これはレクイエムではない。 ― 聖トーマス教会の図書室に100年間しまい込まれていた、分厚い楽譜。器楽、歌の曲、合唱曲がたくさん書きつけられた手書きの楽譜を、孫の15歳の誕生日におばあちゃんがプレゼントします。その楽譜は音楽史の至宝。ヨハン・ゼバスチャン・バッハの〈マタイ受難曲〉の蘇演にも力を注いだメンデルスゾーンのスタイルは先人達(シュッツやバッハ)の伝統的な作曲技法の延長線上で、彼独自の透明感のあるハーモニーと流動的な美しいメロディーが展開される。メンデルスゾーンが没して、もはや170年も経って、知られているとはいえないが、ア・カペラの宗教作品も数多くある。メンデルスゾーンは、詩篇100番に2曲作曲している。同一の詩に、違った音楽的解釈で強調しているのが興味深い。さて、メンデルスゾーンの没後に音楽活動を始めたブラームス。ひとつの詩のフレーズをメロディーとして音楽的に表現するために、実用的な典礼音楽の用途を超え、苦悩と解放、憧れ、畏れ、驚き等、繊細な音の扱いと卓越した和声技法でその内面の真実を浮かび上がらせる。ロマン派の作曲家にとって宗教的な感情、高揚と浄化を創作の源泉とするなら、彼の特徴である半音階を多く含んだ旋律、転調の効果、ハーモニーの音響的な密度の濃淡でその精神世界を表現している。音楽の役割は詩や文章が表現している情景、感情の流れ、メッセージを音楽的要素 ― 音程、リズム、ハーモニーを駆使して人々に伝えることにある。「レクイエム」は死者を鎮魂するための宗教音楽のことですが、ブラームスは《ドイツ・レクイエム》とこの曲のスコアの表紙に書いた。彼が言うには、慰められるべきは死者ではなく、残された生者なのであり、そういった思想で作曲されている唯一の曲である。そこでヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏についてだが、音楽の真髄はリズムに始まり、リズムにつきることを雄弁に物語っている。フルトヴェングラーはアウフタクトを大切にすると同時に、音楽に生気あるリズムを注入する。リズムに生気を持たせることにより、ゲサンク・フラーゼ(旋律楽句)をまさにゲサンク(歌)として、自然に再現できるという指揮論を打ち立てた。その本質は、オーケストラ曲だけではなく、オペラと声楽曲におけるソロとコーラスにおいても余すところなく発揮されている。本盤で聴ける内容は、その顕著な一例。当初、日本コロムビアDXM141-2(71/12)で発売が予定されテスト盤も出来ており、レコード芸術誌1972年1月号に月評が掲載されている。予定通り発売されればこれが初出盤となっていたが、東芝から発売されるまで待たされた。当時の英フルトヴェングラー協会が持っていたユニコーン・レーベルの発売権がEMIに移ったためでもあろうが、〝ブーン... ブーン...〟という音が混入している。このノイズは1943年5月のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのストックホルムでの録音でも同様だから、当時の英マルコニー製の巨大なテープレコーダーのノイズと思われる。しかし、客演ながら楽章を追うごとに熱気を帯びる。凄まじい迫力で盛り上がり、阿修羅のように荒れ狂う。演奏は不満を払拭してあまりあるもので、同曲の他と比べても録音状態を考えれば、唯一まともに聴くことができる巨匠の《ドイツ・レクイエム》といえる。悪い状態の演奏会の録音をレコードとして発売することにした本盤は、しかも慰めを目的としている演奏とは思えないにも拘らず、他盤を凌ぐ魅力と説得力を獲得している。
- Record Karte
- 1948年11月19日ストックホルムでのモノラル、ライヴ録音。1972年リリース。
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先輩格のアルトゥール・ニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)は、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンに赴き、同年5月1日、党員番号「3430914」としてケルン―アーヘン大管区で改めて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味深く見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ヘルマン・ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。…アルトゥーロ・トスカニーニはベニート・ムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。トーマス・マンはアドルフ・ヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険に晒すこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、つまりドイツのオーケストラ演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂の坩堝と化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」、「運命」交響曲の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念を再び呼び覚ました。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはベルリンに復帰したが、1949年まではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する回数は非常に少なかった。むしろウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン以外の客演先のオーケストラを数多く指揮した。まず1948年、ウィーンに戻るとヨーゼフ・クリップスと共にウィーン・フィルを率いてロンドンに行き、5日間にわたるベートーヴェンの交響曲のサイクル・コンサートを行った。このベートーヴェンのサイクル公演で、10月3日、ユーディ・メニューインとコンチェルトを共演した。11月はベルリン・フィルとイギリス公演、ロンドン、リヴァプール、バーミンガム、オックスフォードの各都市を訪れた。11月3日、キリスト教活動の一環として招かれたオリール・カレッジ主催コンサート(ロンドン・エンプレス・ホール)でブラームスの交響曲第4番を演奏。イギリス公演を終えると直ぐ様ストックホルム、パリで客演し、翌月はウィーンでフィルハーモニーを指揮した。ストックホルムでは、11月12、13日にベートーヴェンの交響曲第7、8番を演奏。そして本盤、ドイツ・レクイエムは19日の演奏会だった。このように信じられない超過密スケジュールを、62歳のフルトヴェングラーは実際に消化していたのである。フルトヴェングラーのブラームス観を知る貴重な、1948年11月のライヴ録音で、恐ろしいほど悲痛な《ドイツ・レクイエム》。フルトヴェングラーの《ドイツ・レクイエム》(Ein deutsches Requiem)の録音の中では一番状態の良いもので、繰り返しリイシューされてきたもの。独唱も素晴らしいが、合唱とオーケストラのライヴにかける気迫がダイレクトに伝わる名演です。本盤の前後に1947年8月ルツェルン、1951年1月ウィーンで録音、フルトヴェングラーは3種類の《ドイツ・レクイエム》があるが、完全な状態で残っているのはこれだけである。古来、この曲のベスト・パフォーマンスとして、たとえばブルーノ・ワルターのような癒し系の指揮者のものが挙げられてきた。しかし、一度このフルトヴェングラー盤に触れてしまうと、他の指揮者のものでは物足りなさを感じてしまう。このフルトヴェングラーの演奏は慰めを目的とした「レクイエム」ではない。第2次世界大戦後のスウェーデンで行われたこのライブ、第1楽章は不調である。第2楽章あたりから彼も興が乗ってきたらしく、中ほどのトゥッティの部分では大爆発を見せる。フルトヴェングラーのこうした録音は決して「音が悪い」訳ではないし、「音が悪いので感動できない」ということもない。この曲の聴きどころのひとつ、第3楽章の二重フーガ、最もうつくしい第4楽章も、幸い曲の主役がオーケストラではなく合唱団ゆえ、悪い録音ながらも十分に鬼気迫る彼の指揮振りが堪能できる。ストックホルム・フィルハーモニー合唱団のコーラスのレベルは高く、おそらくリハーサルでフルトヴェングラーに指示されたであろうことを、その通りの、しなやかな流れによる豊かな「歌」としている。第4楽章の清らかな美しさ。第6楽章後半のフーガのすばらしさ。各パートはオーケストラの楽器の一つとして扱われており、オーケストラと見事に融合する。テナーはチェロのように、ソプラノはヴァイオリンのように歌われている。第2楽章の弦楽器群の神々しい音色、第7楽章のヴァイオリンの麗しき高音は神々しい色彩に溢れていてすばらしい。ストックホルムのオーケストラの弦楽器群もウィーン・フィルのように艶やかだ。そうして1949年から、英EMIのためにウィーン・フィルと録音を再開することになるのだ。ナチスの顔色をうかがう必要もなく、聴衆も平和の暮らしの中で演奏会にやってくる。いよいよ、録音技術も優れたレコードのレコーディングでベートーヴェンの交響曲全曲がはじめられ、そして...ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」史上に燦然と輝く初の全曲録音を。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたヘルベルト・フォン・カラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とダニエル・バレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
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