34-7841
商品番号 34-7841

通販レコード→独チューリップ盤 MADE IN GERMANY
愛しいあなたに誇れる作品を書こう ― ヘルベルト・フォン・カラヤンの力の発散とベートーヴェンの天井知らずの生命力が見事に一致した決定的名演。東京オリンピックが楽しみとされた2020年。この年の2月、新型コロナウイルスが確認されて、開催の見合わせを余儀なくされ、クラシック音楽界全体もこの2020年の〝楽聖〟ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの生誕250年に各地予定されていた大イベントは話題に終わった。生誕275年となる、2045年はどのような年になるのだろう。さて、今日から紹介するレコードは、ベートーヴェン生誕200年を前に、1961年から62年にかけてベルリンのイエス・キリスト教会でおこなわれたセッション録音。1951年から5年間かけて完成させた、英EMIでのフィルハーモニア管弦楽団との初のベートーヴェン交響曲全曲録音から6年。今度はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が相手ということでヴィルヘルム・フルトヴェングラーの亡霊を前に躍起になってあがいているカラヤンの姿が、50年以上前の録音だというのに熱気とか活力とか、そういったものを発散させる表情までわかるようだ。50歳代半ばだったカラヤンが、まだドイツ・ローカルな雰囲気を残す木管ソロの音色で実に味のある演奏を聴かせていた頃のベルリン・フィルを指揮して完成させた力作です。1960年代のレコードで聴くカラヤンとベルリン・フィルの音が、フルトヴェングラーとは明快に違うところはティンパニの扱いだ。それは小澤征爾もサイトウキネンオーケストラで重要視していた。リズムが命の〈8番〉ではとくに効果が出ている。自分の思い通りにオーケストラをドライブするという技術において、カラヤンの右に出る者はいないと本盤を聴くたびに思います。ベートーヴェンが完成させた9つの交響曲のうち、〈8番〉だけは誰にも献呈されていない。この事実は、誰かのために作曲されたわけではないことを意味するのだろうか。それとも、献呈する相手がいなくなったことを意味するのだろうか。この〈8番〉は、標題のない7番と比べても人気曲とは到底言いがたい。もしかするとベートーヴェンの交響曲中、最も聴かれる回数が少ない作品なのではないか。ところがベートーヴェン自身は、この曲を気に入っていたという。〈8番〉を聴いて、いつも感じるのはベートーヴェン自身の激しい鼓動である。カラヤンの圧倒的な統率力、オペラ座付きのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と違って、コンサート・オーケストラの機能美を最大引き出してダイナミクスな音楽を展開している。ベートーヴェンはベルリン・フィルの得意とする作曲家ですが、その最初の交響曲全集は、アンドレ・クリュイタンスの指揮によって1957年から1960年にかけてイギリスEMIが録音したものでした。これは、カラヤンがフィルハーモニア管とEMIに録音していたため、1957年開始だと再録音の間隔が短すぎたことが要因と思われます。そうした事情もあってか、ここでのカラヤンの指揮ぶりは、ほとんど前のめり気味なまでの意気軒昂ぶりをみせるものとなり、ダイナミックでスピード感のある音楽づくりが当時のカラヤンの覇気をよく伝えています。
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ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。 ― レナード・バーンスタイン(指揮者)
ヘルベルト・フォン・カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得し、どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。レガートを徹底的に使用し高弦を鋭くさせ、1960年代後半からはコンサート・マスターを2人おき、コントラバスを最大10人と大型化することによりオーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。指揮者という職業は19世紀半ばまでは存在していなかった。それまで何世紀もの間、オーケストラは指揮者なしでも十分に機能していた。演奏をリードするのはコントラバスで、オーケストラは指揮者がいなくても困らないけど、コントラバス抜きでは話にならない。メロディを引き立たせるのが和音。ドミソドという4つの音から成る和音の場合、その一番下のドが根音になり、主音とも言う。その根音を奏でるのがコントラバスの役割。コントラバスはオーケストラ全体の基礎であり、メロディを奏でるのはほかの楽器であっても、コントラバス奏者が彼ら以上にメロディを理解・想像し、それを誘うような根音を出せないと、メロディがその上にうまく乗っかれない。したがって、曲の節目、節目で根音を担うコントラバスはオーケストラの舵取り役とも言えるのです。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツは当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。ベルリン・フィルがオペラを録音する意欲をみせ、1966年からカラヤンが望みうる最高の歌手を集め、4年がかりで完成させたワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の全曲盤は当時、室内楽的緻密さに満ちたワーグナーと言われた。
ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。 ― レナード・バーンスタイン(指揮者)
歴史と伝統があるオーケストラには時代ヽヾに優れた名物ティンパニー奏者がいた。その打音をきくだけで、どこの楽団のだれそれと解るという。1960年代前半にセッション録音されたヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏は、どの演奏も素晴らしいのですが、この交響曲〈8番〉もそうなのです。カラヤンの手にかかると、どんな作品にもダイナミックなドラマが生じる。曲はよく物語にもたとえられますが、この物語を構成しているのが和音であり、和音が連結していくことで、文章で言うところの起承転結が生じる。曲はそもそも和音とリズムで構成されています。誤解を恐れずに言うならば、メロディはその上に乗っかる装飾のようなものなのです。カラヤン全盛時はヴェルナー・テーリヒェンとオスワルト・フォーグラーのふたりだ。1960年代はテーリヒェンの独壇場で、カラヤンとベルリン・フィルとの名演ではほとんど彼が叩いた。彼は1949年から35年の長きにわたってフルトヴェングラーとも演奏活動をしたことのある名手だが、ふたりの間で見解の相違が出始め、徐々にカラヤンはテーリヒェンを遠ざけるようになる。70年代以降に入ると、テーリヒェンより激しくタイトな音を出すフォーグラーを重用することが顕著となり、やがてテーリヒェンはベルリン・フィルを去る。あるトランペット奏者は「フォーグラーが入ってから、ティンパニの音が硬くなったね。」と語っている。打音の強弱だけでなく、たとえば少し早く鳴らすとオーケストラの音が固く聞こえ、ほんの少し遅らせると全体に柔らかく聞こえる。オーケストラの中央奥に控え、要所やクライマックスには必ず顔を出して音楽を大いに盛り上げ、引き締める。交響曲であれ、オペラであれ、協奏曲であれ、そんなコントラバスやティンパニがなければ曲がまったく盛り上がらないのも事実です。時として、指揮者よりも確実に一撃でアンサンブルを立て直すことが出来る。それは優れたティンパニー奏者による離れ業である。まさにオーケストラの花形といえる。いずれにしてもカラヤンの全盛期のパーカッションを支えたのはこの二人のティンパニ奏者であったことには違いない。
Symphonie Nr. 8 F-dur Op. 93
  • Side-A
    1. 1. Satz: Allegro Vivace E Con Brio
    2. 2. Satz: Allegretto Scherzando
    3. 3. Satz: Tempo Di Menuetto
    4. 4. Satz: Allegro Vivace
  • Side-B
    1. Ouvertüre Zu »Fidelio« Op. 72b
    2. Ouvertüre Leonore III Op. 72a
    3. Coriolan-Ouvertüre Op. 62
第二次世界大戦は日本軍の無条件降伏、ポツダム宣言で集結したが終わっていない戦いもあった。戦後、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの勢力下、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で演奏することさえ制限されたカラヤン。そこへ救いの手を差し出したのが英国EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグだった。ヘルベルト・フォン・カラヤンのレコーディング専用オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団でたくさんのレコードを発売。劇場での指揮は出来ずとも、レコードでカラヤンの名前は全世界に知られるようになる。ただカラヤンの悪い虫が騒いだというのか、オーディオへの関心を深めることになった。そして彼はステレオ録音を希望したが、折り悪く英国EMIの経営陣はステレオ録音に懐疑的だった。不満を払拭できないままカラヤンはEMIとの契約更新を曖昧に引き伸ばしていた。そうこうしていると、1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーが急死。カラヤンはウィーン・フィルに復帰できた。以来、名門ウィーン・フィルとも生涯深い関係を築く事になるのだが、しかし、ウィーン・フィルは英国DECCAと専属関係にあったので、カラヤン指揮ではレコードを作れない。そこに接近してきた英国DECCA社では、1959年にEMIと契約の切れたカラヤンと契約。そのことでカラヤンは、この愛すべきオーケストラとの録音をドイツ・グラモフォンではなく、イギリス・デッカと行いました。また、フルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、レッグは未来の演奏会やアーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏を数多く後世に残すことであったという。ここで英EMIの親分レッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニア管のレコードの数々で、この基準となるようなレコード作りをレッグから嫌と言うほど学んだカラヤンは、1959年以降この手兵ベルリン・フィルとともにドイツ・グラモフォンに膨大な数の基準レコード作りに邁進した。
彼は1973年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて6度目の来日をしたが、毎回のように大きな話題を呼び、毎回のように〝カラヤン旋風〟を湧き起こしている。時代が選んだ、ヘルベルト・フォン・カラヤンは世界の音楽の帝王である。オーストリアのザルツブルクに生まれ、モーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んで、19歳のとき指揮者としてデビューした。ウルム歌劇場、アーヘン歌劇場の指揮者を歴任した後、1938年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に迎えられ一躍名声を高めた。その頃彼は〝ドイツのトスカニーニ〟とも呼ばれ、ウィーン交響楽団の指揮者をつとめて大好評を博した。1955年からはベルリン・フィルの常任指揮者に迎えられ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの影響が大変強かったこのオーケストラを自分の意のままに、いわば自分の楽器のように作り上げたのである。ちなみに1959年頃のカラヤンは、ベルリン・フィル終身指揮者、ウィーン国立歌劇場総監督、ウィーン楽友協会終身指揮者、ザルツブルク音楽祭総監督といった具合に、それこそヨーロッパ音楽界の重要なポストを独占して〝帝王〟の名を欲しいままにしていた。1967年からは、自らザルツブルク・イースター音楽祭を主宰、1969年からはパリ管弦楽団の音楽顧問に就任、カラヤン指揮者コンクールも自ら開催し、若手指揮者の育成にも努め、目覚ましい活躍ぶりを示している。彼のレパートリーは古典から現代音楽に至るまで、非常に広い。カラヤンの表現は極めてスケールが大きく、現代的な感覚と知性に裏づけられた明快な演奏は絶妙といって良い。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(オーストリア 1908〜1989)はその魅力的な容貌と優雅な身のこなしでたちまちにして聴衆の人気をとらえ、たんにこの点から言ってもその人気におよぶ人はいない。しかも彼の解釈は何人にも、そのよさが容易に理解できるものであった。芸術的に高度のものでありながら、一種の大衆性をそなえていたのである。元来レパートリーの広い人で、ドイツ系の指揮者といえば大指揮者といえどもドイツ音楽にかぎられるが、カラヤンは何をやってもよく、その点驚嘆に値する。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。広く親しまれた名曲を最高の演奏でレコード化することに情熱を傾け続けた彼の姿勢は、このアルバムにも端的に示されています。何れも全体に覇気が漲っていて、弦も管も美しく技巧的にも完成度は高い名盤を量産。後のEMIやDGGのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤にはない魅力タップリのまったく聴いていてダレるような箇所がない。カラヤンの指揮する曲は概して大胆さや迫力にプラスして、丁寧でかつ美しいということです。とりわけ、ゆっくりのテンポの美しい旋律は、カラヤンの最も得意とする部分だと思います。例えば、怒濤のような旋律の中で、ぱっと花が咲くように美しいメロディーが流れる。この点にかけては、カラヤンは見逃さず見事に再現している。彼一流の粘り、盛り上げはすでに十分。カラヤンの圧倒的な統率力を持ってして、オペラ座付きのウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と違って、コンサート・オーケストラの機能美を最大引き出してダイナミクスな音楽を展開している。1960年代初頭の録音で、ベルリンのイエス・キリスト教会が録音ロケーションになっていました。当時は初期のステレオですが、なかなか臨場感がありカラヤンも颯爽とした壮年期で、 前任者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの時代の余韻の残るオーケストラと推進力あふれるカラヤンの指揮が見事にマッチした演奏です。とにかくダイナミックスの幅が広く鮮やかで迫力満点。牧歌的な部分から迫力ある部分まで表現の幅が広く、リズムも引き締まっています。演奏はオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで完全主義者だったウォルター・レッグのノウハウが100%、DGGに流出したと言っても良い出来栄えも隙が無い。DGGの製作人の中で燦然と輝く指揮者としても活躍のオットー・ゲルデス&ギュンター・ヘルマンス製作盤。
録音は1962年1月23日ベルリン、イエス・キリスト教会でのステレオ・セッション。Producer – Otto Gerdes, Recording Supervisor – Otto Ernst Wohlert(Side-2の3曲の序曲), Engineer – Günter Hermanns. 初出は交響曲第9番との組み合わせ。
DE DGG SLPM139 015 カラヤン ベートーヴェン・交響…
DE DGG SLPM139 015 カラヤン ベートーヴェン・交響…