20数年かけて到達した結論 ― ヘルベルト・フォン・カラヤン、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の全盛期の録音。世紀の指揮者、カラヤンの「911ターボRS」は、おそらく世界で最も音楽的なポルシェだろう。カラヤンはその研ぎ澄まされた権威をカスタムメイドのスポーツカーに投影した。車輌重量は1000kg未満。4kg/PSというパワー・ウェイト・レシオが彼の理想とのことで、ポルシェはカラヤンのターボにRSRモデルのレンシュポルト・シャシーを奢り、カレラRSのボディとレース用サスペンションを投入した。インテリアにも軽量化の工夫が凝らされ、リア・ベンチシートの代わりにスティー ル製ロールケージを装着。ドア・オープナーにエレガントなレザーストラップを採用し、それを引っ張ることでロック解除できる仕組みになっていた。大径ターボチャージャーとシャープなカムシャフトを組み込んだ6気筒ボクサー・エンジンを搭載し、ラジオが奏でるシンフォニーを諦める代わりに大音量のサウンドを堪能できるマシーンに仕上げた。ボディカラーも独特で、1974年のル・マン24時間レースで見事2位に輝いた911カレラRSRターボ 2.1のマルティニ・レーシング・デザインを採用。この世界的なお得意先からの無理難題をポルシェは見事に解決した。耽美的なサウンドを追求して常に前進し続けたカラヤンだが、そのスタイルは舞台にとどまらず、プライベートにも及んでいた。ポルシェの大ファンで、F1サーキットで有名なザルツブルグリングで走ったり、自家用ヨットでレースに出たり、自家用のジェット機を自ら操縦していました。1926 年、ザルツブルクのギムナジウム卒業試験では、筆記試験において〝熱力学と燃焼エンジン〟 という題名の小論文を書き、その後 1 年半にわたり大学で機械工学を学んでいる。カラヤンは生前、常に圧倒的な存在感を放っていた。華奢な体つきとは裏腹に巨大なオーラを纏い、指揮の最中は、集中力を保つために鋭い碧眼を閉じたまま指揮棒を振っていた。音楽家であると同時にディレクターであり、プロデューサーであり、さらには演出家、建築家、そしてマッケッターであった。カラヤンはルネサンス時代の天才のような人物で、畏れ多い存在。ひとたび風変わりなオーケストラの演出を思いつけば、どんなに小さなディテールにもとことんこだわり、自身のエネルギーを限りなく注ぎ込んでいった。カラヤンがソニーのウォークマンをはじめて耳にして「本物よりいい」と感激して、以来カラヤンの車には必ずウォークマンが載せられていた。ラジオの代わりにカラヤンは、これで誰が演奏したCDを聴いていたのだろうか。あらゆる世代の音楽家とクラシック・ファンを虜にするカラヤンの音の魔力とはいったい何だろうか。カラヤンはかつてよくリハーサル後、帰宅途中にホテルへ立ち寄り、聖壇が飾られた行きつけのパブで子牛脳のアスピックを楽しんだ。彼はベルリン市民ではなかった。カラヤンの自宅はザルツブルグ郊外のアニフ、スキー場で有名なサンモリッツ、それに地中海に面した3つの家を持っていました。カラヤンと最も密接な関係のある都市としては、誰もがベルリンを思い浮かべるだろうが、驚いたことに、1955年から亡くなる1989年までベルリン・フィルの主席指揮者だった、彼はベルリンに家がない、ホテル住まいなのです。カラヤンの妻エリエッテによると、ベルリンで戦前から戦中に
大変困難な時代を体験したことも、この都市に定住しなかった理由だったようだ。
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飛行機からさっそうと降り立つ、まるでハリウッドスターのようなヘルベルト・フォン・カラヤンの姿をテレビで目にした方も多いでしょう。1954年の初来日以来、たびたび日本にも訪れた。この年は単身で来日してNHK交響楽団を指揮した。そして、カラヤンが指揮した日本のオーケストラはN響だけではなかった。来日中のカラヤンがアマチュア・オーケストラを指揮した、このハプニングな出来事もラジオ、テレビでも報道されたので、御存知の方も少なくないに違いない。〝帝王〟カラヤンを引っ張り出し、50分間の練習を指導してもらったこのラッキーなオーケストラは上智大学管弦楽団。まともにカラヤンなり、招聘元のNHKなりに申込んでも承諾が出る筈がない。今ならギャラはどうする、って思い立ち止まるだろう。ところが単身カラヤン氏に会見を申込んだのは、このオーケストラでチェロを受持っている20歳の女子学生。当然、マネージャーに追い返される。部員一同の署名を集めた彼女は、1000円のミカンを手土産に、憶せずもう一度宿舎へ。廊下で幸運にもカラヤンにばったり出会った彼女は、「30秒でも結構ですから、是非私達のオーケストラを指導してください」と必死のドイツ語で話しかけたところで、再びマネージャーが現われ、彼女から引離してカラヤンを連れ去るように、促そうとする。しかしこのとき、奇跡が起こる。カラヤンはマネージャーに命じて、彼女の名前と電話番号を控えさせた。彼女は、その夜のコンサートにも駆けつけ、花束の中に緬々と願いを綴った手紙をしのばせて差出した。カラヤンは彼女を覚えていて声をかける。今度はNHKの職員が割って入って彼女を隔てるが、カラヤンは大声で明後日練習場に来るように呼びかける。翌々日、約束通りに素直に彼女はたった一人で、だだっ広いNHKホールでカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の練習を聴いたのである。これも今なら当然だが、NHKの職員に注意され、つまみ出されかけるが、カラヤンは自分が許可したのだからと制止する。ばかりか、カラヤンはNHK側を押し切って彼女の願いを入れた上、その晩の招待券を彼女に贈った。コンサート・マスターのミシェル・シュヴァルベもその晩の独奏を彼女に献呈すると申し出る。彼女の心意気が彼等の心を揺り動かしたのである。貧しい楽士だった父親の楽団の窮状を見兼ねたその少女パッツィが、楽団を盛り立てようと単身練習場にもぐり込み、天下のストコフスキーを連れ出した、映画「オーケストラの少女」さながらの出来事が現実に起こった。とうの彼女も、幼ない頃父親に聞かされた映画「オーケストラの少女」の場面を想い出したという。「オーケストラの少女」の願いがかなえられ、カラヤン氏はいよいよ上智大学にやって来る。カラヤンはこの上智訪問のため、ベルリン・フィルの午前の練習を短く切り上げ、更に午後のレセプションを45分おくらせた。想定外のスケジュールに翻弄させられた人もいた筈だ。ただ確かなのは、練習を短く打ち切ったその晩の演奏が完璧な名演だったこと。そしてその一日中、どうしてカラヤンが上機嫌だったのか楽員もいぶかしんだという。彼女が手土産にしたミカンをきっと食べたに違いない。
帝王と呼ばれるほどの名声を手にしたヘルベルト・フォン・カラヤンの音楽の根底にあったものは、いったい何だったのでしょうか。それは、意外とシンプルな「美しい音へのこだわり」ではないか。カラヤンはある対談のなかで、「わたしがオーケストラに要求するのは、作曲家が書いたすべての音符を完全に弾き切ることだ」と語っています。カラヤンに指導を受けた上智大学管弦楽団の団員は、「実際に接したカラヤンは音楽に厳しく、人間的には暖かい誠実な人で、虚飾やはったりなど全くみられませんでした」と印象を述べ、「レコードで聴いているカラヤンのあの感じ。アマチュアに要求することもプロに要求することも根本的には同じなんだナと思いました」「日頃指揮者から注意されていることと基本的には同じことを注意されていたのです」 ― 「日頃注意されていることと同じことを注意された」ことに気付いたのは今後のためにとてもよいことだった、と気持ちを新たにしている。「とても真面目な芸術家という印象でした。単純で、基本に忠実で、無理が全然ない」「しかし説得力は違いました。適度にリラックスさせながら集中させていくテクニックは素晴らしい」「テレビなどで見るとわかりにくそうに見えたけれど、実際に振ってもらうと、とてもわかり易かった」「こう弾けというのではなく、下手ながらにもそう引き出されてしまうのです」と、短い時間の間で、カラヤンは「天来の音楽性というか、そうあるべき音楽がそこに示されたという印象でした」と初対面の楽団員一人残らずの心をつかんでしまった。巨匠としてのイメージが強いカラヤンですが、若いころは地方の歌劇場でキャリアを積んだり、失業してオーディションを受けたりと、才能を持て余した時期もあった。カラヤンが影響を受けた指揮者は、まずベルンハルト・パウムガルトゥナーです。パウムガルトゥナーはピアノでモーツァルテウムに入学したカラヤンに指揮の道を勧めました。さらにディミトリ・ミトロプーロスのことをよく語っていました。カラヤンが青年時代はまだレコードもほとんどない時代ですから、オーケストラの音を聞くには実際に演奏会に行くか、練習に潜り込むしかなかったのです。首尾よく練習に潜り込んで目の当たりにしたこのミトロプーロスの指揮ぶり、特に暗譜の素晴らしさを語っていました。また音楽的に圧倒的な影響を受けたのはアルトゥーロ・トスカニーニです。そのスピーディーなテンポと劇的な構成、帝王と呼ばれた権力志向など、明らかにこのトスカニーニの影響を受けました。
ローマ帝国時代から温泉保養地として栄えたアーヘンの市立歌劇場音楽監督に就任したのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンが27歳のとき。以降は、数々の伝説的な演奏を残してきました。世界トップ・スリーに数えられる名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者および芸術監督をはじめ、モーツァルトやベートーヴェンの時代から続くクラシック音楽の聖地・ウィーンの国立歌劇場音楽監督、また世界でも指折りのアーティストたちが集う夏の祭典ザルツブルク音楽祭では芸術監督として、などなど、彼の存在なくしては「音楽界が動かない」と噂されるほどその影響力は絶大で、まさに帝王として楽壇に君臨していました。そしてカラヤンの活躍は、録音技術の進歩とシンクロしています。カラヤンの奏でる音の正確さ、そして美しさが、新しいメディアとして19世紀後半に登場したレコードの特性とマッチしていたのでした。カラヤン自身も新しい機械に強い関心を示し、その後技術が進歩するたびに録音を重ねたレコード、CDは900枚にのぼります。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」に至っては、より美しい音の再現を求めて7回も録音された。芸術に畏敬の念を抱き、時代やトレンドにおもねることなく、楽譜を〝正確に再現すること〟が彼の音楽の解釈であり、究極のこだわりでした。その正確さの追求が、人々を魅了する美しい音を奏でさせていたのではないか。そのため、リハーサルを徹底的に行うことでも有名でした。ベルリン・フィルは1882年に創設された。当時のドイツは帝政である。以後、第一次世界大戦の敗北を受けて共和政となり、ナチス・ドイツ、第二次世界大戦の東西分裂時代、そして現在のドイツ連邦共和国と、このオーケストラは生き続けた。ナチスが政権を握った1933年以降、総統ヒトラーの誕生日である4月20日は国の祝日となった。1937年4月18,19日、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮するベルリン・フィルはベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した。これを宣伝啓蒙大臣ゲッペルスは、まるでベートーヴェンがヒトラーの誕生日を祝福しているかのように新聞に書かせ、プロパガンダに利用した。戦況が悪化した1942年4月19日にも、ドイツにはまだ力があることを内外に示さんとした。政府と党の幹部が揃い、さらに国防軍の将校や兵士、各国の外交団も居並ぶ、国家的行事宛らの演奏が、ベルリン・フィルにとって戦中最後のフルトヴェングラーとの「第9」だった。
戦後、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は創立75周年にあたって、1957年4月25,26日に「第9」を演奏して自ら祝った。指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。ベルリン・フィルが首席指揮者としてカラヤンを迎えて、「第9」を演奏するのは、この時が初めてだった。カラヤンとベルリン・フィルは数々のベートーヴェン交響曲全集を録音しました。1960年代のものから1980年代のものまで、実に5種類の全集を演奏した。そのうち2種類が映像作品としてのものです。ずっしりとした重さの中にも軽快なところがある、1960年代、1970年代の録音。1980年代にデジタル録音にかわると、弦の美しさに磨きがかかっています。曲の追い込みは例によって高速テンポ。それでも統制のとれているベルリン・フィルの技術はすばらしい。1960年代~70年代にかけて実験的手法を取り入れベートーヴェン交響曲全集に取り組んだカラヤンだが、それから20数年かけて到達した結論が、このテレモンディアル原盤の全集と言える。ベルリン・フィルが創立100周年を迎えて、1982年、クラリネットのザビーネ・マイヤーの首席採用を巡る対立を発端に、終身芸術監督を務めていたベルリン・フィルとの関係がギクシャクしていた。カラヤンはマイヤーのクラリネット奏法の才能が気に入り、ちょうど第二クラリネット奏者が不在になったこともあり、彼女をベルリン・フィルに迎え入れようとしたが楽団員の全員投票で否決された。楽員側の反対理由はベルリンの音と会わないからと言ってはいるが、オーケストラの格式を保つため、伝統的に男性団員以外の入団は認めていなかった。楽団の投票で決定したにも関わらず、カラヤンはあくまで強行に彼女の入団を主張し一歩も引かなかった。楽団員の採用の権限は楽団側にあり、その楽団投票で否決された彼女を採用することはありえないと主張するベルリン・フィル側とカラヤンとはそれ以後ことごとく対立するようになる。カラヤンは当時74歳ということで高齢である上ヘルニアも患っていました。迫る老いへの不安は焦りともなったのでしょう。ドキュメンタリーでこの頃カラヤンは、自身の肉体を冷凍保存して30年後に還ってきたいと覚めた顔で言っている。
最晩年のヘルベルト・フォン・カラヤンは、持病の腰痛が悪化し、指揮台に高めの椅子を固定して、そこに腰かけて指揮せざるを得なくなり、トレードマークだった「目を閉じたまま、流麗な棒さばきでオーケストラを操る」颯爽とした指揮ぶりは見られなくなったものの、オーケストラを統率する強靭な精神力には微塵の衰えもなく、逆にその肉体の不自由さがカラヤンの音楽作りにそれまでになかったある種の奥行きと深みを加えるようになりました。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は創立100周年を迎え、1982年4月から5月にかけ記念コンサートを行いました。初日のプログラムはモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」、そして、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」。当初は「第9」を予定していたということだ。コンサート・マスターはミシェル・シュヴァルベ。オーボエにローター・コッホやクラリネットにカール・ライスターなど黄金時代を支えた往年のプレイヤーもこの時期はまだまだ在籍していた頃です。「英雄」については大変評価が高く、カラヤンとベルリン・フィルの名盤の中の名盤とされています。弦、管、打楽器全てのセクションの熱の入った演奏はダイナミックの極み。感動的です。「第一楽章終了後、カラヤンも思わず感動」というような表記がベルリンフィルの写真集にあったと思います。いつも以上に実力を発揮した団員たちの渾身の演奏に対し、カラヤンが感動しているかのような写真がそこには掲載されており、団員たちもカラヤンが感動したことを感じ取っているかのように見えました。団員のモチベーションも100周年という重要な節目の演奏会ということもあってか、溢れんばかりのエネルギッシュな演奏は大舞台を飾るに相応しい名演奏となりました。映像制作と平行して、ドイツ・グラモフォンへレコーディングした、ベートーヴェンの交響曲第4番と第7番は、カラヤンのベートーヴェン解釈の総決算ともいえる、美しく彫琢された円熟した演奏です。シューマンが「ギリシャの乙女」と評した、アポロ的ともいえる古典的な均整美を湛えた第4番。ワーグナーが「舞踏の神化」と形容した、ディオニソス的ともいえる生命力溢れる第7番。彼が4度目の全集録音を行ったのは、単なる思い付きではないはず。精神性解釈や演奏法の深まりによって、以前3回の録音とは全く異なった仕上がりになっている。彼が到達した境地である。ベートーヴェンの対照的な性格の交響曲2曲によるプログラムは、1977年11月15日の東京普門館での演奏会でも実演している。カラヤンに意図するものがあったのは確かだ。たしかに第7番は1977年のものと比べれば、重量感と流麗さは劣るかもしれない。第7番はカラヤンのレパートリーのなかでも、曲の解釈があまり変わっていないのでカラヤンとしては珍しい。しかし、第7番の終楽章は見事に巨匠の境地と感じる。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのベートーヴェンの交響曲第7番では、指揮者と楽団の精神的結束が際立ちます。理性を失することなく、要求されるダイナミズムにここまで応えたレコードは幾つも存在しないでしょう。先人アルトゥーロ・トスカニーニとはまた別種の、毅然とした意思と求心力、一回性の覇気に圧倒されるベートーヴェンです。一流オーケストラによる繊細でかつ迫真の力演。大指揮者の全身をもってした音楽の熱と息吹にはじめて触れ得たという実感が湧きます。対照的な世界の第4交響曲ならではの魅力は、骨太なスケールの内に流れる旋律美です。この曲を最晩年まで好んで演目に取り上げたヘルベルト・フォン・カラヤンは、年齢とともに遅めのテンポを取るようになりましたが、当盤も美への純粋な憧れが滲んだ温かみのある演奏です。それでいて、見えない緊張の糸が緩まないのもカラヤンの長所でしょう。この2曲が録音された当時、なかなかカラヤンのように精一杯の重厚さでベートーヴェンやブラームスを聴かせる指揮者は一握りになっていました。同世代では、ギュンター・ヴァントがクローズアップされたり、後進の巨匠と呼ばれる人たちさえ小味な音楽を志向し始めた中で、彼は一生涯、自らが手本とした先人の流儀に近い形で音楽を発信し続けた。カラヤンは、あたかも楽壇の将来的展望を見据えた音楽家のように巷間伝えられていますが、本質的には、西欧の伝統の内に自己の在り方を探ってきた人であり、前衛を振りかざして仕事をすることの無かった指揮者です。往年の巨匠たちの例に洩れず、同時代の人々と価値観を共有しながら、自分にしか成し得ない理想の答えを追求していたように感じます。彼の生きた20世紀は、劇場空間を人間の情熱で隈なく満たすことが要求された時代であり、演奏上のロマン主義も即物主義もその同じ土壌に生まれたものでした。生前カラヤンが演奏会に来ることができない観客にも、ハイクオリティーの音楽体験を届けたいと熱望していた。晩年のカラヤンが腐心したのが、自ら設立した映像制作会社テレモンディアル社により、映像作品を収録、制作すること。それこそが、カラヤンが実現を夢見た完璧な音楽体験を現実とした。これまでごく限られた人しかコンサートホールで楽しむ機会が得られなかった素晴らしい演奏が、まるでオーケストラがあなたの目の前で演奏しているような、新しい音の空間に身を委ねられます。弦楽器が奏でるピチカートのようなくごく僅かな音から、オーケストラがフォルティッシモの演奏を始める時の演奏者たちの細かな表現までも見ることができ、世界中の映画館であらゆる人が楽しめるコンサートへと姿を変えることを可能にしました。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)は、レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSP時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼります。その中でも、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との結び付きがいよいよ強固なものとなり、続々と水準の高い録音が続々と行われた1970年代は、カラヤンの録音歴の中でも一つの頂点を築いた時代といえます。ヨーロッパの音楽界を文字通り制覇していた「帝王」カラヤンとベルリン・フィルと、ドイツでの拠点を失ってしまった英H.M.V.の代わりとなったドイツ・エレクトローラとの共同制作は、1970年8月のオペラ『フィデリオ』の録音を成功させる。カラヤンのオーケストラ、ベルリン・フィルの精緻な演奏は、ヘルガ・デルネシュ、ジョン・ヴィッカースの歌唱を引き立てながら繊細な美しさと豪快さを併せ持った迫力のある進め方をしています。有名なベートーヴェンのオペラが、ただオペラというよりオラトリオのように響く。カラヤンは1972~76年にかけてハイドンのオラトリオ『四季』、ブラームスの『ドイツ・レクイエム』、さらにベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』という大曲を立て続けに録音しています。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルをオーケストラ・ピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおける英EMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。英EMIがドイツものだけでなく、レパートリー広く録音することを提案したようです。この1970年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、「美」がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。ベルリン・フィルの魅力の新発見。そして、1976年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団から歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルは縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。カラヤンのレコードでは、芸術という大目的の下で「人間味」と「完璧さ」という相反する引き合いが、素晴らしい相乗効果を上げる光景を目の当たりにすることができる。重厚な弦・管による和声の美しさ、フォルティシモの音圧といった機械的なアンサンブルの長所と、カラヤン個人の感情や計算から解き放たれた音楽でもって、音場空間を霊的な力が支配しており、聴き手を非現実の大河へと導く。
- Record Karte
- 1983年11月29〜12月6日ベルリン、フィルハーモニーでのスタジオ・デジタル録音
YIGZYCN
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