力まず、まるで他人事のように弾いてゆくが、その味がたまらない。重いリズムがいかにもアラウらしく、絶えず語りかけるような弾き方が好ましい。
そして「ベートーヴェンは究極的には精神と神格との結合に到達している」と述べるアラウのベートーヴェンの晩年の録音ではニューヨーク・スタインウェイを弾き、解脱の境地とも思える天上の響きを聴かせてくれている。アラウは88歳で生涯を閉じましたが、80歳を前にしてからの円熟ぶりは著しい。人によっては爽やかさを欠くというかもしれないが、これこそ老アラウの味だ。良くもこれだけ落ち着けるものだ。アラウは、"演奏家は自分自身を変身させて異なった世界に入る道すじを探すべきだ"という考えを持っていたので、決してベートーヴェン弾き、リスト弾きというスペシャリストであるつもりはなかった。だから彼のレパートリーはかなり広い。そういう点でも ― 前もって演奏する楽譜を攫うことなく演奏会で弾きこなした鍵盤の獅子王 ― 特にベートーヴェン演奏の権威として『バックハウスの後継者』としては、もうひとつ訴えてくる力が弱かったが芸に突っ込みが出てきた。それとは別に遊びも出てきた。再録音したショパンの『ワルツ集(全19曲)』や、シューベルトの『即興曲集』『ソナタ作品120』など、いずれも遅いテンポと粘ったリズムでルバートを多用し、とても現代のピアニストとは思えないくらいロマンティックに弾いている。それは周囲の目を気にせず、彼の思うがままに感情を流露させていく。最晩年のテンポが非常に遅い録音が増えたのには〝バイロイトの第9〟以降のフルトヴェングラー、大賀会長の前で素顔を見せたカラヤンと同じ境地に至っていたと感じられ、演奏を続けているままに亡くなるような、晩年の深化を意識させなかったわけではない。
1964年6月アムステルダム、コンセルトヘボウでのステレオ録音。
DE ETERNA 8 25 543 クラウディオ・アラウ ベートー…
DE ETERNA 8 25 543 クラウディオ・アラウ ベートー…
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