34-15672
商品番号 34-15672

通販レコード→独カラー・スタンプ・ドッグ盤[オリジナル]
重なりあう響きの多彩さや弱音の繊細さ、ゆったりした詩的な雰囲気など絶品中の絶品。 ― 夭折の天才という言葉があるが、若くして世を去った才能あるピアニストは少なくない。白血病で亡くなったディヌ・リパッティは享年33歳、飛行機事故で亡くなったウィリアム・カペルは享年31歳、肺がんで亡くなったアメリカのジュリアス・カッチェンは享年42歳だった。さらに彼らほど有名ではないが、自動車事故で亡くなったドイツのヴェルナー・ハースは享年45歳、同じく自動車事故死のイタリアのディノ・チアーニは享年33歳、ギリシャのニコラス・エコノムは享年40歳、エリザベート・コンクール優勝者という希有の才能の持ち主であるアンドレイ・ニコルスキーも36歳で自動車事故に遭い、世を去ってしまった。そしてエイズで世を去ったソ連のユーリ・エゴロフは享年34歳だった。クラシック音楽の世界で30歳代~40歳半ばで若くしてこの世を去ったピアニストを調べてみると、本格的活躍を前にして ― いずれも才能豊かなピアニストだったので彼らが存命だったら素晴らしいピアノ音楽を、もっと聴くことができたのに ― 早世した天才たちがいた。1975年の第7回エリザベート・コンクールで第3位に入賞したエゴロフは、前年のチャイコフスキー・コンクールで第3位に入賞している。音楽の原点としての、純粋な「音楽する」喜び ... それを聴く度に思い起こさせてくれるのがエゴロフです。エゴロフはロシア名作「ボリス・ゴドゥノフ」の歌でもおなじみの旧ソ連の都市カザンに、1954年生まれています。17歳の若さでロン=ティボー国際コンクール4位入賞。その後カザン音楽院からモスクワ音楽院に移ってヤコブ・ザークにピアノを学んだ彼は、各種コンクール入賞の後、政府からの圧力に耐え切れず、1976年の演奏旅行中にオランダに亡命し、以後アムステルダムを本拠に活発な演奏活動を開始する。その翌77年、アメリカで行われたヴァン・クライバーン国際コンクールに出場し予選落ちするが、これをきっかけにカーネギー・デビューを果たし、23歳でアメリカで活躍を開始、高名な批評家ハロルド・ショーンバーグからも高い評価を獲得、25歳の時には2枚のLPレコードがビルボードのクラシック・ベストセラーにチャート・インするほどの人気をアメリカでも博します。美しい和声に関する絶対的な天分を持ち、丁寧なタッチで柔らかでふわっとした膨らみがある音を聴かせるピアニストだった。彼の手にかかると、どの曲も、まるで初めて聴くかのように、新鮮な輝きをもって迫ってくる。エゴロフは魔法のようなタッチをもっている。豪気な中に青白いデリカシーが光るというのは並みのピアニストには求めようもないことで、ゾクっと鳥肌が立つほど純粋で美しく、私たちの耳を金縛りにする。彼の演奏はマンネリズムの対極に位置するもので、初々しいピュアな共感が満ち溢れている。音楽が生まれ出る瞬間の感動と喜び、それをこんなにストレートに伝えてくれる演奏家は稀で、こんなにピュアな音楽をするから神に愛でられてしまったのだ。
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ユーリ・エゴロフ(Youri Egorov)は正真正銘の天才であり、彼の高音の硬質な煌めきはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに匹敵すると思う。ものすごく上手いがそれがそう聞こえず、音楽だけが響いてくる。ことばのプレゼンで、やさしいことを難しく言うのは馬鹿であり、難しいことを難しく言うのは凡人であり、難しいことをやさしく言うのは達人とされる。エゴロフは達人の域にあった。1980年代に入ると活動の拠点をオランダに戻し、EMIやCANAL GRANDEを中心に録音を行ない、多数残されているほか、アムステルダムには彼の夭折を惜しんで「エゴロフ協会」という団体が出来て、彼のCDを出し続けている。シューマンの夢見るような感情の移ろいが、エゴロフのデリケートなタッチにそのまま映し出されているかのようで、ことに《謝肉祭》と《蝶々》、《色とりどりの小品》の評判がとても良い。端整な佇まいの中に、ありったけのロマンと香気が詰め込まれている。辺り一面に花が咲き乱れるような、言語を絶する美しさである。シューマンは子供のころから文学に強い関心をもっていた。その中でも、ドイツの幻想詩人ジャン・パウル・リヒターに強くあこがれており、シューマンが1829年から1831年にかけて書いた「蝶々、あるいはパピヨン、作品2」は、1834年9月頃から1835年の間に作曲された「謝肉祭、作品9」と並んで、シューマンの初期のピアノ曲でもっとも重要な作品となっている。夢想家のヴァルトと、情熱家のヴルトという、対照的な性格をもつ双子の兄弟が、同じ一人の女性に恋をする。そして仮面舞踏会の一夜、2人は、彼女がどちらを選ぶのかを見極めようと、物語は進んでいく。短い序奏と12の小曲から構成されている、この作品は、シューマン自身がジャン・パウルの小説「生意気ざかり」 を例にとった注釈を加えており、家族に宛てた手紙の中で、《パピヨン》は、この小説の終末、仮面舞踏会を、音で表わそうと試みた曲であることを記している。「蝶々」という題名の所以は明らかではないが、軽やかさ、優雅さ、ユーモア、曲調の変化が蝶々の飛ぶ姿を思わせるところから命名されたものであろう。この頃シューマンは、まだ手を痛める前の頃の作品なのでピアニスティックな技法も非常に華麗を極めており、とくに右手に与えた表現が見事である。「謝肉祭」は、『4つの音符による愛らしい情景』の副題があるピアノ小品集。恋人エルネスティーネ・フォン・フリッケンの故郷アッシュの綴り「ASCH」を音名表記した4つの音符、「A、Es、C、H」の中に自分の名前の綴り ― 「SCHumAnn」すなわち「Es、C、H、A」が含まれていることを自覚しながら作曲していた。
《謝肉祭》はエルネスティーネ・フォン・フリッケンへの恋愛感情から生まれたもので、第13曲「エストレラ」は彼女を表現した小品だが、彼女以外にも空想上の人物含め多くの人物が登場して、謝肉祭の仮面劇や仮装行列が展開される。第11曲「キアリーナ」は後のシューマン夫人クララ・ヴィークのことを示しているし、第12曲は「ショパン」、第16曲の「ドイツ風ワルツ」の間奏曲は「パガニーニ」である。空想上の存在からは「ダヴィッド同盟」の中心人物が第5曲「オイゼビウス」と第6曲「フロレスタン」に。第2曲「ピエロ」や第3曲「アルルカン」、第15曲「パンタロンとコロンビーヌ」らイタリアの仮面即興劇でお馴染みが目まぐるしく登場してくる。シューマン自身、音楽の情緒が急速に変化するため、聴衆はついて来られないかもしれないと考えていた。仮面舞踏会の体裁をとって、エルネスティーネに対する感情を隠しているような秘蜜めいてはいるが、第8曲と第9曲の間に配置されて、普段は演奏されない「スフィンクス」で「A、Es、C、H」「Es、C、H、A」「As、C、H」の音型がきちんと明示されて鍵となっていることがわかる。第1曲「前口上」の結尾が、第20曲「休息」で再現され、第21曲「フィリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進」へとつながる構成は実に鮮やか。標題が独創的で、登場するキャラクターが多く、性格も各々異なるので、全体的に渾然とした雰囲気があるのは、シューマンの文学的好みや夢想を磁場としているためだろうが、絶対音楽として比較的まとまっていても、それだけでは整理のつかない情緒的なものを持て余しても、どの小品もすぐ耳になじむメロディーで編まれている。とくに「ショパン」の甘い美しさは魅力的だ。映画などでここだけ演奏されることもある。詩的な美音の織物とでも言うべきユーリ・エゴロフの1981年の録音には惹かれる。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってヨハン・ゼバスチャン・バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がロベルト・シューマンの精神に好影響を与えたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララ・シューマンやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
Mozart/Schumann/Chopin: 1980 a
Youri Egorov
First Hand
2016-04-29

1982年、Youri Egorov's debut recording on Angel Recordings. EMI Angel Digital Recording. Recorded in England. Producer – John Fraser, Engineer – Peter Bown.
DE EMI 1C067-43 139 ユーリ・エゴロフ シューマン…
DE EMI 1C067-43 139 ユーリ・エゴロフ シューマン…