34-10068

商品番号 34-10068

通販レコード→独 TULIP ALLE HERSTELLER 盤[オリジナル]

感動 ― という言葉を素直に使いたい。ベートーヴェンの編曲技法の集大成とも言えるこの作品は、ディアベッリの主題をもとにした33の変奏曲からなる長大な曲。ベートーヴェンは、晩年になって、変奏曲を自らの重要なジャンルにおくことになった。作曲家で出版業も営んでいたディアベッリは、自らのワルツ主題によって、当時名前の売れていた作曲家50人に1人1曲ずつ変奏を書いてもらい、長大な作品に仕上げようと企画した。その中にはチェルニーやシューベルト、当時11歳だったリストもいた。その50人の作曲家の一人にベートーヴェンも選ばれたが、その主題による独自の変奏曲の作曲を思い立ち、演奏時間50分以上を要する、33もの変奏からなる長大な作品に仕立て上げた。その作風が旋律や音型を装飾していく装飾変奏から、変奏が主題の性格そのものに及ぶ性格変奏の究極の形にまで至っているため、元々のワルツ主題の原型がわからないくらいになってしまっている。「どうしてベートーヴェンはこんな曲を作ったのだろうか」という疑問を、おそらく多くのクラシック音楽ファンが一度は持ったことがあるのではないでしょうか。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「ゴルトベルク変奏曲」と並び称せられる変奏曲の傑作とされながら、その受容のされ方は全く違うように思えます。「ゴルトベルク変奏曲」も3の倍数の変奏はカノンとなる手のこんだものだが、変奏曲には時として人気になる名旋律が埋め込まれます。ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」での第18変奏の甘美な「アンダンテ・カンタービレ」や、エルガーの「エニグマ変奏曲」の第9変奏「ニムロッド」は単独でも演奏されるほど。ベートーヴェンはこの長大な変奏曲の終盤に深遠な雰囲気を伴う名旋律を挿入、変奏の区切りがわからないほど高度な構造とせしめ。聴き始めの集中力が最後まで持続することが極めて難しい「難曲」です。そこで本盤で聴くものは。遺作を除く13曲のショパンのワルツ集を生前の最後の録音に選んだ〝ピアノの吟遊詩人〟の《ディアベッリ変奏曲》は、緩急のコントラストが大きくて明快。ソノリティも煌めきと色彩感のある音で弾き上げられていて多彩。各変奏をリピートしていないので、演奏時間が39分ほどと短いが、リピートをしたうえでの最短はヴィルヘルム・バックハウスの43分と比べると快速というのではない。時に愛らしく優美かと思ったら、ユーモラスだったり、厳しかったり、アンダらしく表情がクルクルとよく変わる。流麗というよりも、ちょっと骨っぽいゴツゴツした起伏の多い表現で、物語りを聴いているような語り口。しかし、初期盤であればこその音質が軽やかなので弱音で弾くときはとても優美な雰囲気を醸し出し、フォルテは打鍵はしっかりしているけれど、丸みを帯びた響きで、ゴツゴツした厳しさはなくて、ピアノの音色もとても明るいのです。ペダリングで響きを重ねていくときの和声も美しさ、絹のベールが何枚も重なったように柔らかく光沢があり、鐘がエコーするようだったり、夢幻的な茫漠とした響きだったりと、実に多彩に変奏曲を楽しませてくれることでしょう。
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ベーラ・バルトークのピアノ協奏曲全集の解釈で一家言を成したアンダ・ゲーザ(Anda Geza)は、ハンガリー出身の名ピアニスト。来日時のパンフレットやチラシに載った「ゲザ・アンダ」で日本では知られている。ハンガリーはマジャールというアジア系騎馬民族を祖先にもっています。ヨーロッパには珍しい黒髪黒瞳短躯黄肌という体型からも伺えます。モンゴル系の流れを汲み名前にもその文化的影響が色濃く残りました。混血進み金髪碧眼白肌化してもその名残が今に伝わっています。欧米諸国のなかではハンガリーだけが、姓・名の順で名前を表記することを文化として大切にしたいと、アンダ・ゲザと表記されることも増えたが、わたしはゲザ・アンダで慣れ親しんできた。そして、日本人の姓・名の順も名前が先でいいと考えています。さて、アンダはヴィルトゥオーゾ・ピアニストではあったが、同郷のジョルジュ・シフラのように剛腕で作品を征服するような弾き方は好まず、確実で安定感のある演奏スタイルを良しとした。その強靭なテクニックは、バルトークだけでなく、ドイツ・ロマンティークのピアノ曲でも発揮され、ピアノを強く激しく打ちつけることで自分の証を刻むよりも、手の平で掬って愛おしむように愛撫することで、音楽への愛情が込み上げてくる。1950年代から1970年代にかけてのドイツ・グラモフォンの看板アーティストとして声望を集め、晩年はモーツァルトのピアノ協奏曲全集の弾き振りをこなし、単なる名技主義に陥らない芸風を確立した。
ゲザ・アンダは1921年11月19日にハンガリーのブダペストで生まれ、1976年6月14日にスイスのチューリッヒで世を去ったピアニストです。アンダはフランツ・リスト音楽院でエルンスト・フォン・ドホナーニとゾルターン・コダーイに師事し、1940年にリスト賞を受賞しました。1943年1月10日にはヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演しフランクの交響的変奏曲を演奏。フルトヴェングラーはアンダを「ピアノの吟遊詩人(Troubadour)」と讃えました。1943年5月にはエドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団とフランクの交響的変奏曲をSPレコードに録音しています。同年、アンダは第二次大戦の戦火を避けてスイスに亡命し、1955年にスイス国籍を得ました。演奏活動では1952年から1974年まで、毎年ザルツブルク音楽祭に出演して、リサイタルに、協奏曲に活躍。アメリカにも1955年以来、17回もツアーを行っています。レコーディングでは1950~51年にはドイツ・テレフンケンに、1953~58年は英コロムビアと契約し、10数枚のモノラルLPレコードを作っています。録音レパートリーはバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、ブラームスという独墺系作品が中心で、そこにショパンとお国物のリストとバルトークが加わるというオーソドックスなものでした。1959年にドイツ・グラモフォンの専属になると、折しも実用化されたばかりのステレオLPレコードのために多くの基本的レパートリーを録音します。フェレンツ・フリッチャイ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲全集を皮切りに、ベートーヴェンの三重協奏曲、ブラームスのピアノ協奏曲第2番、モーツァルトのピアノ協奏曲全集などが次々にリリースされました。このうちバルトークの第2&3番とベートーヴェンの三重協奏曲、モーツァルトの第21番&第17番はフランス・ディスク大賞を受賞しています。また、アンダが録音したモーツァルトのピアノ協奏曲第21番が、1967年のスウェーデン映画「みじかくも美しく燃え(Elvira Madigan)」で使用されたことで、一躍アンダの録音とモーツァルトのこの作品が世界的にヒットする、という出来事もありました。1975年に食道がんと診断され、手術は成功して一時回復しましたが、翌年6月14日に亡くなりました。54歳の若さでした。彼が1964年に再婚した二度目の妻オルタンス・アンダ=ビュールレ(1926~2014)は、「ビュールレ・コレクション」で名高い美術収集家のエミール・ゲオルク・ビュールレ(1890~1956)の娘で、その遺産の相続人にあたります。彼女はアンダの死後、1978年に若手ピアニストの育成を目的としたゲザ・アンダ財団を創設。プレジデントに就きました。同財団は1979年より「ゲザ・アンダ国際ピアノ・コンクール」を主催し、3年に1度開催。世界的ピアニストへの登竜門として有名なコンクールとなっています。
  • Record Karte
  • 1961年録音。
  • DE  DGG  LPM18 713 ゲーザ ベートーヴェン・ディア…
  • DE  DGG  LPM18 713 ゲーザ ベートーヴェン・ディア…