時代小説家の池波正太郎は鬼平犯科帳の中で「女には昔なんかない、今が全て」と鬼平に言わせている。 ― ナポリ国王の命令で戦場に行くことになった青年士官フェルランドとグリエルモは、老哲学者ドン・アルフォンソの「女は必ず心変わりする」との主張に対して、「自分たちの恋人に限ってそんなことはない」と言い争う。そこでお互いの恋人を入れ替えて、女達を試そうと目論む。港に船が着き、兵士たちが出発する。航海の無事を祈るフィオルディリージとドラベッラの姉妹のもとに、変装したフェルランドとグリエルモが現れ、フェルナンドはフィオルディリージに求婚し、グリエルモはドラベッラに求婚する。姉妹の女中デスピーナは、「男はほかにもいるでしょう」と姉妹を炊きつける。モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」第1幕第7番 ― スザンナ、バジリオ、アルマヴィーヴァ伯爵の三重唱で、テーブルかけを持ち上げると隠れていたケルビーノが出てきて、伯爵が「こりゃ何たることじゃ!」とびっくり、はたしてスザンナは「ああ、どうしましょう。神のおぼしめしに任せましょう」と腹をくくると、すかさずバジリオが「女はみんなこうしたもの(Così fan tutte)。とりたてて珍しいことではござらぬ」と言い捨てる。「コジ・ファン・トゥッテ」は、このバジリオの言葉を題名にした喜劇です。このような一見ナンセンスとも言える題名と喜劇のせいで、19世紀には大分低俗な歌劇と見られていたそうです。でも、モーツァルトのオペラ作品全てが素晴らしい古典作品となっていますが、これはダ・ポンテの台本にモーツァルトが作曲した三部作だけに、前作からの引用も容易であったと推測しています。その「コジ・ファン・トゥッテ」の中に「ドン・ ジョヴァンニ」を見出し、更に「ドン・ジョヴァンニ」の中に「フィガロの結婚」を見出した訳ですから、モーツァルトのオペラの原点は「コジ・ファン・トゥッテ」にあるというのが私の持論で、「コジ・ファン・トゥッテ」こそモーツァルトのオペラ作品の最高峰であると確信しています。登場人物の数が少なく、しかもそれが一対ずつの組に分けられているために、それぞれが特徴あるアンサンブルとなっており、このオペラ独特の美しさは、このアンサンブルによるものだと思います。姉妹の性格もよく承知しているのでデスピーナこそ、この物語の主役と考えるならエリカ・ケートははまり役だ。アンサンブル・オペラと呼ばれてきたこのオペラで一番面白く、活き活きと描かれているのは悪巧みを知っているデスピーナで、歌も面白いアリアがあり、女声版レポレロと見做されている存在です。加えてディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウも芝居がかった台詞回しをするので、悪巧みなオフザケが実に愉しそう。オイゲン・ヨッフムは過度にはオーケストラを鳴らさないが、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団がアンサンブルの整った演奏で理知的に音楽を味あわせてくれている伝説的とも言える地位を確立しています。名演と言うより熟演と呼びたい。
イルムガルト・ゼーフリート(ソプラノ)、ナン・メリマン、エリカ・ケート(ソプラノ)、エルンスト・ヘフリガー(テノール)、ヘルマン・プライ(バリトン)、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、RIAS室内合唱団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1962年録音。3枚組。
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オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum, 1902年11月1日〜1987年3月26日)は、バーベンハウゼン生まれ。アウグスブルク音楽院でピアノとオルガンを学び、1922年よりミュンヘン・アカデミーでハウゼッガーに指揮を学ぶ。1949年にバイエルン放送交響楽団の設立に関わり、音楽監督を1960年まで務め同楽団を世界的レベルにまで育てた。演奏スタイルに派手さはなく地味ではあるが、堅固な構成力と真摯な態度、良い意味でのドイツ正統派の指揮をする。やはり本領はバッハ及びロマン派音楽と思われる。彼は音楽を自己の内心の表白と考える伝統的ドイツ人で、したがってバッハ、ブルックナー、ブラームスに於いては敬虔な詩情を迸っている感動的な名盤を生むが、モーツァルトの本質を探ろうとするほどに湧き溢れて来るがごとき心理的多彩さや、ベートーヴェンの英雄的激情、それにリヒャルト・シュトラウスの豊麗なオーケストラの饒舌を表現するには乏しい結果となっている。ヨッフムがはたして、すでに成長すべき極言まで達してしまった人なのか、それともさらに可能性が期待できるのか、いつまでも巨匠の風貌に至らないのが、好感とともに焦燥を禁じえないが、おそらく同世代のカール・ベーム、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、ヘルベルト・フォン・カラヤンたちに比べれば個性と想像力において弱く、名指揮者にとどまるのではないかと思われた。ところが、後年のヨッフムの録音活動の活発さは目を引いた。戦前のSPレコードでは、わずかにテレフンケンのベートーヴェンの「第7」「第9」ほどだったのと比べて、彼が晩年型の指揮者と称されることを簡易に理解できる面だろう。ベルリン放送交響楽団(1932~34年)、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(1934~49年)、バイエルン放送交響楽団(1949~60年)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1961~64年)、バンベルク交響楽団(1971~73年)とオーケストラ首席指揮者を務めた変遷を見ると、バイエルン放送響以外は短いのに気づくが、同時に2つのオーケストラを兼務することをしていないことも見て取れる。そうした、一つ一つの歴任を経て来たことは彼の律儀な性格のあらわれかも知れない。
でも彼の真価が本当に発揮されるのは1970年代に入ってからで、幾つかの楽団を渡り歩いたのちの70歳代になってからである。シュターツカペレ・ドレスデンとの「ブルックナー・交響曲全集」やロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との「ブラームス・交響曲全集」、そしてロンドン交響楽団との「ベートーヴェン・交響曲全集」をのこしたのもすべてこの時代である。ヨッフムは若い頃からブルックナー作品に熱心に取り組み、やがてブルックナー協会総裁も務めるなど権威としてその名を知られるようになります。交響曲全集も2度制作しているほか個別の録音も数多く存在しますが、晩年に東ドイツまで出向きシュターツカペレ・ドレスデンを指揮してルカ教会でセッション録音したこの全集は、独墺でのさまざまなヴァージョンによる演奏など、数々の経験を膨大に蓄積したヨッフム晩年の方法論が反映された演奏として注目される内容を持っています。その演奏は重厚で堂々たるスケールを持っていますが、決してスタティック一辺倒なものでは無く、十分に動的な要素にも配慮され起伏の大きな仕上がりを示しているのが特徴でもある。ベートーヴェンの交響曲も重要なレパートリーとしており、交響曲全集についてもドイツ・グラモフォン(1952〜61)、PHILIPS(1967〜69)、EMI(1976〜79)と3度にわたって制作しています。長大なキャリアの最初から最後まで、常にレパートリーのメインに据えられた重要な存在だったベートーヴェンだけにロンドン響を指揮した晩年の録音でも、味わい深い演奏を聴かせてくれています。早熟な天才指揮者ではなかったが、長く生き、途切れること無くオーケストラを相手したことで職人指揮者で終わることもなかった。
YIGZYCN
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