34-15628
商品番号 34-15628

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これは管弦楽法がすばらしいので、見事に鳴るんだ。しかし結局、魅力の秘密なんか考えてもしょうがないな。 ― ジムロック社からワルツ「皇帝円舞曲」の楽譜が出版されることを心から喜んでブラームスが語った言葉だ。ワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世の10大ワルツに数えられ、その中でも『美しく青きドナウ』と『ウィーンの森の物語』とともに3大ワルツに数えられる『皇帝円舞曲』は曲調壮大なワルツ幻想曲の趣があり、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなどはウィンナ・ワルツの中では唯一繰り返し取り上げた指揮者もいる。ドイツ帝国の首都ベルリンでケーニヒツバウ(国王の建築)と命名された新しいコンサートホールが開場することとなった時に、5日間にわたる柿落とし演奏会のために著名な音楽家たちに作曲・指揮の依頼が行われた。シュトラウス2世は『手に手をとって』という題名の曲を初演することが、当時のベルリンやウィーンの新聞が報じている。この演奏会には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とオーストリア=ハンガリー皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の臨席が予定されていた。五夜にわたる祝典演奏会の最初に指揮するという名誉ある要請であったことと、独墺両国の親善を祝う意味でつけられた曲名だった。のちにベルリンの楽譜出版社ジムロックが曲名を『皇帝円舞曲』と改めたほうがよいと強硬に主張し、シュトラウス2世がこれを受け入れたことで現在の曲名に変更された。ジムロック社の考えでは「皇帝」とは複数を意味する含みがあったようだ。発表されるとたちまちヨーロッパ中で評判になり、当時ウィーンで軍楽隊長を務めていたカール・ミヒャエル・ツィーラーは出版されたピアノ譜をもとにして自分で勝手に管弦楽曲に編曲し演奏してしまった。ツィーラーとシュトラウス2世は生前、互いに一番のライバルと言ってもよい存在でした。このツィーラーの行動にシュトラウス2世は激怒し、当時はすでに弟のエドゥアルト・シュトラウス1世に指揮活動をほとんど任せていたにも関わらず、ウィーン楽友協会で自ら指揮してウィーン初演を行った。もっともシュトラウス2世は当時オペラ『騎士パズマン』の作曲に取り組んでいて多忙だったことから、この依頼を断ろうとした。それを報酬が良かったことで腰を上げたぐらいだったので、ライバル心が火をつけた。ブラームスはシュトラウス2世の大親友だったが、彼は当時シュトラウス2世のことを年老いて創造力が減退したと思っていた。二重和声が付けられたシリーズや、普段から簡単な楽曲ばかりを作曲しているにも関わらずわざわざ「誰でも弾けるピアノ曲集」などと銘打ったシュトラウス2世のこの時期の作品群をブラームスは嫌っていた。「交響曲はブラームスが作曲するからいい」と言い、競い合うのを嫌ったヨハン・シュトラウス2世に、当時ベートーヴェンの正統な後継者と称えられていたブラームスは「シュトラウスの音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの流れを直接受けた主流である」と言っているし、ワーグナーは「彼はヨーロッパ音楽の最高峰の一つである。われわれの古典はモーツァルトからシュトラウスまで一筋に続いている」と評している。リヒャルト・シュトラウスは、「世界に歓びを分けあたえるべく天性の素質に恵まれている者のなかで、ヨハン・シュトラウスこそ、とりわけ私を惹きつけはなさぬ最高の人」と称賛しており、シュトラウス2世を思い浮かべることなしに『ばらの騎士』のワルツを生み出すことはありえなかったと言っている。未完に終わったが、マーラーはウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲を委嘱している。このように同時代の仲間から極めて高い評価を得ているにも関わらず、ワルツやポルカといった作品はしばしば「低俗」と見なされ、今日においてそれらの作曲家であるシュトラウス2世の知名度の割にはクラシック作曲家としての評価は一般的に高くない。1989年のニューイヤーコンサートの録音終了後、ソニー・クラシカルはCD発売権を得るために指揮者カルロス・クライバーに50万マルクという高額を提示した。この時、ドイツ・グラモフォンの元社長は「たかがダンス音楽に?だったらベートーヴェンの作品のCDを一枚出すのにどんな額になる?」との思いを抱いたというエピソードはその好例である。
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Side-A
  1. 「放浪者たち」序曲
  2. 謝肉祭の子供たち Faschingskinder, op.382
  3. われらの血の内にあるもの Das liegt bei uns im Blut, op.374
  4. 気も晴ればれと! Loslassen!, Op. 386
Side-B
  1. ウィーン娘 Weaner Madl'n, op.388
  2. ウィーン市民 Wiener Bürger, op.419
  3. 美しい野 Schönfeld, op.202
  4. 高く、そして低く Hoch-und nieder, op.372
ヴィリー・ボスコフスキー(Willi Boskovsky, 1909.6.16〜1991.4.21 オーストリア) ― 精妙で自在、血の通ったリズム、優しさと爽快さ、そして華麗でありながら哀感を帯びた達人の世界を表現した、その音楽はマンネリに陥らずいつも生気に満ち、生きる楽しさ、喜びを伝えてくれる。ボスコフスキーは、ウィーンの純美な音楽伝統の化身ともいうべき、まさに“ウィーン気質”の音楽家であった。ウィーンに生まれ、ウィーン音楽アカデミーに学び、1932年にウィーン国立歌劇場管弦楽団に入団、翌年からウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のメンバーとなり、1939年から1970年までコンサートマスターを務める傍ら、ボスコフスキー四重奏団(ウィーン八重奏団に発展)、ウィーン・フィル四重奏団を組織して室内楽演奏に勤しみ、母校で後進の指導にも当たった。1969年にウィーン・ヨハン・シュトラウス管弦楽団の指揮者に就任、さらにウィーン・モーツァルト合奏団やボスコフスキー合奏団を指揮して活躍した。ボスコフスキーの存在を忘れがたくさせているのは、何よりも1955年から1979年までウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートを弾き振りした時の、これぞウィンナ・ワルツの神髄ともいうべき優雅で爽快な名演によってである。1975年と79年のライヴ録音盤を含む「ウィンナ・ワルツ大全集」(1957〜79年、LONDON)と、ウィーン・モーツァルト合奏団を指揮したモーツァルトのセレナード&ディヴェルティメント全集(1967〜78年、LONDON)は、ともに永遠の遺産といえる。
1973年リリース、ステレオ録音。
DE EMI 1C037-03 460 ヴィリー・ボスコフスキー ツ…
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