34-22167

商品番号 34-22167

通販レコード→独ニュー・ニッパー黒文字盤

肉感に溢れながらもハイセンス ― 彼女のものすごい情熱、自在な表現、完璧なテクニックが見事にバランスした屈指の名演だ。似た傾向の演奏ではチョン・キョン・ファと双璧だろう。帝王ヘルベルト・フォン・カラヤンはアンネ=ゾフィー・ムターの演奏を聴き「奇跡のようなヴァイオリニストを発見した」と絶賛し、その場でカラヤンが主宰するザルツブルクの聖霊降臨祭音楽祭への出演が決まった。当時のカラヤンは優秀なヴァイオリニストを探していた。帝王の情報網に「13歳のすごい少女がいる」との噂が引っかかったのだ。1977年5月、初共演したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番は大成功した。これが大きな反響を呼び、翌78年2月には初録音をカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の伴奏で行った。この時、ムターは僅かに14歳だったが、デビュー・アルバムとなった「モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番、5番」で、すでに彼女は揺るぎのない安定した技術と大家のような風格を持っていた。こんにちの音楽家、とくにヴァイオリニストやピアニストは、国際コンクールでの経歴を売りにしてデビューする。まだ音楽家としての実績が何もないのだから、レコード会社も売りだそうとするには、コンクールでの成績を謳うしかない。しかし、当代一のヴァイオリニストにして「女王」の異名を持つムターは、大きなコンクールとは無縁の演奏家である。彼女にはチャイコフスキー・コンクールをはじめとする国際コンクールは必要なかった。「帝王が認めた少女」というキャッチフレーズがあれば、それで十分だったのだ。以後、帝王はこの少女しかソリストに起用しなくなるのだ。そして、ムターは20歳になるまでカラヤンとベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルッフ、チャイコフスキーといった超有名協奏曲を録音していった。「帝王カラヤンの秘蔵っ子」となったムターは、1980年代半ばには、世界的演奏家に成っていた。ピアノのゲザ・アンダ、ヴァイオリンのクリスチャン・フェラス、過去にカラヤンに可愛がられたソリストは一人も大成していない。それをカラヤンも意識していたのか、最後の秘蔵っ子ムターには「私の操り人形にならぬように」と意図的に共演を減らした。本盤は、帝王が委ねたムターと小澤征爾の初共演盤として注目された作品です。情熱的で力感に富みながら、技術的にも完璧にコントロールされたムターのヴァイオリンをサポートする小澤の、これまた完璧ともいえるオーケストラ・ドライブ。両者の美点が合致した見事な作品に仕上がっています。録音とも実に素晴らしい仕上がりだ。なお、ラロの「スペイン交響曲」はカットなしの全曲盤である。
  • Record Karte
  • 1984年5月、セッション、ステレオ録音。
  • DE EMI 26 348-3 ムター&小澤 ラロ・スペイン交響曲/…
  • DE EMI 26 348-3 ムター&小澤 ラロ・スペイン交響曲/…
ラロ:スペイン交響曲&サラサーテ:チゴイネルワイゼン
ムター(アンネ=ゾフィー)
EMIミュージック・ジャパン
2006-03-23

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小澤征爾は2002年、ボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。小澤は38歳の若さで1973年にボストン響の音楽監督に就任します。以来、その演奏は国際的なレーベル、ドイツ・グラモフォンから発売されるようになり、しかもこの国際的なレーベルから、その演奏が発売された日本人指揮者では小澤が初めてのことでした。大きなオーケストラに唯一人対峙する指揮者。NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団との事件は彼の指揮者として目指していくスタイルを確信させた。「世界のオザワ」がはじめて持った、「自分のオーケストラ」はトロント交響楽団で、1965年秋に音楽監督に就任した。欧米の名門オーケストラを若いうちから指揮する機会に恵まれたのは、小澤が物珍しい東洋人であったからだろう。遡ること、レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督と成っていた1960年。小澤はバーンスタインとパーティーで会うと、街に連れ出され、飲み明かした。小澤には知らされていなかったが、この時点で彼をニューヨーク・フィルの副指揮者にすることが内定していた。明るくスマートでアクも少なく、リズムの扱いもていねいで好感が持てる。このオーケストラは翌61年4月下旬に日本公演を予定しており、話題作りとして日本人を起用してみようと考えたらしい。 欧米のクラシック音楽の中心にはドイツ音楽精神が根強い。小澤の得意のレパートリーは何か、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるだろうか。それは近年の松本でのフェスティバルでもフランス音楽がプログラムの核であることでも貫かれている。ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲やバレエ音楽、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。小澤が着任した時のボストン響は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。しかし小澤自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。そこで重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど小澤が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタイン ― その後、彼は指揮者となり成功している。 ― はそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。それでも辛抱強く時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」は殆ど感じられない、工芸品の美しさに人種の息吹を知るといったふうに小澤らしさとは、メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。アグレッシヴで瑞々しい感性を持ち合わせていた頃の芸風を知るにも恰好の一枚です。
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