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商品名DE EMI 1C153-10-1295-3 オットー・クレンペラー ブラームス・「ドイツ・レクイエム」、悲劇的序曲、「アルト・ラプソディ」

クレンペラーの磨き抜かれた目が、ひたすらブラームスを凝視しているのではと思えてならない。 ― ドイツレクイエムと誰が名付けたか知りませんが、クレンペラーの磨き抜かれた目が、ひたすらブラームスを凝視しているのではと思えてならなくて、レクイエムとクレンペラーのイメージが重なり合って仕方ありません。欧米の音楽家が演奏を解釈する時に宗教の有り様は大きいと思われる。ユダヤ人であることでブルーノ・ワルターは命からがら渡米している。オットー・クレンペラーはユダヤ教から改宗している。そのことを問われて「いやいや、私たちには子供が二人います。アメリカで俳優をしているブルーノと、ここにいるロッテです」と言葉を濁しているので、カトリック教を選んだ本位はわからない。しかし、祖国イスラエルへの想いは強かったことも伝わっている。この「ドイツ・レクイエム」のタイトルには第二次世界大戦中には意味合いが変わったのだろうが、ブラームスが母親の死を悼んで作曲したラテン語の鎮魂歌の歌詞を借りた私的な思慕の想いで生まれた名曲。葬儀のための音楽ではなく、死、喪失感といったことよりも再生を予兆させる、どこか慰めに満ちた音楽です。ここでクレンペラーは、その歌詞に重ねて「死は勝利にのまれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」と戦争や紛争の虚しさを説いていると感じられてならない。
英 EMI の偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグの信条は、アーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏(録音)を数多く後世に残すことであったという。クレンペラーは、それに良く応えた。本盤も、そのような基準盤の一枚で、レッグの意図する処がハッキリ聴き取れる快演だ。クレンペラーの解釈は揺るぎのないゆっくりしたテンポでスケールが大きい。ゆったりとしたテンポをとったのは、透徹した目でスコアを読み、一点一画をおろそかにしないようにとも思いたくなる。この気迫の籠った快演は聴き手に感動を与えずにはおきません。また何度聴いても飽きません。フィルハーモニアはまさにクレンペラーの為にレッグが作り出した楽器だと言う事、しみじみと感じました。
フィルハーモニア管弦楽団(PHILHARMONIA ORCHESTRA LONDON) ― 英ロンドンを拠点とするオーケストラ。愛称は“ザ・フィル”。ドイツ・グラモフォンのベルリン・フィルや、DECCAのウィーン・フィル同様に、フィルハーモニア管弦楽団といえばEMIのレーベルが同時に思い浮かぶほどに、この楽団の演奏は随分レコードあるいはCDで聴いてきた。1945年にEMI(当時の英コロンビア)のプロデューサー、ウォルター・レッグが創設。レッグの主目的はやはり EMI のレコード録音のためのオーケストラを作ることにあった。設立当初から主にドイツ、イタリアから指揮者、独奏者を招いて盛んに活動した。優秀な演奏家の積極的な採用が効を奏し、例えば名ホルン奏者デニス・ブレインも創立当初から首席奏者を務めた。その後、R.シュトラウス、カラヤン、トスカニーニ、フルトヴェングラーなどの巨匠を指揮者に迎え、一躍ヨーロッパ楽壇で注目される。多くの録音を残したカラヤンと欧米各地に演奏旅行するほか、クレンペラー、ムーティ、シノーポリが首席指揮者に就任。97年にドホナーニ、2008年にエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者に着き、創設以来の“録音の多いオーケストラ”の伝統を堅守。96年以降、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールを本拠地として活躍している。
戦後、活動の場に窮したヘルベルト・フォン・カラヤンを英国に呼び、レコード録音で音楽活動が出来る場を用意したことで知られる。ウィーン国立歌劇場の指揮者だったカラヤンは、ウィーン・フィルの本拠地であるムジークフェラインザールで英EMIのために、モーツァルトを録音していた。フルトヴェングラーの急逝でカラヤンは、ウィーン・フィルとベルリン・フィルを手に入れるが、ウィーン・フィルが英DECCAと専属契約を結んでいたので、英EMIを去り、英DECCAの指揮者になる。カラヤンのレコーディング・オーケストラとしての印象は強いが、カラヤン中心になる前には英国のビーチャムに始まり、ドイツのクレンペラー、フルトヴェングラー、カラヤンを、さらにイタリアからはトスカニーニ、ジュリーニ、そして夭折したカンテッリなどが指揮台に立った。カラヤンがベルリン・フィルに行き、カンテッリが急死したこともあって、オットー・クレンペラーが浮上する。彼との関係は、1959年の常任指揮者就任から始まり、亡くなる73年まで14年間続くことになる。”録音の多いオーケストラ”の伝統は今も続いており、多い時は年間にセッション数250回にも及ぶこともある。これは色んな音楽、様々な指揮者の下で一定水準以上の演奏が可能になる実力を有することによってはじめて実現するものであって、ただ即応性があるだけでなくその裏には”高い演奏技術”と”柔軟性”が存する現れであるともいえる。
オーケストラの呼称は2度にわたり変更される。1964年に資金不足によりウォルター・レッグが手放して英EMIの専属が切れると、イギリスの自主運営となりニュー・フィルハーモニア管弦楽団に変更、その間例の幻の来日に終わったジョン・バルビローリとの万博公演時も”ニュー”の呼称であった。のち、1972年からリッカルド・ムーティが常任につき、5年後にもとのフィルハーモニア管弦楽団に戻している。そのため、アナログレコードとCDでの、オーケストラ名の表記は混乱を感じる。英COLUMBIAでレコード発売していた頃は、「 フィルハーモニア・オーケストラ、ロンドン」を名乗っていたことで、トーマス・ビーチャムが創設した「ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団」と間違われているケースがある。「フィルハーモニー管弦楽団」に戻ったムーティの後は、シノーポリが首席指揮者となり、1990年はシノーポリ、2007年はインバル指揮により、「マーラー・チクルス」東京公演を行う。1997年ドホナーニが首席指揮者に就任。2008年からはサロネンが首席指揮者およびアーティスティック・アドヴァイザー。サロネンはヘルシンキ生まれの指揮者、作曲家。絶え間ない革新によって、クラシック音楽界において最も重要な芸術家の一人とみなされている。iPadのアプリを開発、Apple社のCMに楽曲が使用されるなど先進的な試みも注目される。デジタル技術を使った教育や聴衆の開拓などにも先鞭をつける。現在はサロネンの他に、終身名誉指揮者にドホナーニ、桂冠指揮者にアシュケナージという陣容となっている。
1961年1月2日、3月21、23、25日、4月26日、ロンドン、キングズウェイ・ホール録音、名演、名盤。リーフレット付属。英国オリジナル盤は「ドイツ・レクイエム」のみでの発売。それに別の機会に録音された、悲劇的序曲、アルト・ラプソディを追加したドイツ・プレス盤。1974年リリース。2枚組。
DE EMI 1C153-10-1295-3 オットー・クレンペラー…
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