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《没後20年記念のカラヤンLP名盤にセレクトされている名曲名盤》

前人未到の地へ、果敢に挑もう。

世界の調和と友好。人間カラヤンのベートーヴェン讃。20数年かけて到達したカラヤンのベートーヴェン解釈の総決算、美しく彫琢された円熟した演奏。

カラヤンとベルリン・フィルによる3回目のベートーヴェン交響曲全集。1982年から85年にかけて行われたセッションはすべてデジタル録音で、カラヤン初のベートーヴェンのCDとして歴史に刻まれた。カラヤンはテクノロジーへの関心が高く、ここではデジタル録音で(そしてCDで)残すことが目的の一つだったと思う。実際、ドイツ・グラモフォンのデジタル録音の技術はハイレベルで、今日聴くことができるカラヤンの録音の中でも純粋に音質では優れている。演奏の好き嫌いはあるにせよ、この美点を評価するならこのレコードは買いだと思う。カラヤンのベートーヴェン解釈の総決算ともいえる美しく彫琢された円熟した演奏です。20数年かけて到達した結論が、このテレモンディアル原盤の最後の全集。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan オーストリア 1908〜1989)はその魅力的な容貌と優雅な身のこなしでたちまちにして聴衆の人気をとらえ、たんにこの点から言ってもその人気におよぶ人はいない。しかも彼の解釈は何人にも、そのよさが容易に理解できるものであった。芸術的に高度のものでありながら、一種の大衆性をそなえていたのである。元来レパートリーの広い人で、ドイツ系の指揮者といえば大指揮者といえども、ドイツ音楽にかぎられるが、カラヤンは何をやってもよく、その点驚嘆に値する。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をオケピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおけるEMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。イギリスEMIがドイツものだけでなく広く録音することを提案したようです。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。その中でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との結び付きがいよいよ強固なものとなり、続々と水準の高い録音が続々と行われた1970年代は、カラヤンの録音歴の中でも一つの頂点を築いた時代といえます。ヨーロッパの音楽界を文字通り制覇していた「帝王」カラヤンとベルリン・フィルと、ドイツでの拠点を失ってしまった英H.M.V.の代わりとなったドイツ・エレクトローラとの共同制作は、1970年8月のオペラ『フィデリオ』の録音を成功させる。カラヤンのオーケストラ、ベルリン・フィルの精緻な演奏は、ヘルガ・デルネシュ、ジョン・ヴィッカースの歌唱を引き立てながら繊細な美しさと豪快さを併せ持った迫力のある進め方をしています。有名なベートーヴェンのオペラが、ただオペラというよりオラトリオのように響く。カラヤンは1972~76年にかけてハイドンのオラトリオ『四季』、ブラームスの『ドイツ・レクイエム』、さらにベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』という大曲を立て続けに録音しています。オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。そして、1976年にはウィーン・フィルから歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。カラヤンのレコードでは、芸術という大目的の下で「人間味」と「完璧さ」という相反する引き合いが、素晴らしい相乗効果を上げる光景を目の当たりにすることができる。重厚な弦・管による和声の美しさ、フォルティシモの音圧といった機械的なアンサンブルの長所と、カラヤン個人の感情や計算から解き放たれた音楽でもって、音場空間を霊的な力が支配しており、聴き手を非現実の大河へと導く。

音楽は世界共通の言語です。国も、性別も職業も、宗教も歌ったり、楽しんだりすることに関わらない。様々な国の音楽を聴いて、その国に想いを馳せ、その曲自体を楽しむことは、まことに正しいし、音楽の持つ偉大な力のひとつだと思います。音楽を聴いて幸せな気持ちになったり、癒されたりする。何より、生きる喜びを人とシェアできるのが音楽の素晴らしさです。しかし、言葉には様々な種類の言語があり、知らない言語との会話は理解できない。同じ九州内に生活していても、まともな会話にならないことも有るでしょう。それなのに、一方で音楽が「世界共通語」であるという誤った認識が従来よりある。音楽を楽しむだけなら、それで充分なのですが音楽をプレイする立場がそれでは困る。『ルーツは誰ですか』と、2016年9月、長崎・佐世保で活動しているフルート奏者に問うた。ところが彼女の取り巻きが憤りを込めて「彼女の音楽は何かに似ているというものではない」と得意気に答えた。広瀬すず、中条あやみ、天海祐希らで感動実話を映画化した『チア ダン』で、「これがジャズ、これがヒップホップ」と表現してみせるワンシーンがあるが、〝マズルカ〟のリズムを覚えて、〝ポロネーズ〟はどういう踊りかを知ることがショパンの正しい演奏の理解になると勧められるのは今では良く有ること。チャイコフスキーのロシアの風土は〝トレパーク〟が大事だ。ベートーヴェンの旋律はウィーンの民謡を借りている。モーツァルトの〝きらきら星変奏曲〟はフランスの遊び歌だし、初めてモーツァルトを聴いたトルコ人は、こんな子供だましが音楽なのか、といって笑ったそうだ。同じ西洋の音楽であっても、ベートーヴェンばかり聴いていて初めてバッハを聴いたときは全く違う音楽のような印象を受ける。同じ作曲家であっても初めて聴く曲には、なんだかよく分からないという印象を持つ。何度も聴いている内に、その曲の良さや悪さが理解できるようになる。
音楽を演奏するのに大切な〝メロディー〟〝ハーモニー〟〝リズム〟を本当に会得しようと思うには民族や文化、宗教の理解が必要です。それぞれの国の音楽を演奏して、その国の音楽を知った気になってしまうのは、まことにおこがましく、恥ずかしく、恐ろしいことです。ヨーロッパ音楽の伝統の何たるかをしっかり把握していないものは、聴いていて虚しいばかりです。それはジャズでも同様です。ジャズには技法と作法があると黒田卓也さんが説いている。ジャズの歴史はクラシック音楽ほどではありませんが、歴史を知っているか知っていないかがミュージシャンには大切だ。インタープレイの相手が、どこの時代が好きなのかという言葉(言語)がわからないと会話ができない。ジャズ・ミュージシャン同士で重要視されている『NOW'S THE TIME』に関心がないと、アドリブもまともに出来ないでしょう。それを置き去りにしてしまっている「楽器を弾ける」演奏家が郎党を組んでいるのは、どうしたもんじゃろの。One Step on a Mine, It's All Over ― 彼らは自分たちが育った街を自慢できるだろうか、胸はって自分の会社を誇れるだろうか。またそれとは別に「音楽的に弾く」と言う意味をとり違えている人を見ました。これは下手をすると一生引きずってしまうでしょうね。ちょっとかわいそう。日本人は器用な民族なので、真似をして良いのです。そして先達に敬意を忘れずに、ルーツを誇りましょう。ジャズのライヴでアドリブが、ただのメンバー紹介で、全くアドリブの様式に成っていない演奏は気持ち悪いが、最後で何十秒も長々と音を引っ張っているのも閉口してしまう。それは自分だけのエクスタシーに酔っているだけで、聴き手を疎かにしている演奏だ。音楽を聴いてもらうというのは、どちらが主体なのか、自分たちの満足を満たすのはリハーサルのうちに済ませて欲しいと思う。お金をもらって聴いてもらっていることを忘れてはいけない。特に、プロとして聴衆の方々に、瞬間芸術であるこの「音楽」を提供する場合には、もっと謙虚に、もっと慎重であるべきだと思います。必ずしも、その国、言葉のエキスパートであるべき、と考えるのは適切だとは思いません。ただ、日本人である以上、一流のプレーヤー足り得るためには、器用に逃げないで自分の血の中にない部分については学び取る必要があるのです。どんなに個性的な演奏も、結局は独善的なもので専門家的に聴けば説得力はありません。

傑作交響曲。目標は「基準となるようなレコード作り」。

カラヤン=ベルリン・フィルは20世紀クラシック界最高の組合せでした。1956年ベルリン・フィルの終身常任指揮者に就任して以来、カラヤンはこの超一流オーケストラを完全に手中に収め、素晴らしい名演を世に送りつづけます。

125年の歴史がある世界で最も有名なクラシック音楽レーベルの一つであるドイツ・グラモフォン(Deutsche Grammophon)は、1898年の創立以来、常に最高峰の芸術性と音質を確立してきました。イギリス・グラモフォン社を経営母体とする、ドイツの豊富な労働者を雇用したレコード・プレス工場でした。
アルトゥール・ニキシュがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した。(ベルリン・フィルは1882年の創立。)ベートーヴェンの交響曲第5番の初めての全曲録音が行なわれたのは1913年。ベルリン・フィルはドイツ・グラモフォンに録音したレコードを発売して行きます。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮してドイツ・グラモフォンでの初めての録音(ベートーヴェンの交響曲第5番とウェーバーの歌劇《魔弾の射手》序曲)を行なったのは1926年。ラジオ放送とレコードで、ベルリン・フィルの演奏は多くの聞き手に届くようになります。1938年、ヘルベルト・フォン・カラヤンが初めてドイツ・グラモフォンで録音した。
ドイツの優秀な技術力で、ドイツ・グラモフォンは音の大小でレコード溝の間隔を可変させるカッティング方式を発明して1950年、片面の演奏時間が9分まで収められる78回転レコードが登場。翌年、最初の33回転の長時間レコード(LPとして知られている)をリリースした。
フルトヴェングラーが没するとカラヤンは、戦後ドイツ・グラモフォンが古典派、ロマン派のレパートリーにおいて確固たる地位を確立する上で重要な役割を演じた。1959年から1989年までの30年間の間にドイツ・グラモフォンで3つのベートーヴェンの交響曲全集、ワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》をはじめとした330枚のレコードを制作することになる。

ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)は、レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSP時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼります。その中でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との全盛期の録音。世紀の指揮者、カラヤンの「911ターボRS」は、おそらく世界で最も音楽的なポルシェだろう。カラヤンはその研ぎ澄まされた権威をカスタムメイドのスポーツカーに投影した。車輌重量は1,000kg未満。4kg/PSというパワー・ウェイト・レシオが彼の理想とのことで、ポルシェはカラヤンのターボにRSRモデルのレンシュポルト・シャシーを奢り、カレラRSのボディとレース用サスペンションを投入した。インテリアにも軽量化の工夫が凝らされ、リア・ベンチシートの代わりにスティー ル製ロールケージを装着。ドア・オープナーにエレガントなレザーストラップを採用し、それを引っ張ることでロック解除できる仕組みになっていた。大径ターボチャージャーとシャープなカムシャフトを組み込んだ6気筒ボクサー・エンジンを搭載し、ラジオが奏でるシンフォニーを諦める代わりに大音量のサウンドを堪能できるマシーンに仕上げた。ボディカラーも独特で、1974年のル・マン24時間レースで見事2位に輝いた911カレラRSRターボ 2.1のマルティニ・レーシング・デザインを採用。この世界的なお得意先からの無理難題をポルシェは見事に解決した。耽美的なサウンドを追求して常に前進し続けたカラヤンだが、そのスタイルは舞台にとどまらず、プライベートにも及んでいた。ポルシェの大ファンで、F1サーキットで有名なザルツブルグリングで走ったり、自家用ヨットでレースに出たり、自家用のジェット機を自ら操縦していました。1926年、ザルツブルクのギムナジウム卒業試験では、筆記試験において〝熱力学と燃焼エンジン〟 という題名の小論文を書き、その後 11年半にわたり大学で機械工学を学んでいる。カラヤンは生前、常に圧倒的な存在感を放っていた。華奢な体つきとは裏腹に巨大なオーラを纏い、指揮の最中は、集中力を保つために鋭い碧眼を閉じたまま指揮棒を振っていた。音楽家であると同時にディレクターであり、プロデューサーであり、さらには演出家、建築家、そしてマッケッターであった。カラヤンはルネサンス時代の天才のような人物で、畏れ多い存在。ひとたび風変わりなオーケストラの演出を思いつけば、どんなに小さなディテールにもとことんこだわり、自身のエネルギーを限りなく注ぎ込んでいった。カラヤンがソニーのウォークマンをはじめて耳にして「本物よりいい」と感激して、以来カラヤンの車には必ずウォークマンが載せられていた。ラジオの代わりにカラヤンは、これで誰が演奏したCDを聴いていたのだろうか。あらゆる世代の音楽家とクラシック・ファンを虜にするカラヤンの音の魔力とはいったい何だろうか。カラヤンはかつてよくリハーサル後、帰宅途中にホテルへ立ち寄り、聖壇が飾られた行きつけのパブで子牛脳のアスピックを楽しんだ。彼はベルリン市民ではなかった。カラヤンの自宅はザルツブルグ郊外のアニフ、スキー場で有名なサンモリッツ、それに地中海に面した3つの家を持っていました。カラヤンと最も密接な関係のある都市としては、誰もがベルリンを思い浮かべるだろうが、驚いたことに、1955年から亡くなる1989年までベルリン・フィルの主席指揮者だった、彼はベルリンに家がない、ホテル住まいなのです。カラヤンの妻エリエッテによると、ベルリンで戦前から戦中に大変困難な時代を体験したことも、この都市に定住しなかった理由だったようだ。

飛行機からさっそうと降り立つ、まるでハリウッドスターのようなヘルベルト・フォン・カラヤンの姿をテレビで目にした方も多いでしょう。1954年の初来日以来、たびたび日本にも訪れた。この年は単身で来日してNHK交響楽団を指揮した。そして、カラヤンが指揮した日本のオーケストラはN響だけではなかった。来日中のカラヤンがアマチュア・オーケストラを指揮した、このハプニングな出来事もラジオ、テレビでも報道されたので、御存知の方も少なくないに違いない。〝帝王〟カラヤンを引っ張り出し、50分間の練習を指導してもらったこのラッキーなオーケストラは上智大学管弦楽団。まともにカラヤンなり、招聘元のNHKなりに申込んでも承諾が出る筈がない。今ならギャラはどうする、って思い立ち止まるだろう。ところが単身カラヤン氏に会見を申込んだのは、このオーケストラでチェロを受持っている20歳の女子学生。当然、マネージャーに追い返される。部員一同の署名を集めた彼女は、1000円のミカンを手土産に、憶せずもう一度宿舎へ。廊下で幸運にもカラヤンにばったり出会った彼女は、30秒でも結構ですから、是非私達のオーケストラを指導してくださいと必死のドイツ語で話しかけたところで、再びマネージャーが現われ、彼女から引離してカラヤンを連れ去るように、促そうとする。しかしこのとき、奇跡が起こる。カラヤンはマネージャーに命じて、彼女の名前と電話番号を控えさせた。彼女は、その夜のコンサートにも駆けつけ、花束の中に緬々と願いを綴った手紙をしのばせて差出した。カラヤンは彼女を覚えていて声をかける。今度はNHKの職員が割って入って彼女を隔てるが、カラヤンは大声で明後日練習場に来るように呼びかける。翌々日、約束通りに素直に彼女はたった一人で、だだっ広いNHKホールでカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の練習を聴いたのである。これも今なら当然だが、NHKの職員に注意され、つまみ出されかけるが、カラヤンは自分が許可したのだからと制止する。ばかりか、カラヤンはNHK側を押し切って彼女の願いを入れた上、その晩の招待券を彼女に贈った。コンサート・マスターのミシェル・シュヴァルベもその晩の独奏を彼女に献呈すると申し出る。彼女の心意気が彼等の心を揺り動かしたのである。貧しい楽士だった父親の楽団の窮状を見兼ねたその少女パッツィが、楽団を盛り立てようと単身練習場にもぐり込み、天下のストコフスキーを連れ出した、映画「オーケストラの少女」さながらの出来事が現実に起こった。とうの彼女も、幼ない頃父親に聞かされた映画「オーケストラの少女」の場面を想い出したという。「オーケストラの少女」の願いがかなえられ、カラヤン氏はいよいよ上智大学にやって来る。カラヤンはこの上智訪問のため、ベルリン・フィルの午前の練習を短く切り上げ、更に午後のレセプションを45分おくらせた。想定外のスケジュールに翻弄させられた人もいた筈だ。ただ確かなのは、練習を短く打ち切ったその晩の演奏が完璧な名演だったこと。そしてその一日中、どうしてカラヤンが上機嫌だったのか楽員もいぶかしんだという。彼女が手土産にしたミカンをきっと食べたに違いない。

絶頂期ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏らしく、迫力も美しさも兼ね備えた圧倒的なサウンド。

ある対談の中でヘルベルト・フォン・カラヤンは、『自分が指示を出さない時にオーケストラが群れをなす鳥のように天空を羽ばたく瞬間がある』と言っています。このレコードでも命令に従う集団以上の自発性がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にはあり、指揮者もある程度それを楽しんでいる。
ただ、カラヤンの理想の振り幅の中にあるから、カラヤンの音楽になっている。カリスマ的芸術性と器用な職人気質を併せ持ったカラヤンは、一回性の熱情と、それに相反する録音芸術としての綿密な音楽設計を両立できた指揮者でした。
ある録音でホルン奏者の音の上ずりに気がついたエンジニアが、録り直しを確認したらカラヤンは、その自然さを良しとした話が象徴している。

帝王と呼ばれるほどの名声を手にしたヘルベルト・フォン・カラヤンの音楽の根底にあったものは、いったい何だったのでしょうか。それは、意外とシンプルな「美しい音へのこだわり」ではないか。カラヤンはある対談のなかで、わたしがオーケストラに要求するのは、作曲家が書いたすべての音符を完全に弾き切ることだと語っています。カラヤンに指導を受けた上智大学管弦楽団の団員は、実際に接したカラヤンは音楽に厳しく、人間的には暖かい誠実な人で、虚飾やはったりなど全くみられませんでしたと印象を述べ、レコードで聴いているカラヤンのあの感じ。アマチュアに要求することもプロに要求することも根本的には同じなんだナと思いました日頃指揮者から注意されていることと基本的には同じことを注意されていたのです日頃注意されていることと同じことを注意されたことに気付いたのは今後のためにとてもよいことだった、と気持ちを新たにしている。とても真面目な芸術家という印象でした。単純で、基本に忠実で、無理が全然ないしかし説得力は違いました。適度にリラックスさせながら集中させていくテクニックは素晴らしいテレビなどで見るとわかりにくそうに見えたけれど、実際に振ってもらうと、とてもわかり易かったこう弾けというのではなく、下手ながらにもそう引き出されてしまうのですと、短い時間の間で、カラヤンは天来の音楽性というか、そうあるべき音楽がそこに示されたという印象でしたと初対面の楽団員一人残らずの心をつかんでしまった。巨匠としてのイメージが強いカラヤンですが、若いころは地方の歌劇場でキャリアを積んだり、失業してオーディションを受けたりと、才能を持て余した時期もあった。カラヤンが影響を受けた指揮者は、まずベルンハルト・パウムガルトゥナーです。パウムガルトゥナーはピアノでモーツァルテウムに入学したカラヤンに指揮の道を勧めました。さらにディミトリ・ミトロプーロスのことをよく語っていました。カラヤンが青年時代はまだレコードもほとんどない時代ですから、オーケストラの音を聞くには実際に演奏会に行くか、練習に潜り込むしかなかったのです。首尾よく練習に潜り込んで目の当たりにしたこのミトロプーロスの指揮ぶり、特に暗譜の素晴らしさを語っていました。また音楽的に圧倒的な影響を受けたのはアルトゥーロ・トスカニーニです。そのスピーディーなテンポと劇的な構成、帝王と呼ばれた権力志向など、明らかにこのトスカニーニの影響を受けました。

ローマ帝国時代から温泉保養地として栄えたアーヘンの市立歌劇場音楽監督に就任したのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンが27歳のとき。以降は、数々の伝説的な演奏を残してきました。世界トップ・スリーに数えられる名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者および芸術監督をはじめ、モーツァルトやベートーヴェンの時代から続くクラシック音楽の聖地・ウィーンの国立歌劇場音楽監督、また世界でも指折りのアーティストたちが集う夏の祭典ザルツブルク音楽祭では芸術監督として、などなど、彼の存在なくしては「音楽界が動かない」と噂されるほどその影響力は絶大で、まさに帝王として楽壇に君臨していました。そしてカラヤンの活躍は、録音技術の進歩とシンクロしています。カラヤンの奏でる音の正確さ、そして美しさが、新しいメディアとして19世紀後半に登場したレコードの特性とマッチしていたのでした。カラヤン自身も新しい機械に強い関心を示し、その後技術が進歩するたびに録音を重ねたレコード、CDは900枚にのぼります。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては、より美しい音の再現を求めて7回も録音された。芸術に畏敬の念を抱き、時代やトレンドにおもねることなく、楽譜を〝正確に再現すること〟が彼の音楽の解釈であり、究極のこだわりでした。その正確さの追求が、人々を魅了する美しい音を奏でさせていたのではないか。そのため、リハーサルを徹底的に行うことでも有名でした。ベルリン・フィルは1882年に創設された。当時のドイツは帝政である。以後、第一次世界大戦の敗北を受けて共和政となり、ナチス・ドイツ、第二次世界大戦の東西分裂時代、そして現在のドイツ連邦共和国と、このオーケストラは生き続けた。ナチスが政権を握った1933年以降、総統ヒトラーの誕生日である4月20日は国の祝日となった。1937年4月18,19日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮するベルリン・フィルはベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。これを宣伝啓蒙大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは、まるでベートーヴェンがアドルフ・ヒトラーの誕生日を祝福しているかのように新聞に書かせ、プロパガンダに利用した。戦況が悪化した1942年4月19日にも、ドイツにはまだ力があることを内外に示さんとした。政府と党の幹部が揃い、さらに国防軍の将校や兵士、各国の外交団も居並ぶ、国家的行事宛らの演奏が、ベルリン・フィルにとって戦中最後のフルトヴェングラーとの「第9」だった。

戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は創立75周年にあたって、1957年4月25,26日に「第9」を演奏して自ら祝った。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。ベルリン・フィルが首席指揮者としてカラヤンを迎えて、「第9」を演奏するのは、この時が初めてだった。カラヤンとベルリン・フィルは数々のベートーヴェン交響曲全集を録音しました。1960年代のものから1980年代のものまで、実に5種類の全集を演奏した。そのうち2種類が映像作品としてのものです。ずっしりとした重さの中にも軽快なところがある、1960年代、1970年代の録音。1980年代にデジタル録音にかわると、弦の美しさに磨きがかかっています。曲の追い込みは例によって高速テンポ。それでも統制のとれているベルリン・フィルの技術はすばらしい。1960年代~70年代にかけて実験的手法を取り入れベートーヴェン交響曲全集に取り組んだカラヤンだが、それから20数年かけて到達した結論が、このテレモンディアル原盤の全集と言える。ベルリン・フィルが創立100周年を迎えて、1982年、クラリネットのザビーネ・マイヤーの首席採用を巡る対立を発端に、終身芸術監督を務めていたベルリン・フィルとの関係がギクシャクしていた。カラヤンはマイヤーのクラリネット奏法の才能が気に入り、ちょうど第二クラリネット奏者が不在になったこともあり、彼女をベルリン・フィルに迎え入れようとしたが楽団員の全員投票で否決された。楽員側の反対理由はベルリンの音と会わないからと言ってはいるが、オーケストラの格式を保つため、伝統的に男性団員以外の入団は認めていなかった。楽団の投票で決定したにも関わらず、カラヤンはあくまで強行に彼女の入団を主張し一歩も引かなかった。楽団員の採用の権限は楽団側にあり、その楽団投票で否決された彼女を採用することはありえないと主張するベルリン・フィル側とカラヤンとはそれ以後ことごとく対立するようになる。カラヤンは当時74歳ということで高齢である上ヘルニアも患っていました。迫る老いへの不安は焦りともなったのでしょう。ドキュメンタリーでこの頃カラヤンは、自身の肉体を冷凍保存して30年後に還ってきたいと覚めた顔で言っている。

ピュアナチュラルなオーディオ装置で堪能したい、自然体のカラヤンの美学が感じられる ― 美しい音量の均等化を成した録音。

最晩年のヘルベルト・フォン・カラヤンは、持病の腰痛が悪化し、指揮台に高めの椅子を固定して、そこに腰かけて指揮せざるを得なくなり、トレードマークだった「目を閉じたまま、流麗な棒さばきでオーケストラを操る」颯爽とした指揮ぶりは見られなくなったものの、オーケストラを統率する強靭な精神力には微塵の衰えもなく、逆にその肉体の不自由さがカラヤンの音楽作りにそれまでになかったある種の奥行きと深みを加えるようになりました。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は創立100周年を迎え、1982年4月から5月にかけ記念コンサートを行いました。初日のプログラムはモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、そして、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」。当初は「第9」を予定していたということだ。コンサート・マスターはミシェル・シュヴァルベ。オーボエにローター・コッホやクラリネットにカール・ライスターなど黄金時代を支えた往年のプレイヤーもこの時期はまだまだ在籍していた頃です。「英雄」については大変評価が高く、カラヤンとベルリン・フィルの名盤の中の名盤とされています。弦、管、打楽器全てのセクションの熱の入った演奏はダイナミックの極み。感動的です。「第一楽章終了後、カラヤンも思わず感動」というような表記がベルリン・フィルの写真集にあったと思います。いつも以上に実力を発揮した団員たちの渾身の演奏に対し、カラヤンが感動しているかのような写真がそこには掲載されており、団員たちもカラヤンが感動したことを感じ取っているかのように見えました。団員のモチベーションも100周年という重要な節目の演奏会ということもあってか、溢れんばかりのエネルギッシュな演奏は大舞台を飾るに相応しい名演奏となりました。
ベルリン・フィルとの2回目のベートーヴェン交響曲全曲(1975〜77年録音)の完成から経過は5年でしかないが、テレモンディアルの映像制作と平行して、ドイツ・グラモフォンへレコーディングした。録音セッションは《田園》と《運命》でスタート。CDはセットで発売されるが、《田園》(413 936-1)だけでレコード発売した。翌年秋に《合唱付き》を録音、《運命》は《合唱付き》と併せた2枚組ボックスでレコード発売された。が、これを考察するのは面白い。1983年9月20日から27日までかけてセッションされた。引き続き、28日から「パッヘルベルのカノン」「アルビノーニのアダージョ」ほかヨハン・ゼバスティアン・バッハ(アリア)、グルック(精霊の踊り)、モーツァルト(セレナータ・ノットゥルナ)。ビゼーの「アルルの女」組曲を部分録音。29,30日にリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」を完成した。独唱者に最高のメンバー(アンナ・トモワ=シントワ、アグネス・バルツァ、ペーター・シュライヤー、ジョゼ・ファン・ダムそしてウィーン楽友協会合唱団)を揃えた、1977年録音の《合唱付き》は優れた完成度だが、カラヤン5度目の ― カラヤンにとって最後の《合唱付き》はオーケストラを極限まで磨きぬいた現代演奏技術の極地ともいえる演奏。録音はダイナミックレンジが広くスケールの大きな演奏で、現代的なスタイルの演奏としてはある種の到達点だろう。導入から生命力漲る第1楽章のクライマックスは、凄まじい盛り上がりで秀でています。この全集のハイライトは、この暮に録音された交響曲4番と7番(415 121-1)だ。LPレコード両面併せて65分で聴きごたえがある。一夜の演奏会の全プログラムを堪能したように充足感に満足できる。それに続く、《英雄》(415 506-1)。レコードの発売は、交響曲1番と2番(415 505-1)の組み合わせが先になった。が、レコード番号から推察できるように、同時リリース。交響曲8番は最後に序曲集との組み合わせで(415 507-1)発売してカラヤン最後のベートーヴェン交響曲全曲を締めくくった。
ベートーヴェンの交響曲第4番と第7番は、カラヤンのベートーヴェン解釈の総決算ともいえる、美しく彫琢された円熟した演奏です。シューマンが「ギリシャの乙女」と評した、アポロ的ともいえる古典的な均整美を湛えた第4番。ワーグナーが「舞踏の神化」と形容した、ディオニソス的ともいえる生命力溢れる第7番。彼が4度目の全集録音を行ったのは、単なる思い付きではないはず。精神性解釈や演奏法の深まりによって、以前3回の録音とは全く異なった仕上がりになっている。彼が到達した境地である。ベートーヴェンの対照的な性格の交響曲2曲によるプログラムは、1977年11月15日の東京普門館での演奏会でも実演している。カラヤンに意図するものがあったのは確かだ。たしかに第7番は1977年のものと比べれば、重量感と流麗さは劣るかもしれない。第7番はカラヤンのレパートリーのなかでも、曲の解釈があまり変わっていないのでカラヤンとしては珍しい。しかし、第7番の終楽章は見事に巨匠の境地と感じる。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第7番では、指揮者と楽団の精神的結束が際立ちます。理性を失することなく、要求されるダイナミズムにここまで応えたレコードは幾つも存在しないでしょう。先人アルトゥーロ・トスカニーニとはまた別種の、毅然とした意思と求心力、一回性の覇気に圧倒されるベートーヴェンです。一流オーケストラによる繊細でかつ迫真の力演。大指揮者の全身をもってした音楽の熱と息吹にはじめて触れ得たという実感が湧きます。対照的な世界の第4交響曲ならではの魅力は、骨太なスケールの内に流れる旋律美です。この曲を最晩年まで好んで演目に取り上げたヘルベルト・フォン・カラヤンは、年齢とともに遅めのテンポを取るようになりましたが、当盤も美への純粋な憧れが滲んだ温かみのある演奏です。それでいて、見えない緊張の糸が緩まないのもカラヤンの長所でしょう。この2曲が録音された当時、なかなかカラヤンのように精一杯の重厚さでベートーヴェンやブラームスを聴かせる指揮者は一握りになっていました。同世代では、ギュンター・ヴァントがクローズアップされたり、後進の巨匠と呼ばれる人たちさえ小味な音楽を志向し始めた中で、彼は一生涯、自らが手本とした先人の流儀に近い形で音楽を発信し続けた。カラヤンは、あたかも楽壇の将来的展望を見据えた音楽家のように巷間伝えられていますが、本質的には、西欧の伝統の内に自己の在り方を探ってきた人であり、前衛を振りかざして仕事をすることの無かった指揮者です。往年の巨匠たちの例に洩れず、同時代の人々と価値観を共有しながら、自分にしか成し得ない理想の答えを追求していたように感じます。彼の生きた20世紀は、劇場空間を人間の情熱で隈なく満たすことが要求された時代であり、演奏上のロマン主義も即物主義もその同じ土壌に生まれたものでした。生前カラヤンが演奏会に来ることができない観客にも、ハイクオリティーの音楽体験を届けたいと熱望していた。晩年のカラヤンが腐心したのが、自ら設立した映像制作会社テレモンディアル社により、映像作品を収録、制作すること。それこそが、カラヤンが実現を夢見た完璧な音楽体験を現実とした。これまでごく限られた人しかコンサートホールで楽しむ機会が得られなかった素晴らしい演奏が、まるでオーケストラがあなたの目の前で演奏しているような、新しい音の空間に身を委ねられます。弦楽器が奏でるピチカートのようなくごく僅かな音から、オーケストラがフォルティッシモの演奏を始める時の演奏者たちの細かな表現までも見ることができ、世界中の映画館であらゆる人が楽しめるコンサートへと姿を変えることを可能にしました。
  • Record Karte
    • カラヤンとベルリン・フィルによる3回目のベートーヴェン交響曲全集。1982年から85年にかけて行われたセッションはすべてデジタル録音で、カラヤン初のベートーヴェンのCDとして歴史に刻まれた。
    • 演奏:ジャネット・ペリー(ソプラノ)、アグネス・バルツァ(コントラルト)、ヴィンスン・コール(テノール)、ジョゼ・ヴァン・ダム(バリトン)、ウィーン楽友協会合唱団、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    • 1982年〜85年ベルリン、ベルリン・フィルハーモニーでの優秀録音、名演、名盤。
    • 曲目
      1. (415 505-1)交響曲1番(1984年1月27日録音)、2番(1984年2月20、21日録音)
      2. (415 506-1)交響曲3番「英雄」(1984年1月25、26、28、29日録音)、エグモント序曲(1985年12月2、4日 録音)
      3. (415 121-1)交響曲4番、7番(1983年12月1~3、5日録音)
      4. (413 936-1)交響曲6番「田園」(1982年11月18~21日録音)
      5. (415 507-1)交響曲8番(1984年1月27日、2月20、21日録音)、フィデリオ序曲、レオノーレ3番、コリオラン序曲(1985年12月2、4日録音)
      6. (413 933-1)交響曲5番「運命」(1982年11月18~21日録音)、9番「合唱付き」(1983年9月20~27日録音)
    • これは1986年に発売されたボックス入りの全集ではなく、1984年から順次分売されたLP7枚をセットにしたもの。CDよりはコレクション価値が高いとはいえ、ベストセラーゆえに市場相場はリーズナブルで大変お買い得。
    • 5&9番にブックレット付属。

CDはアマゾンで

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