34-28048

商品番号 34-28048

通販レコード→TULIP ALLE HERSTELLER[オリジナル]

🎻常に自分の持てる力をフルに発揮して演奏に臨んでいた男たちの、イニシアティブの取り合い、結論の奪い合いというところが実にスリリングな録音。

横綱相撲〜リヒテルとカラヤンというふたりの巨匠がぶつかり合い、それぞれの個性を十分に発揮しながら、全体として大きなスケールでまとめあげられた名演である。 ― スヴァトスラフ・リヒテルのピアノ演奏は、その内面からくる音楽解釈の深さと卓越した技巧により常に私たちを魅了し続けており、現在でも多くの音楽ファンは楽曲の本質的な演奏をリヒテルに求めています。そのように「20世紀最大のピアニスト」との評価もありながら、東西冷戦の中亡命を恐れたソ連が西側への演奏旅行を許可せず、「伝説のピアニスト」とも言われていたリヒテルは1960年代にようやく西側デビューを果たしました。1960年の西側登場以前、以後ともに豊富な録音が残されていますが、1962年にカラヤンと共演した本録音はそうした期待の真っただ中で発売され大絶賛された歴史的名盤です。ピアノ一音一音の粒立ちがハッキリしています。リヒテルのピアノソロは隔絶した高みにいるので、全体に一段も二段も止揚した高みに聴こえて来るから不思議。発見させられることばかりで、疑問を持つどころではない。本盤はロシアの巨人リヒテル(Sviatoslav Richter)が1960年代に初めてヨーロッパに現れ、各地でセンセーションを巻き起こした頃の録音です。ドイツ・グラモフォンは、1961年に行われたリヒテルのイギリス・ツアー、その翌年のイタリア・ツアーでも録音を行ないましたが、彼らの最大の功績は1962年9月にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン交響楽団との共演で、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》を録音したことでしょう。 カラヤンは音楽に甘さや感傷など一切混じえないのに十分に美しく、ガッチリとしているのにリリシズムにも欠けていない。そして勿論スケール大きな、リヒテルのピアノが入ってきます。まさに白熱の演奏で、リヒテルのピアノがオーラを発しているようだ。往年のジャズ・レコード愛好家には、ジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィスと組んだ時の気魂に類似しているといえば伝わるだろう。カラヤンは自分の音楽を優先するので、ソリストにはその音楽の中に溶け込むことを求めているのかもしれない。リヒテルも自分の音楽を優先するので、オーケストラに負けずに大きな音で弾いている。そのオーラを披露されているからファンには堪ったもんではない。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は翌日に初日を控えていたために、レコーディングを拒否。ウィーン交響楽団が代わりになったことで印象に残る異形レコードを、わたし達は今も聴くことが出来る。ドイツ・グラモフォンお得意のコンサート・プレゼンス的視座の中で、マルチマイクでピアノや管楽器のソロなどが過不足なくバランスされ、響きの豊かなことで知られるウィーンのムジークフェラインザールでの収録であり、リヒテルの数多い協奏曲録音の中でも最も美しくバランスのよいサウンドでこの稀有のピアニストの見事なタッチを堪能することができます。当時ベルリン・フィルハーモニー、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ザルツブルク音楽祭など、ヨーロッパの主要音楽ポストを手中におさめていた「帝王」カラヤンと、ソ連の巨匠リヒテルとの共演は、まさに横綱相撲ともいうべきぶつかり合いで、世評では名演だと言われている演奏が、弾いた本人は不満足な出来だと思っている曲が何曲もある。リヒテルには不満が残ったことを自伝にも書いているわけですが、でも、これはそうした破天荒なところが面白いのだ。

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  1. DE DGG SLPM138 822 リヒテル&カラヤン チャイコフ…
  2. DE DGG SLPM138 822 リヒテル&カラヤン チャイコフ…


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チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、他
リヒテル(スヴャトスラフ)
ユニバーサル ミュージック
2018-08-17

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〝その言葉はリフテルを聴くまでとっておきなさい〟

偉大なピアニストは誰か、と質問されればスヴァトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter, 1915〜1987)は必ず上位に名を連ねる演奏家です。ソ連の誇るピアニストであり「20世紀のピアノの巨人」と称されるリヒテルはスタジオ録音としては、ザルツブルク郊外の残響豊かなクレスハイム宮殿で、珍しくベーゼンドルファーを使って録音されたヨハン・ゼバスティアン・バッハの「平均律クラヴィア曲集」が筆頭に代表される。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるエミール・ギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。リヒテルのレパートリーはバッハから20世紀の同時代の音楽まで多岐にわたる、それぞれに個性的かつ巨大な演奏解釈を披露した文字通り「ピアノの巨人」的存在でした。そうした膨大なレパートリーを誇る一方で、独自の見識に基づいて作品を厳選していたことも特徴的で演奏する曲は限られている。例えばベートーヴェンのピアノ・ソナタで言えば第14番や第21番のような人気曲を意図して演奏しなかったし、5曲の協奏曲の中では第1番と第3番のみをレパートリーにしていた。ショパンの練習曲やドビュッシーの前奏曲、ラフマニノフの前奏曲などでも一部の曲を演奏していない。これはグレン・グールドが完璧な曲を自分が演奏するものではないと録音しなかったことに近い動機ではないだろうか。そして録音嫌いとして知られていたにもかかわらず、ライブ録音によるものも含めると結果的には発売された録音の点数は他のどのピアニストよりも多いのではないかと思われるほど、多数の録音が残されている点でも破格の存在といえるでしょう。リヒテルが残した録音の中でも、おそらくソフィア・ライヴの「展覧会の絵」(PHILIPS)や「平均律クラヴィア曲集」全曲(RCA)と並んで最も有名な演奏が、ドイツ・グラモフォンのチャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。1950年代の中頃から、西欧に対するソ連の目覚ましい芸術攻勢が、とくにこの国を代表する名演奏家たちの国外への相次ぐ演奏旅行によって切って落とされた。ヴァイオリンのダヴィッドとイーゴリのオイストラフ親子、レオニード・コーガン、ピアノのレフ・オボーリン、ギレリス、ウラディーミル・アシュケナージ、チェロのムスティスラフ・ロストロポヴィッチ、さらにレニングラード・フィルハーモニックなどのオーケストラからボリショイ歌劇場の主要メンバーに至るまで、ソ連の楽団は質量ともに西欧諸国の驚異となった。これらの一流演奏家たちは、与えられた賛辞に対して、こう答えるものが多かった。〝その言葉はリフテルを聴くまでとっておきなさい〟。こうしたことが、リフテルの神秘性を一層濃くさせ、おそらく、彼こそソ連楽壇のとっておきの切り札と目されるようになったのである。リヒテルのピアノ演奏は、西側にデビューして間もない時期の録音なので、技術的にも全盛期ながら、むらっけのあるピアニストの姿が良く反映していて迸る熱気が伝わってくる。ワルシャワでのドイツ・グラモフォンとの録音セッションでエンジニアを務めたハインツ・ヴィルトハーゲンは、この時使用したピアノについての証言を残している。スタッフが現地で調達したピアノはタッチにひどくむらのある粗悪な代物で、スタッフは当然リヒテルに拒否されるものと考えた。しかし彼は黙ってピアノの前に座るとキーの感触を一つ一つ確かめながら、むらなく聴こえるようになるまで練習し、難のあるピアノを自在に操ったという。リヒテルの最大の武器は明確なタッチで、鍵盤の底まで押し込んでいるかのような、強い打鍵がフォルテを明確に響かせるが決して重苦しくならない。また弱音の美しい響きは繊細な感情を生かしている。強い意思にもとづく解釈と豊かな表現力が結びついた演奏である。

「鉄のカーテン」の向こうにいる「幻のピアニスト」

スヴャトスラフ・リヒテルはヴィルヘルム・バックハウスやクラウディオ・アラウの系統に属するピアニストだと思う。この3人に共通するのはピアニズムの冴えというか、タッチや音色のクールで胸のすくような美しさを聴かせるよりは、音楽そのものの厚味を最も大切にしていることであろう。従って彼等はモーツァルトやショパンやラヴェル、ドビュッシーなどはあまり得意にしていない。スケールの大きい、交響的な作品にこそ真価を発揮するのである。リヒテルの演奏で特筆すべきは壮大さを生かすべき弱音の繊細さが際立っている点で、精神の深味や詩情、ひっそりとした寂しさの表出が独壇場だ。さて、ここまでのリヒテルの略歴を書いておこう。リヒテルは1915年3月20日、ウクライナのジトミールに生まれた。父はポーランド生まれのドイツ人でウィーン音楽院に学んだが法に触れる決闘をしたため、ウクライナに逃れてオルガンとピアノを教えた。母は父の教え子である。しかしリヒテルは殆ど独学で音楽を勉強し、オデッサ歌劇場の伴奏ピアニスト、練習指揮者に採用された。リヒテルの志望は指揮者になることだった。特に読譜力に優れ、交響曲や管弦楽曲の総譜を見ながらピアノで弾く能力に抜群なものを見せ、1933年から1937年までオデッサ歌劇場とバレエ劇場のリハーサル・ピアニストを務めていた。この時リヒテルが人差し指と小指の間で楽々とオクターヴの鍵盤を押さえている奏法を見てすっかり驚いた人たちが、むしろピアニストになるべきだとすすめた。1934年、19歳の時オール・ショパン・プログラムで初の公開演奏を行ったが、これが大成功で本格的なピアニストになることを決意、1937年モスクワ音楽院に入学、ゲンリフ・ネイガウス教授に師事した。ネイガウスはリヒテルの才能に驚きプロコフィエフを紹介、その結果1940年リヒテルはプロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第6番」を初演することになったが、これが彼のモスクワ・デビューとなり大センセーションを巻き起こした。そして1945年には全ソヴィエト音楽コンクールで優勝、1947年に音楽院を卒業したが、この時リヒテルはすでに32歳になっていた。以上のような経歴からも本盤録音時のリヒテルの特質を充分に伺うことができよう。リヒテルがソ連国外で演奏したのは1950年のことで、それ以後東側の共産圏には時折登場するようになりましたが、西側に一部の録音や評判が伝えられるのみでその実態がなかなか把握されず「幻のピアニスト」とされていました。1950年にはスターリン賞 ― 現在の国家賞第1等を受賞、1960年初めてアメリカを訪問して以来、世界各国にその姿を見せることになったのである。更に、これらの録音が西側で広く発売されるにつれて、リヒテルは「現代最高の巨匠ピアニスト」と位置づけられるようになって、その名声は頂点に達したのでした。その頃はリフテルと表記されていたリヒテルのピアノには外面的な華やかさも、これ見よがしのハッタリもないが雄大なダイナミックと体中の感情を込め切ったような盛り上がり、ほのかに漂う詩情は言葉に尽くせない。ここには情感に溢れていない部分は一箇所もない、と断言し得るのである。20歳過ぎてから本格的なピアノの勉強をはじめて、これほど大成をした名手は稀といって良いであろう。そこに、リヒテルがはかり知れぬ天分と音楽性の持ち主であることを物語っているといえよう。

〝ベルリン・フィルを使って残しておきたい〟

ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)が是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をオーケストラ・ピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおけるイギリスEMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。EMI側がドイツものだけでなく広く録音することを提案したようです。この70年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。そして、1976年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団から歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルは縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。カラヤンのオーケストラ、ベルリン・フィルの精緻な演奏でオペラが、ただオペラというよりオラトリオのように響く。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。
1962年9月24日~26日ウィーン、ムジークフェラインザールでの録音。[プロデューサー]オットー・エルンスト・ヴォーレルト、[レコーディング・エンジニア]ギュンター・ヘルマンス、[LP初出]138822 (1963年)、[日本盤LP初出]SLPM138822(1963年2月)