ヴォルフの歌曲を愛する者にとって一生の宝物 ― とも言うべき名盤。先ずは世俗歌曲から聞いていただきたい。エリーザベト・シュヴァルツコップの歌う「わたしの髪のかげで」のユーモラスな表現に舌鼓を打った人はすでにヴォルフ・ファンの仲間入りをしていること請け合いである。ヴォルフの歌曲は曇天の空か、狐の嫁入りのような混沌とした感情が漂い、親しみやすいとか美しい旋律、陶酔といった要素とは縁遠いものだとも思えます。それが言葉として把握し難い感情の隙間を埋める漆喰かパテのようで、ひとたび傾聴すると親近感が湧きます。襟を正したり仰ぎ見なくても向こうから寄りそうような音楽に感じられます。精神を病んで療養施設に入れられたりで、43歳で亡くなったヴォルフなので、魅了されるのは程々がよいかもしれませんが、全世界を対象に発売する目的で、初めて立ち上げられたプロジェクトがウォルター・レッグ自身がその実現を何よりも渇望していた作曲家フーゴー・ヴォルフの歌曲集だった。あらえびす(『銭形平次』で有名な野村胡堂が音楽レコード評論を書くときのペンネーム)の『名曲決定盤』によると、初回予約目標500組に対して日本から120組の予約が寄せられたとのこと。最終的には200組以上の注文が日本から行ったそうです。それらのレコードは、戦火で焼失したのでしょうか。そのヴォルフを聴かないままで済ますのは、レコード愛好家を自称するには惜しいことである。この「フーゴー・ヴォルフ協会」の成功を受けて、次なる企画として、ベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ」と「協奏曲」の全集がアルトゥール・シュナーベルの演奏で立案された。この企画も日本からだけで2,000組を超える予約が集まり大成功となった。その後は、パブロ・カザルス演奏で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「無伴奏チェロ組曲」全曲録音へとなる。さて、ヴォルフは長くない生涯の中で5つの歌曲集に代表される多数の歌曲を残しています。ドイツ・リートのレパートリーを網羅的に録音したディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、ヴォルフの歌曲集を多いものは3度公式録音しています。彼はウィーン音楽・美術学校のリート・オラトリオ学科主任教授にして国際フーゴー・ヴォルフ協会の副会長でもありました。《スペイン歌曲集》の詩は、16~17世紀のスペイン語の詩をドイツの文豪エマニュエル・ガイベル(Emanu Geibel, 1815〜1884) とパウル・ハイゼ(Paul Heyse, 1830〜1914) がドイツ語に訳したもので、彼ら自らが創作した詩も紛れていると言われています。いわゆる「ドイツ歌曲」なのですが、ヴォルフが選んだ詩によって、反映されてくるものはドイツ辺りの人々がイメージするエキゾチックな遠くの異国スペインです。絶望して叫ぶ男の恨み節と、男を横目に見ながら相変わらず妖艶で魅力的な女の歌が交互にテンポ良く進みます。男は大袈裟に声を荒げて嘆きます。かわいそうです。次に続く女の歌が強気に気取っているように仕草が思い浮かんで愉快です。
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フーゴ・ヴォルフ(1860〜1904)は少々厄介な人物で、子供の時も音楽学校を退学になったり、対人関係が苦手なのか、捻くれてるところがあったり、引きこもりだったり、世間からは「素人作曲家」と呼ばれています。ヴォルフが自分の作品を携えてブラームスを訪ねた時に、もっと音楽の世界を広げた方がよいという助言をもらった。また、ベートーヴェンの作品を研究していたグスタフ・ノッテボームの下で、対位法に習熟するためのレッスンを受けるべきとも言われた。それがヴォルフには自分への批判のように聞こえたため、ワーグナー派とブラームス派との対立に便乗する形となった。また、「クレンペラーとの対話 ピーター・ヘイワース編 [白水社]」の中に、オットー・クレンペラーがマーラーと話している時に「ヴォルフは偉い作曲家だと思います」と口にすると、マーラーが怒ったような表情になったので「失礼しました、私の私見に過ぎません」とか慌てて言い直した、という話が出てきます。マーラーと同じ年に同じく当時のオーストリア領で生まれ、ウィーンで学んだことから名前は目にしますが、作品と悲劇的な最期を別にすれば、ヴォルフの人生は、熱意があっても成功しなかった他の音楽家と大差無かった。感受性に富み、気難しい性格が職業上の成功の妨げになった。収入のほとんどは、批評家達や彼の歌曲を紹介してくれる歌手達といった小さな友人グループの粘り強い努力と、ウィーン・アカデミーのワーグナー協会や1887年にウィーンで設立されたフーゴ・ヴォルフ協会の支援であった。ヴォルフの歌曲は大半が短く、「機智的な恋愛即興詩」で、恋愛に関わる揶揄、嫉妬、揶揄、痴話げんか、献身等々を内容とした短い詩を題材にしています。思い入れが激しい人で、それは人物にも、作品にもなのですが、気に入った詩集があったら一気に大量に書くものだから、ひとつひとつの歌曲集が巨大。その各曲は独立しているので、歌う順番は演奏者が決めるものです。連作歌曲として作曲されたものがあるのかないのか、どの順番でも音楽の流れが馴染むのも不思議な魅力です。果たしてヴォルフは、全曲演奏される機会を想定していたか。全曲演奏を想定はしてないけど、曲順には何かしらの意図があるのか。はたまた、意図なく気が向いた順に並んでるのか。曲順を入れ替えて、新たにストーリーを演出して全曲を聴かせる録音もあり、舞台演出を交えた演奏会もあるのですが、書きなぐったような曲でも、考え抜いて書き上げられたものかもしれません。また話が繋がっているわけではありませんが、流れを感じます。筋道立ててしまうと気恥ずかしく思わせてしまって、機嫌を悪くしてしまうかもしれない。
本当の意味での世紀末ウィーンの情緒が匂い立ってくる ― リリック・ソプラノの範疇に入るだろうか、優しくも羽毛のような歌声。単に耳に優しいだけではない。21世紀に入り惜しまれつつ亡くなったエリーザベト・シュヴァルツコップは、様々な役柄において持ち前の名唱を余すことなく披露した。シュヴァルツコップは戦中にカール・ベームに認められてウィーン歌劇場でデビューを飾っているが、彼女の本格的な活動は戦後、大物プロデューサーのウォルター・レッグに見いだされ、その重要なパートナーとして数多くの録音に参加したことによる。1953年に、英コロムビア・レコードのプロデューサーだったレッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、EMIとの専属録音契約を交わした〝歌の女王シュヴァルツコップ〟を作り上げた。ワンマン・エゴタイプの厳しい人物で、そのレパートリーの多くはレッグが決定していたそうで、そのようなことを彼女自身が語ってもいる。レッグは夫ともなったが、シュヴァルツコップの歌に惚れ込みEMIに数々の録音を残したことの功績は大きい。そして、シュヴァルツコップは大プロデューサーであったレッグの音楽的理想を体現した歌手の一人であったと思う。当時は、「オペラ歌手」を自認する歌手たちは、決してオペレッタの歌を歌おうとはしませんでした。たとえ録音であったとしてもオペレッタを歌うオペラ歌手を、マリア・カラスは心底馬鹿にしていましたし、その事を隠そうともしませんでした。彼女はオペラ歌手たるもの、オペレッタの甘ったるい歌などは歌うべきではないという固い信念を持っていました。そして、その批判の矛先こそがオペレッタを歌う、このシュヴァルツコップでした。実際、シュヴァルツコップによるオペレッタの歌唱は、未だに誰も超えることのできていない一つの頂点であり続けています。その素晴らしさのよって来るべきところは、オペレッタだからと言って、一切の手抜きをしないで自分のもてる技術のすべてを注ぎ込んでいる「真面目さ」にあります。言葉の意味を一語一語慎重に吟味しつくし、歌の背後にある深い意味までを掘り下げる。その知的な歌いぶりは、作品によってはまると絶大な感動を呼び覚ます。そのような品の良さと凛とした気高さを持っているが故に、シュヴァルツコップの真摯な歌の中からこそ本当の意味での世紀末ウィーンの情緒が匂い立ってくるのです。1950年代後半はシュヴァルツコップが録音に積極的に取り組んだ時期、だがオペラでは役を限定しつつある頃で、この後はオペラを離れドイツ・リートの分野で輝く。彼女の厳かな歌によるこれらの歌は、本当に心を清くさせてくれるものでしょう。マルシャリンは新しい歌手の新しい歌によって凌がれても、これはどうも凌がれそうにない。
Hugo Wolf - Das Spanische Liederbuch – Elisabeth Schwarzkopf · Dietrich Fischer-Dieskau, Gerald Moore
Side-A Geistliche Lieder 聖歌曲集Side-B Weltliche Lieder 世俗歌曲集
- Nun Bin Ich Dein, Du Aller Blumen Blume 今こそわたしはあなたのもの
- Die Du Gott Gebarst, Du Reine 神をうみたもうたあなた
- Nun Wandre, Maria, Nun Wandre Nur Fort さあ、歩くのだよ、マリア
- Die Ihr Schwebt Um Diese Palmen 棕梠の樹をめぐって飛ぶものたち
- Führ' Mich, Kind, Nach Bethlehem 御子よ、ベツヘルムへお導きください!
- Ach, Des Knaben Augen Sind Mir So Schön ああ、幼な児の瞳は
- Mühvoll Komm Ich Und Beladen 罪を負い、辛苦の果てにわたしは来ました
- Ach, Wie Lang Die Seele Schlummert ああ、心のまどろみの長かったこと!
- Herr, Was Trägt Der Boden Hier 主よ、この地には何が芽生えるのでしょう
- Wunden Trägst Du, Mein Geliebter 愛する方、あなたは傷を負われて
Side-C Weltliche Lieder
- Klinge, Klinge, Mein Pandero ひびけ、ひびけ、わたしのパンデーロ
- In Dem Schatten Meiner Locken わたしの髪のかげで
- Seltsam Ist Juanas Weise フアーナは変な娘だ
- Treibe Nur Mit Lieben Spott 恋人をすきなだけからかうんだね
- Auf Dem Grünen Balkon みどりの窓からあの子が
- Wenn Du Zu Den Blumen Gehst きみが花苑へ行くのなら
- Wer Sein Holdes Lieb Verloren くどき方も知らなくて
- Ich Fuhr Über Meer 海を行こうと
- Blindes Schauen, Dunkle Leuchte 愛のために目の見えなくなった人
- Eide, So Die Liebe Schwur どんなに恋人がそう誓っても
- Herz, Verzage Nicht Geschwind 心よ、落胆するのはまだはやい
Side-D Weltliche Lieder
- Sagt, Seid Ihr Es, Feiner Herr あれはあなただったのね、ご立派なお方
- Mögen Alle Bösen Zungen 口さがないひとたちにはいつも
- Köpfchen, Köpfchen, Nicht Gewimmert おつむよ、おつむよ、うめくんじゃないの
- Sagt Ihm, Dass Er Zu Mir Komme あのひとにわたしのところへ来てと言って
- Bitt' Ihn, O Mutter ああ、お母さん、頼んでちょうだい
- Liebe Mir Im Busen Zündet 愛がわたしの心に
- Schmerzliche Wonnen 苦しい至福と至福の苦しみ
- Trau' Nicht Der Liebe 愛など信じてはだめよ
- Ach, Im Maien War's ああ、それは五月のことだった
- Alle Gingen, Herz, Zur Ruh すべてのものは、心よ、憩っている
- Dereinst, Dereinst, Gedanke Mein いつの日かぼくの想いは
- Tief Im Herzen Trag' Ich Pein 心深くに苦しみを秘めていても
- Komm, O Tod, Von Nacht Umgeben 来れ、おお、死よ
- Ob Auch Finstre Blicke Glitten 憎々し気な眼つきでぼくを見ようと
- Bedeckt Mich Mit Blumen わたしを花でつつんでね
- Und Schläfst Du, Mein Mädchen 恋人よ、まだ眠っているのなら
- Sie Blasen Zum Abmarsch 進軍のラッパが鳴っている
- Weint Nicht, Ihr Äuglein 泣くんじゃない、お眼々さん!
- Wer Tat Deinem Füsslein Weh だれがきみのあんよを傷つけた
- Deine Mutter, Süsses Kind かわいい恋人よ、おまえの母は
- Da Nur Leid Und Leidenschaft 燃える心に苦しむのも
- Wehe Der, Die Mir Verstrickte Meinen Geliebten わたしの恋人を誘惑したひとは
- Geh, Geliebter, Geh Jetzt さあ、もう行くときよ、わたしの恋人!
エリーザベト・シュヴァルツコップ(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf)は1915年12月9日、ドイツ人の両親のもとプロイセン(現ポーランド)のヤロチン(Jarotschin, 現Jarocin)に生まれたドイツのソプラノ歌手。ベルリン音楽大学で学び始めた当初はコントラルトでしたが、のちに名教師として知られたマリア・イヴォーギュンに師事、ソプラノに転向します。1938年、ベルリンでワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』で魔法城の花園の乙女のひとりを歌ってデビュー。1943年にウィーン国立歌劇場と契約し、コロラトゥーラ・ソプラノとして活動を始めます。第2次世界大戦後、のちに夫となる英コロムビア・レコードのプロデューサー、ウォルター・レッグと出会います。レッグはロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』のロジーナ役を歌うシュヴァルツコップを聴いて即座にレコーディング契約を申し出ますが、シュヴァルツコップはきちんとしたオーディションを求めたといいます。この要求に、レッグはヴォルフの歌曲『誰がお前を呼んだのか』(Wer rief dich denn)を様々な表情で繰り返し歌わせるというオーディションを一時間以上にもわたって行います。居合わせたヘルベルト・フォン・カラヤンが「あなたは余りにもサディスティックだ」とレッグに意見するほどでしたが、シュヴァルツコップは見事に応え、英EMIとの専属録音契約を交わしました。以来、レッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、1953年に二人は結婚します。カール・ベームに認められ、モーツァルトの歌劇『後宮からの誘拐』のブロントヒェンやリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタなどハイ・ソプラノの役を中心に活躍していましたが、レッグの勧めもあって次第にリリックなレパートリー、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』伯爵夫人などに移行。バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭にも出演し、カラヤンやヴィルヘルム・フルトヴェングラーともしばしば共演します。1947年にはイギリスのコヴェントガーデン王立歌劇場に、1948年にはミラノ・スカラ座に、1964年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー。1952年には、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』の元帥夫人をカラヤン指揮のミラノ・スカラ座で歌い大成功を収めます。以来、この元帥夫人役はシュヴァルツコップの代表的なレパートリーとなります。オペラ歌手としてもリート歌手としても、その完璧なテクニックと、並外れて知性的な分析力を駆使した優れた歌唱を行い20世紀最高のソプラノと称賛されました。ドイツ・リートの新しい時代を招来したとまで讃えられシューマンやリヒャルト・シュトラウス、マーラーの歌曲を得意とし、中でもとりわけヴォルフの作品を得意とし、1970年代に引退するまで男声のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウと並んで最高のヴォルフ歌いと高く評価されています。1976年にオペラの舞台から、1979年には歌曲リサイタルからも引退し、後進の指導にあたっていました。2006年8月3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去。享年90歳。
- Record Karte
- 1966年12月、1967年1月録音。1968年度レコードアカデミー賞声楽曲部門受賞。Engineer [Recording Engineer] – Harald Baudis, Recording Supervisor [Artistic Supervision] – Hans Ritter, Rainer Brock.
YIGZYCN
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