小澤征爾の旺盛な興味が良い方向に出ている。熊本地震を体験して改めて聞くこのレコードは愛着を深めさせる。 ― アルマ・マーラーが未婚でもうけた娘マノンが、19歳で急逝したのを悼んで作曲されたベルクの協奏曲。20世紀前半の音楽史に重要な功績を残した新ウィーン楽派の作曲家たちのなかで、アルバン・ベルクはある意味で特異な存在だったと言えるだろう。新ウィーン楽派の一員として、シェーンベルク、ヴェーベルンと共に活躍したオーストリアの作曲家、アルバン・マリア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg、1885年2月9日〜1935年12月24日)は、裕福な商人の家庭に生まれた、文学や演劇に関心を持った少年でしたが、15歳から独学で作曲の勉強を開始し、歌曲などを書いています。この頃、恋愛事件によって自殺未遂まで追い詰められるなど、きわめて多感だったベルクでしたが、シェーンベルクとの出会いによって、作曲家として身を立てることを決意したのも同じ頃のことでした。後期ロマン派から無調へ、さらに12音技法の創始者として、時代を切り開いていった師シェーンベルク。師の世界をさらに推し進め、前衛の時代の絶対的な規範となった盟友ウェーベルン。しかしながら彼らの道のりは同時に、20世紀の音楽が抱えることになった問題、すなわち聴衆との断絶を広げるものだった。そのなかでベルクはオペラ《ヴォツェック》によって興行的な成功を手に入れ、ストラヴィンスキーの《春の祭典》が20世紀音楽の古典と呼ばれるのと同じく、ベルクの《ヴォツェック》は1925年のベルリン初演以来、20世紀オペラの古典と評されるように、十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。師のシェーンベルクのもと、ヴェーベルンが未来を志向したと言われるのに対し、ベルクは過去と密接に繋がって、無調や十二音の作品でさえ後期ロマン派的で濃密な気配を感じさせたのがポイント。また「あなたの様式なら、無調の音楽やそれに対する否定的なイメージについて、突破口となるものが書ける」という依頼から、《ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」》が生まれた。この曲は、ヴァイオリニストのルイス・クラスナーによって依嘱されたものですが ― ベルクはヴァイオリンの曲は十分に書いたと考えていたし、何より、「ルル」というオペラの作曲中だった為その依頼を受けるかどうか迷った。しかし、クライナーの提示した報酬が1,500ドルと高額だったため、引き受けることに決めたとも伝わっている。その結果、作曲直後にベルク自身も亡くなり「ルル」は未完に終わった。本盤は、1970年代に小澤征爾がドイツ・グラモフォンに録音した20世紀の音楽作品。ベルクのヴァイオリン協奏曲は、親しかったアルマ・マーラーの愛娘の死を悼んだレクイエムであると同時に、自らの死を予感した自伝的作品とも言われる。超絶的な技巧を要する曲であるのだが、ここでは卓越した技量で清澄な美しい音色で描いて行く、表面的な美しさにとどまらず、ベルクが12音技法の中に込めた人生の寂寥感や絶望などの深い抒情をたたえている。ストラヴィンスキーの音楽は常に革新的であると同時に新古典主義にみられるように過去の音楽に、その本流を探り、また12音技法の導入とジャズヘの関心という新しいものの弛まぬ摂取欲、そして作品の独創的な楽器編成、響きの不調和および独特なリズムへの関心は今までの音楽の殻を破るものであった。このような現代音楽を得意とした小澤&ボストン交響楽団も、これ以上は求め得ないほどの最高のパフォーマンスを示している。喧噪猥雑引き連れた旺盛な活力の一方で素朴なまでの敬虔さや甘美な夢見が入り混じり、多種多様なソノリティが響き交わす。緻密なアンサンブルによる演奏で聴き終わった後の満足感。響きの良さで知られるボストン・シンフォニーホールで行なわれた。小澤の録音のなかでも記念すべき名盤として知られる。
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アルバン・ベルクがアルノルト・シェーンベルクに師事したのは1904年から1910年までのことで、その間、「ピアノ・ソナタ作品1」や、「4つの歌曲作品2」、「弦楽四重奏曲作品3」を作曲しています。1911年には、オペラ歌手志望のヘレーネ・ナホヴスキーと結婚。翌年には「アルテンベルク歌曲集」を完成し、同作品は1913年3月31日にシェーンベルクの指揮によって演奏された際、大騒ぎを巻き起こし遂には警察沙汰にまでなるという反響を呼びました。シェーンベルクに批判されたベルクは、それに応えるため師の指示通りにオーケストラのための小品を書きます。が、実際の作品は小品とは名ばかりの強烈な作品となり、マーラー風の音楽をシェーンベルク的な語法で要約したかのような印象的な作品となりました。ちなみに同作品には、マーラーが第6交響曲で用いた「ハンマー打撃」の手法が用いられているのも興味深いところです。代表作のひとつであるヴァイオリン協奏曲には「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)の献辞が付されている。バロック時代後期に、ヴィヴァルディが創始した急緩急の3楽章構成の独奏協奏曲が習慣だった伝統を破り、この協奏曲は2楽章構成で成り立っている。宇宙の始まりような密やかな序奏で始まり、ヴァイオリンのソロは純粋無垢、穢れをしらないマノンを象徴しているようである。優雅に、愛らしく、マノンの姿を描きながら曲は進み、ウィーンのワルツ風の音楽が現れる。遠くでは、オーストリアのケルンテン州という地方を思わせるように、とアルバン・ベルクが楽譜の中に記述している民謡が聞こえている。ケルンテンはベルクとマノンが初めて出会った場所なのだ。「もう十分です。主よ、どうか私に休息を与えてください。私のイエス様がいらっしゃる、この世界よ、さようなら、苦しみはこの世に残して心やすらかに、私は天国へと旅立ちます。もう十分です。」厳かに美しく奏でられるこのフランツ・ヨアヒム・ブルマイスターによるコラールの歌詞はバッハのカンタータにも使われていたので、ベルクはこれがバッハの作品だと思っていた。羽が生えてふわふわ飛翔するようなフレーズが幻想的なのだが、ヴァイオリン・ソロとオーケストラがバラバラに存在しているように、旋律らしいものは浮かんでは沈みを繰り返すばかり。なおも無邪気にワルツを踊ろうとするマノンを病魔がとうとう捉えると、遠くから再び、ケルンテンの懐かしい歌のメロディーが聞こえてくる。すると穏やかに、この世の思い出を馳せるように。「もう十分です」と、ヴァイオリンで一段と高く、今一度そう呟かれると、よろよろと音は降下し、ぷつり、と不自然に途切れ終わる。この曲を支配する12音技法の手法所以ですが、熊本地震を体験して改めて聞くこのレコードは愛着を深めさせるものになった。12音音楽はもともと調性の束縛から逃れるためのものであったのにも関わらず、ベルクがこの曲で提示している12音音列は、長調と短調、そして全音音階をミックスさせた、あえて調性音楽の残滓を残すものだ。それが、この曲が12音音楽でありつつも、私たちに親しみを感じさせ、何度も再演されるような人気の曲にした理由の1つではないかと思う。結果、ベルクの音楽は最も早くから受け入れられ、そして最も愛されるレパートリーとなってきた。知的でありながら、単純で整頓された数学的構造で作曲されている。しかも、彼の音楽は知性豊かなだけでなく、エロスさえ内在している。初めて聴いた時から、心地よさを説明できないものでしたが、災害や病気の悲しみより、安全なスペースである避難所の中で身を寄せあっているだけで、先のはっきりしない不安が曲を聴いた時の感銘を違える曲ではないか。
ストラヴィンスキーは、ペテルブルグ近郊のオラニエンバウムで三男として生まれた。父フョードルは、ペテルブルクのマリインスキー劇場で26年も務めた有名な主役バス歌手であった。家には図書館並みの20万冊もの蔵書があった。大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、20歳の時リムスキ=コルサコフに作曲を学ぶ機縁となった。両親は息子を音楽家にするつもりはなく、このまま1905年卒業まで法律を一応学んだが1902年末に父が亡くなり、この時すでに作曲家になる決心をしていた。ストラヴィンスキーの音楽の特徴は、西欧とは異なったビザンツ系の文化形態にあったロシアの音楽に端を発すると思われる。1908年、自作曲『スケルツォ・ファンタスティック』と『花火』を初演すると、ロシア=バレエ界に君臨したディアギレフに見出されバレエ音楽『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)を次々に作曲しパリで初演し、その名を不動のものとした。その生涯は実に旅行による一生といってよくヨーロッパの多くの国に滞在し、それぞれの地で多くの作品を生んでいる。ストラヴィンスキーの旋律、和声、リズムは独特といえ、対位法を持たない彼の音楽が管弦楽法の楽器の使い方で特徴づけられていく。第一次世界大戦勃発とともにフランスに住み、初期の表現主義、原始主義的作風から新古典主義に移っていく。
ストラヴィンスキーの新古典主義作品をあらためて聴いてみると、ラヴェル、ミヨー、プーランクあたりの新古典主義とは随分趣が違うように感じる。かなり新鮮に聴こえるものです。ストラヴィンスキーが1931年に作曲した、この「ヴァイオリン協奏曲」は、非常に変わったスタイルを持っています。ストラヴィンスキーの説明によると、バロック音楽に敬意を払って作曲したということですが、果たして、これはどうだか。かなり怪しく、胡散臭い。でも、この胡散臭さが、この作品の魅力になっています。全3楽章の構成であるが第2楽章のアリアを2つに分けることがあるため、「トッカータ」、「アリアⅠ」、「アリアⅡ」、「カプリッチョ」の4楽章構成。この構成を見ても判る通り古典的な協奏曲とは違う、上辺は古典曲の殻をかぶせてあるものの、その中身はまったくの現代音楽になっているというディヴェルティメント風で滅法楽しい。おそらく、この手の作品には古今の様々な作品のオマージュやらパロディが隠されているような気がしてなりませんが、「アリア」冒頭のヴァイオリンの和音は「トリスタンとイゾルデ」第2幕冒頭の引用かと思われますし、終楽章はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番を連想させます。まるで、おにぎりを食べたのに、その具は生ウニだったみたいな感覚。多くの現代音楽とストラヴィンスキーの代表作品、さらにヴァイオリン協奏曲の歴史を知っていれば知っているほど面白く聴くことができる曲です。バロック音楽から借りてきたスタイルということなんでしょうが、ヴィヴァルディとも良く似たところがある。ストラヴィンスキーの場合、ソロ・ヴァイオリンの動きを阻害するパートは一切削除されており、簡潔なオーケストレーションが施されておりヴァイオリンの動きが良くわかる。それでいて、音色のパレットは非常に豊富です。ヴァイオリンと他の楽器1種類をパートナーに、刻々と進行されていくオーケストレーションの工夫。これがまた舞踏会でパートナーを変えていくという風でもあり、他の作曲家から借用して来たメロディーが原曲が何か気が付かないで通りすぎるほどにストラヴィンスキー流にアレンジされて登場する。果ては自作の火の鳥の有名な旋律がちらりと出てくる、どこからどこまでが本物で、どこからどこまでが偽物なのか、こうした聴き方というのも面白いものです。古典をベースに独自の視点で洗練していく、そこをストラヴィンスキーは新古典主義の目標に見据えていたのでしょう。
イツァーク・パールマン(Itzhak Perlman)は1945年8月31日にイスラエル、テル・アヴィヴに生まれた。テル・アヴィヴ音楽院で学んだ後、彼が13歳のときニューヨークに渡ると、1958年「エド・サリヴァン・ショー」への出演をきっかけに演奏活動を開始。ジュリアード音楽院の教授イヴァン・ガラミアン、ドロシー・ディレイに徹底的に鍛えられた話は余りにも有名である。1964年にレーヴェントリット国際コンクールで優勝。以来、世界の主要なオーケストラとの共演やリサイタルを行っている。その圧倒的なパフォーマンスと実績は、まさにクラシック界を代表するスーパースターと呼ばれるに相応しい。しかし、それを多忙なコンサート・ツアーの間にいかにして保持してゆくかという問題について、パールマンはこんなふうに答えている。
演奏旅行中にはとても充分な練習 ― プラクティス時間なんかありません。そこで、ぼくはインスタント・プラクティスと呼んでいるものをやっています。多くの人は練習に練習を重ねて、それから得るものが余り無いことをやっているようだが、ぼくはどこに問題があるかを知っているので、そこだけをチェックする。どんなひとにも調子のいい日と悪い日があるもんですよ ―― これは人間だから避けることが出来ません。だが、ぼくがやろうと努めていることは、たとえ調子が悪くとも、ある水準以下に下げないってことですね。上手く弾けてる時はいい気分です。上手くいってない時には、なぜそうなのかということを見極めようとするのです。リサイタルの最中に厄介なパッセージに差し掛かっていることを知ると、ここは練習のとき上手くいったんだから、コンサートで上手くやれないこと無いさ、と思い返すんです。ちくしょう!大丈夫できるさ、と全力投球するんですよ。これで上手くゆくんですね。パールマンの演奏がいつどこで行われても、常に完璧そのものなのは演奏中に彼が心の中で行う〝インスタント・プラクティス〟のせいだといっているのである。まことに凄いといわざるを得ない。フランスには古いヴァイオリン音楽の伝統がある。それはベートーヴェンよりもはるか以前にまで遡ることができるが、フランスは主として19世紀から20世紀にかけて、ヴァイオリン音楽に大きな貢献をしてきた。作品でいうとフランク、フォーレ、ショーソン、あるいはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルといった作曲者名を挙げるだけで、そのことが明らかになるだろう。フランス芸術というと必ずラテン的な感覚美が問題にされる。それは決して間違ってはいないが、フランスの芸術はさらに国際的な広がりを志向してきたのである。ところがパリは最もフランス的な都会であると同時に、世界でもまれに見る国際的な都市として知られている。そこでフランスの有名な演奏家はもとより、ここでは世界中のヴァイオリニストを聴くことができる。しかも第2次大戦後30年を経た今日、各国のヴァイオリン楽派はこぞって偏狭な地域性をかなぐり捨て、より合理的で高度な演奏を目指して進んでいる。
昔ならともかく、今やフランスのヴァイオリニストだから粋な感覚を売り物にし、ロシアのヴァイオリニストが名技主義的であるといった先入観は、ものの見方を誤らせる危険性があろう。このような状況のなかでフランスは優れたヴァイオリンの音楽と演奏家を生み出してきたわけだが、そこにもっともフランス的な精神が息づいていることと同時に、最も普遍的な芸術が育てられてきたことを見落とす訳にはいかない。そこでフランスのヴァイオリン音楽にしても、その普遍的・国際的な一面が発揮されることになるのは当然である。往年のフランスのオーケストラならではの明るく美しい色彩の世界を心ゆくまで堪能させてくれた、パールマンがジャン・マルティノン指揮パリ管弦楽団と共演したフランス音楽は、その典型とも言えるが、言うまでもなくパールマンはフランスのヴァイオリニストではない。彼は第2次大戦が終結した直後にイスラエルで生まれ、ジュリアード音楽院に留学してイヴァン・ガラミアンに師事、1964年のレヴェントリット・コンクールで優勝したという経歴である。だがここでまず問題なのは彼の経歴や国籍ではなく、その音楽性である。サン=サーンスやショーソンの作品にしても、まずはフランス的であるかどうかということより、単純に音楽としての格の高さを問題にせねばなるまい。とするとパールマンと作品の触れ合いもそこから出発する。当然である。このヴァイオリニストは自らの体質をさらけ出し、ごく自然に、率直に作品に対している。かつてしばしば音楽の造形面における憑依的な崩れがフランス的な洗練という名目によって容認されてきたが、それが仮にフランスの芸術家の手で行われたとしても結果的にフランス音楽の一つの面だけを誇張したことになるのはやむを得ない。さいわいパールマンは現代の演奏家として、そうしたことを認めてはいない。彼の演奏は、譜面に対して正確である。従って造形はあくまでも端正に処理され、表情がどれほど情熱的な場合も感覚的に濁りがない。今やフランスの演奏家といえども、そうしたことを求め実行しているのであるから、結果的にパールマンのフランス音楽がフランス的であるか無いかというより、音楽的であろうとするのは当然である。あえていえば彼のフランス音楽は、その国際性と現代性において、全くフランス的と形容して良いのである。こうした場合、これらの作品もその厳しさとたくましさに耐えて、いっそう底光りのする真価を発揮するが、マルティノン指揮のパリ管弦楽団が、そうしたパールマンに対して、あらゆる意味で見事な同質性をもって融合していることは、いわばパールマンのフランス音楽における正当性の証明である。
20世紀を代表するヴァイオリン協奏曲2曲を収めた当アルバムは、イツァーク・パールマンのドイツ・グラモフォンへの最初の録音であり、小澤征爾指揮ボストン交響楽団という最高の共演者を得た代表的名盤として評価されています。パールマンのヴァイオリン・ソロは豊かな表情を湛え、魅力あふれたこの作品を存分に弾き込んでおり、特段に美しい響きを聴かせる。超高音の音程の正確なこと。一つ一つの音が、どんなに難所でも、はっきりと、きらびやかに鳴っています。ヴァイオリニストにとっての難曲の一つであり、超絶的な技巧を要する曲であるのだが、 パールマンは決して技巧のみを全面に打ち出してはいない。ベルクが同曲に込めた人生の寂寥感や絶望などを、実に清澄な美しい音色で描いて行くが表面的な美しさにとどまらず、同曲に込められた深い内容を掘り下げていこうという真摯なアプローチが素晴らしい。それでいて、卓越した技量にはいささかの不足はなく、このような現代音楽を得意とした小澤&ボストン響も、これ以上は求め得ないほどの最高のパフォーマンスを示している。もう一方の、ストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲は、ベルクに比べると、暗いトンネルを抜けた明るさが持ち味の曲であるが、こちらも内容重視のパールマンのアプローチや小澤&ボストン響の好パフォーマンスには変わりがない。20世紀を代表する2つのヴァイオリン協奏曲ともに、ヴァイオリニスト、指揮者、オーケストラの三拍子が揃った名演だ。1978年11月(ベルク:ヴァイオリン協奏曲 《ある天使の思い出に》)、1978年2月(ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調)録音。パールマンは彼が22歳の時に録音した最初のコンチェルト・グループ ― チャイコフスキー、シベリウス、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番 ー の入れなおしを完了した時、これらの初録音を未熟だと思っていると言っていた。パールマンほどの名手になると、若き日の録音はそれなりに価値があり、一人の偉大なアーティストの成長の軌跡をたどることの出来る貴重なドキュメントというべきだろう。パールマンは13歳の時、エド・サリヴァン・TVショーのゲストに招かれて渡米して研鑽を深めるきっかけを掴んだが、このレコードの発売当時、彼は自己を語っている(グラモフォン誌、1981年9月号)。
ぼくは、ぼくが13歳で信じがたいほどの驚異的天才であったとは信じていない。OK、ぼくは才能に恵まれてはいたが、アブノーマルな天才じゃなかったな ― 天才とは、良かれ悪しかれ、アブノーマルなもんでしょう。ぼくの場合には、それは健全な才能だったし、ぼくの生活からかけ離れたものじゃなかった。フリッツ・クライスラーとヤッシャ・ハイフェッツのレパートリーを現代に更新し充足しうるヴァイオリニストと言ったら、パールマンを措いて他にないだろう、と期待が大きかった時代を邂逅できるレコード。全ての音程は完璧に制御され、徹底的な美音、暖かで繊細・豊麗な歌い回し等が彼の演奏の特徴である。レパートリーは極めて広く、協奏曲・ソナタのみならず、クライスラーなどの小品集でも高い評価を受ける。また純粋クラシック音楽以外の分野も手がけ、ユダヤの民族音楽を歌ったものやスコット・ジョプリンのラグタイム集などの演奏等の業績も見られる。パールマンが弾く楽器は、かつてフランスのヴァイオリニスト、エミール・ソーレが所有していたグァルネリ・デル・ジェスの「ソーレ(Sauret, 1740-1744)」と、パールマンが23歳の時にユーディ・メニューヒンに弾かせてもらい恋に落ちた楽器で、「もし手放す気になった時には是非僕に売ってください」とお願いしていた。そのメニューヒンより購入した、ストラディヴァリウスの黄金期に類される1714年製「ソイル( Soil )」を1986年から使用している。
小澤征爾は 2002年、ボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。 NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団との事件は彼の指揮者として目指していくスタイルを確信させた。欧米のクラシック音楽の中心にはドイツ音楽精神が根強い。小澤征爾は38歳の若さで1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任します。以来、その演奏は国際的なレーベル、ドイツ・グラモフォンから発売されるようになり、国際的なレーベルから、その演奏が発売された日本人指揮者では初めてのことでした。小澤の得意のレパートリーは何か、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるだろうか。それは近年の松本でのフェスティバルでもフランス音楽がプログラムの核であることでも貫かれている。ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲やバレエ音楽、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。明るくスマートでアクも少なく、リズムの扱いもていねいで好感が持てる。大きなオーケストラに唯一人対峙する指揮者。欧米の名門オーケストラを若いうちから指揮する機会に恵まれたのは、小澤征爾が物珍しい東洋人であったからだろう。小澤が着任した時のボストン交響楽団は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。しかし小澤自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。そこで重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど小澤が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタイン ― その後、彼は指揮者となり成功している。 ― はそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。それでも辛抱強く時間をかけて、ボストン交響楽団はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」は殆ど感じられない、工芸品の美しさに人種の息吹を知るといったふうに小澤らしさとは、メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。アグレッシヴで瑞々しい感性を持ち合わせていた頃の芸風を知るにも恰好の一枚です。
1978年2月6日、11月27,28日ステレオ録音。
YIGZYCN
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