DE DGG LPM18 887 ベルリン·フィルハーモニー八重奏団 ベートーヴェン・七重奏曲
商品番号 34-10067
通販レコード→独チューリップ盤 ALLE HERSTELLER[オリジナル]
〝小さなベルリン・フィル〟による音楽の「歓び」 ― ダイレクト・カット盤のSACDでベルリン・フィル八重奏団の馥郁たる響きは素晴らしかった。マスターテープから一番最初にスタンパー制作されたヴァージンスタンパーからおこしたディスクは製作者のみへのテスト用として渡されてきたもので、これまではオーディオファンにはまことしやかに語られていた幻のディスクです。これまでオーケストラ曲によるダイレクト・カット盤が多く登場していましたが、室内楽によるものはこれが初めて。ローレンツ・ナストゥリカ(第1ヴァイオリン)、ロマーノ・トマシーニ(Romano Tommasini, 第2ヴァイオリン)、ヴィルフリート・シュトレーレ(ヴィオラ)、クリストフ・イゲルブリンク(Christoph Igelbrink, チェロ)、エスコ・ライネ(Esko Laine, コントラバス)、ヴェンツェル・フックス(Wenzel Fuchs, クラリネット)、ベンツェ・ボカーニ(ファゴット)、ラデク・バボラーク(ホルン)、ヤン・ヴォボジル(第2ホルン)での香り立つようなまろやかな音色の録音が、さらに上質な調べとなって響いたのは2008年の事だった。そして2013年に日本が世界に誇るヴァイオリニスト樫本大進(第1ヴァイオリン)の他、エルサレム弦楽四重奏団の創設メンバーであった首席ヴィオラ奏者のアミハイ・グロス(Amihai Grosz)、世界最高のホルン奏者というべきシュテファン・ドール(Stefan Dohr)、ファゴットにモル・ビロン(Mor Biron)、ベルリン・フィルの“顔”の一人であるクラリネットのヴェンツェル・フックス、フィンランド出身の首席コントラバス奏者のエスコ・ライネという、文字通り21世紀のベルリン・フィルの「顔」と言えるメンバーたちが加わり、「ベルリン・フィル八重奏団」は新たなスタートを切った。八重奏団の魅力に新たに気づく人も多いに違いない。現役ベルリン・フィルの名手たちの奏でる音楽に触れられる時が待ち遠しい。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の楽員達が様々なアンサンブルを組織して室内楽活動を行っているのは、よく知られています。29団体もあるベルリン・フィルのメンバーによる室内楽グループの中でも、一番長い伝統を持つのがベルリン・フィル八重奏団です。代々のベルリン・フィルの首席クラスが、その伝統を引き継いできました。世界的奏者8人それぞれの音色が際立つ上に、アンサンブルの素晴らしさも伝えててくれる神業が光る。卓越したアンサンブルと深い音楽性に裏打ちされた、『小型ベルリン・フィル』とでも形容したい秀演を繰り広げています。
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ベートーヴェン生誕200年を前に、1961年から62年にかけてベルリンのイエス・キリスト教会でおこなわれたセッション録音。1951年から5年間かけて完成させた、英EMIでのフィルハーモニア管弦楽団との初のベートーヴェン交響曲全曲録音から6年。今度はベルリン・フィルが相手ということでフルトヴェングラーの亡霊を前に躍起になってあがいているカラヤンの姿が、50年以上前の録音だというのに熱気とか活力とか、そういったものを発散させる表情までわかるようだ。50歳代半ばだったカラヤンが、まだドイツ・ローカルな雰囲気を残す木管ソロの音色で実に味のある演奏を聴かせていた頃のベルリン・フィルを指揮して完成させた力作です。カラヤンの圧倒的な統率力、オペラ座付きのウィーン・フィルと違って、コンサート・オーケストラの機能美を最大引き出してダイナミクスな音楽を展開している。ベートーヴェンはベルリン・フィルの得意とする作曲家ですが、その最初の交響曲全集は、アンドレ・クリュイタンスの指揮によって1957年から60年にかけてEMIが録音したものでした。これは、カラヤンがフィルハーモニア管とEMIに録音していたため、1957年開始だと再録音の間隔が短すぎたことが要因と思われます。そうした事情もあってか、ここでのカラヤンの指揮ぶりは、ほとんど前のめり気味なまでの意気軒昂ぶりをみせるものとなり、ダイナミックでスピード感のある音楽づくりが当時のカラヤンの覇気をよく伝えています。最近は、テレビドラマ「のだめカンタービレ」のテーマ音楽としても使われ一躍有名になったが、もともとクラシック音楽の愛好家の間では常に上位を占める人気の高い作品であり、ベートーヴェンの9曲の交響曲の中では、この曲が最も好きで、何枚もCDを持っているという人も多いのではないだろうか。ワーグナーにして「舞踏の聖化」と言わしめた躍動するリズムが特徴の第7番をベルリン・フィルと初めて全集録音した本盤は、特徴的なリズムの積み重ねと変奏で緻密に組みたてられた傑作を速めのテンポでグイグイと迫っていく。カラヤンがベルリン・フィルからオーケストラ・サウンドの真骨頂ともいうべき豪華絢爛なサウンドを導き出し、オーケストラ作品を聴く醍醐味を我々に提示しています。ベルリン・フィルの高弦の鋼鉄のような力強さ、低弦の分厚い響きをドイツ音楽の正統性を高らかに主張しています。特に第4楽章は輝かしい表現で、クライマックスに向かって突き進んでいく迫力が実に素晴らしい。
ベートーヴェンはどんな時代の作曲家よりも優れた能力がある。主題の後にくる一番ふさわしい音を見つける能力だ。つまり次に来るべき音が何かが分かっていなければならない。その音以外考えられないということを納得させる力だ。 ― レナード・バーンスタイン(指揮者)
カラヤンは自分の求める響きが出るまで辛抱強く楽団員を説得し、どんなに金管が鳴っていても、内声や弦パートがしっかり鳴っていなければならないことや、低音パートがいくらか先に音を出すことなどを要求した。レガートを徹底的に使用し高弦を鋭くさせ、1960年代後半からはコンサート・マスターを2人おき、コントラバスを最大10人と大型化することによりオーケストラの音響的ダイナミズムと、室内楽的精緻さという相反する要素の両立を実現した。指揮者という職業は19世紀半ばまでは存在していなかった。それまで何世紀もの間、オーケストラは指揮者なしでも十分に機能していた。演奏をリードするのはコントラバスで、オーケストラは指揮者がいなくても困らないけど、コントラバス抜きでは話にならない。メロディを引き立たせるのが和音。ドミソドという4つの音から成る和音の場合、その一番下のドが根音になり、主音とも言う。その根音を奏でるのがコントラバスの役割。コントラバスはオーケストラ全体の基礎であり、メロディを奏でるのはほかの楽器であっても、コントラバス奏者が彼ら以上にメロディを理解・想像し、それを誘うような根音を出せないと、メロディがその上にうまく乗っかれない。したがって、曲の節目、節目で根音を担うコントラバスはオーケストラの舵取り役とも言えるのです。ベルリン・フィルの首席コントラバス奏者ライナー・ツェペリッツは当時「(オーケストラが)これほどまでの音楽的充実感、正確性を追求できたことは未だかつてなかった。われわれは世界中のどのオーケストラにも優る、重厚で緻密なアンサンブルを手に入れたのだ」との発言を残している。ベルリン・フィルがオペラを録音する意欲をみせ、1966年からカラヤンが望みうる最高の歌手を集め、4年がかりで完成させた「指環」の全曲盤は当時、室内楽的緻密さに満ちたワーグナーと言われた。
ベートーヴェンの作品は、メロディ、和声、対位法、色彩感、オーケストレーション、どれをとっても欠陥だらけだ。それぞれの要素は何の変哲もない。彼は一生かけても満足なフーガを書けなかった。オーケストレーションは最悪で、トランペットが目立ってしまって、他の楽器がかき消されている。では何に惹かれるのか?それは型だ。ベートーヴェンの場合は型こそすべてだ。型は結局、次にどの音を持って来るかで決まる。ベートーヴェンの場合、その選択が完璧なのだ。まるで神と連絡を取りながら音を決めていったようだ。モーツァルトでさえこうはいかなかった。次に何が来るかは全く予想出来ないが、これしかないという音を選んでいる。 ― レナード・バーンスタイン(指揮者)
歴史と伝統があるオーケストラには時代ヽヾに優れた名物ティンパニー奏者がいた。その打音をきくだけで、どこの楽団のだれそれと解るという。1960年代前半にセッション録音されたカラヤンとベルリン・フィルの演奏は、どの演奏も素晴らしいのですが、この〈8番〉もそうなのです。カラヤンの手にかかると、どんな作品にもダイナミックなドラマが生じる。曲はよく物語にもたとえられますが、この物語を構成しているのが和音であり、和音が連結していくことで、文章で言うところの起承転結が生じる。曲はそもそも和音とリズムで構成されています。誤解を恐れずに言うならば、メロディはその上に乗っかる装飾のようなものなのです。カラヤン全盛時はヴェルナー・テーリヒェンとオスワルト・フォーグラーのふたりだ。1960年代はテーリヒェンの独壇場で、カラヤンとベルリン・フィルとの名演ではほとんど彼が叩いた。彼は1949年から35年の長きにわたってフルトヴェングラーとも演奏活動をしたことのある名手だが、ふたりの間で見解の相違が出始め、徐々にカラヤンはテーリヒェンを遠ざけるようになる。70年代以降に入ると、テーリヒェンより激しくタイトな音を出すフォーグラーを重用することが顕著となり、やがてテーリヒェンはベルリン・フィルを去る。あるトランペット奏者は「フォーグラーが入ってから、ティンパニの音が硬くなったね。」と語っている。打音の強弱だけでなく、たとえば少し早く鳴らすとオーケストラの音が固く聞こえ、ほんの少し遅らせると全体に柔らかく聞こえる。オーケストラの中央奥に控え、要所やクライマックスには必ず顔を出して音楽を大いに盛り上げ、引き締める。交響曲であれ、オペラであれ、協奏曲であれ、そんなコントラバスやティンパニがなければ曲がまったく盛り上がらないのも事実です。時として、指揮者よりも確実に一撃でアンサンブルを立て直すことが出来る。それは優れたティンパニー奏者による離れ業である。まさにオーケストラの花形といえる。いずれにしてもカラヤンの全盛期のパーカッションを支えたのはこの二人のティンパニ奏者であったことには違いない。
Symphonie Nr. 7 A-dur Op. 92
- Side-A
- 1. Satz: Poco Sostenuto - Vivace
- 2. Satz: Allegretto
- Side-B
- 3. Satz: Presto - Assai Meno Presto
- 4. Satz: Allegro Con Brio
第二次世界大戦は日本軍の無条件降伏、ポツダム宣言で集結したが終わっていない戦いもあった。戦後、フルトヴェングラーの勢力下、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルで演奏することさえ制限されたカラヤン。そこへ救いの手を差し出したのが英国 EMI の名プロデューサー、ウォルター・レッグだった。ヘルベルト・フォン・カラヤンのレコーディング専用オーケストラ、フィルハーモニアでたくさんのレコードを発売。劇場での指揮は出来ずとも、レコードでカラヤンの名前は全世界に知られるようになる。ただカラヤンの悪い虫が騒いだというのか、オーディオへの関心を深めることになった。そして彼はステレオ録音を希望したが、折り悪く英国 EMI の経営陣はステレオ録音に懐疑的だった。不満を払拭できないままカラヤンは EMI との契約更新を曖昧に引き伸ばしていた。そうこうしていると、1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーが急死。カラヤンはウィーン・フィルに復帰できた。以来、名門ウィーン・フィルとも生涯深い関係を築く事になるのだが、しかし、ウィーン・フィルは英国 DECCA と専属関係にあったので、カラヤン指揮ではレコードを作れない。そこに接近してきた英国 DECCA 社では、1959年に EMI と契約の切れたカラヤンと契約。そのことでカラヤンは、この愛すべきオーケストラとの録音をドイツ・グラモフォンではなく、イギリス・デッカと行いました。また、フルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグは未来の演奏会やアーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏を数多く後世に残すことであったという。ここで英EMIの親分レッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードの数々で、この基準となるようなレコード作りをレッグから嫌と言うほど学んだカラヤンは、1959年以降この手兵ベルリン・フィルとともにドイツ・グラモフォンに膨大な数の基準レコード作りに邁進した。
彼は1973年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて6度目の来日をしたが、毎回のように大きな話題を呼び、毎回のように“カラヤン旋風”を湧き起こしている。時代が選んだ、カラヤンは世界の音楽の帝王である。オーストリアのザルツブルクに生まれ、モーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学んで、19歳のとき指揮者としてデビューした。ウルム歌劇場、アーヘン歌劇場の指揮者を歴任した後、1938年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に迎えられ一躍名声を高めた。その頃彼は“ドイツのトスカニーニ”とも呼ばれ、ウィーン交響楽団の指揮者をつとめて大好評を博した。1955年からはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に迎えられ、フルトヴェングラーの影響が大変強かったこのオーケストラを自分の意のままに、いわば自分の楽器のように作り上げたのである。ちなみに1959年頃のカラヤンは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身指揮者、ウィーン国立歌劇場総監督、ウィーン楽友協会終身指揮者、ザルツブルク音楽祭総監督といった具合に、それこそヨーロッパ音楽界の重要なポストを独占して“帝王”の名を欲しいままにしていた。1967年からは、自らザルツブルク・イースター音楽祭を主宰、1969年からはパリ管弦楽団の音楽顧問に就任、カラヤン指揮者コンクールも自ら開催し、若手指揮者の育成にも努め、目覚ましい活躍ぶりを示している。彼のレパートリーは古典から現代音楽に至るまで、非常に広い。カラヤンの表現は極めてスケールが大きく、現代的な感覚と知性に裏づけられた明快な演奏は絶妙といって良い。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(オーストリア 1908〜1989)はその魅力的な容貌と優雅な身のこなしでたちまちにして聴衆の人気をとらえ、たんにこの点から言ってもその人気におよぶ人はいない。しかも彼の解釈は何人にも、そのよさが容易に理解できるものであった。芸術的に高度のものでありながら、一種の大衆性をそなえていたのである。元来レパートリーの広い人で、ドイツ系の指揮者といえば大指揮者といえどもドイツ音楽にかぎられるが、カラヤンは何をやってもよく、その点驚嘆に値する。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。広く親しまれた名曲を最高の演奏でレコード化することに情熱を傾け続けた彼の姿勢は、このアルバムにも端的に示されています。何れも全体に覇気が漲っていて、弦も管も美しく技巧的にも完成度は高い名盤を量産。後の EMI や DGG のベルリン・フィル盤にはない魅力タップリのまったく聴いていてダレるような箇所がない。カラヤンの指揮する曲は概して大胆さや迫力にプラスして、丁寧でかつ美しいということです。とりわけ、ゆっくりのテンポの美しい旋律は、カラヤンの最も得意とする部分だと思います。例えば、怒濤のような旋律の中で、ぱっと花が咲くように美しいメロディーが流れる。この点にかけては、カラヤンは見逃さず見事に再現している。彼一流の粘り、盛り上げはすでに十分。カラヤンの圧倒的な統率力を持ってして、オペラ座付きのウィーン・フィルと違って、コンサート・オーケストラの機能美を最大引き出してダイナミクスな音楽を展開している。1960年代初頭の録音で、ベルリンのイエス・キリスト教会が録音ロケーションになっていました。当時は初期のステレオですが、なかなか臨場感がありカラヤンも颯爽とした壮年期で、 前任者フルトヴェングラーの時代の余韻の残るオーケストラと推進力あふれるカラヤンの指揮が見事にマッチした演奏です。とにかくダイナミックスの幅が広く鮮やかで迫力満点。牧歌的な部分から迫力ある部分まで表現の幅が広く、リズムも引き締まっています。演奏はオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで完全主義者だったレッグのノウハウが 100% DGG に流出したと言っても良い出来栄えも隙が無い。DGGの製作人の中で燦然と輝く指揮者としても活躍のオットー・ゲルデス&ギュンター・ヘルマンス製作盤。
録音は1963年10月30日〜11月6日ベルリン、イエス・キリスト教会でのステレオ・セッション。Recording Supervisor – Wolfgang Lohse, Engineer – Harald Baudis.
YIGZYCN
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