ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させたレスピーギが目指したイタリア古楽の復興、そして古楽の再作曲・構成のために古い音楽を利用した20世紀の名曲。 ― 日本人指揮者では初めての国際的なレーベルからのリリース。聴き終わった後の満足感。響きの良さで知られるボストン・シンフォニーホールで行なわれた。小澤征爾の録音のなかでも記念すべき名盤として知られる。20世紀は様々なものが楽器として登場しますが、大正時代末、まだ最新なものだった蓄音機をオーケストラのステージに上げた作曲家。一方で図書館に眠るルネサンスやバロック時代の手稿譜の研究を通じて、自国の音楽遺産への理解と愛情を深めていった結果、20世紀イタリアの器楽ルネサンスを興したレスピーギが、そうした古い時代のリュート作品をもとにして作曲したのが、3集からなる《リュートのための古風な舞曲とアリア》です。中でも《シチリアーナ》は平原綾香が自作詞をつけて歌うなど、第3組曲が最もよく知られています。その第3組曲を最初(1975年10月)に、その後に第1組曲(1977年3月)、第2組曲(1978年4月)を本拠地ボストンで録音していきます。その間の1977年10月に交響詩《ローマの松》、交響詩《ローマの祭り》、交響詩《ローマの噴水》の3部作を録音。足掛け4年をかける慎重なものでした。これらレスピーギの管弦楽曲の2枚のLPレコードは、2530 890(ローマ三部作)、2530 891(リュートのための古風な舞曲とアリア)とカタログ番号が連番だから、レーベルも録音に気合が感じられる。本盤は、1970年代に小澤がドイツ・グラモフォンに録音した20世紀の音楽作品。喧噪猥雑引き連れた旺盛な活力の一方で素朴なまでの敬虔さや甘美な夢見が入り混じり、多種多様なソノリティが響き交わす。レスピーギはイタリア古楽の復興を目指していた。近代音楽は忘れられていた音楽から新しい音楽語法を模索してきたが、レスピーギは違っているのが20世紀音楽の面白さである。そこには、ロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わり、ニコライ・リムスキー=コルサコフから5ヶ月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けたことは多いにあるだろう。くわえて管弦楽曲はとりわけフランス印象主義音楽 ― 特にクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル ― の影響を感じさせる。ふたつの要素に根ざしたレスピーギは小澤の、当時の得意にマッチする。そうしたレスピーギの自由な形式、拡張された和声法、音楽表現に見られる激しい振幅が作品を左右する要素となっている雑種感がてんこ盛りでありながら、その特色世界を小澤流ビビッドネスでぴたり楽しませる。
- Record Karte
- 1977年10月ボストン、シンフォニーホールでのセッション、ステレオ録音。
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オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879.7.9〜1936.4.18)は近代イタリア復古主義の一翼を担った作曲家。中世・ルネッサンス・バロックのイタリア音楽の要素と民族主義的立場を結びつけました。ストラヴィンスキーやプロコフィエフらに受け継がれていくムーブメントですが、初期の擬古典主義風潮の中で、レスピーギは流麗なオーケストレーションと甘美な旋律を特徴とし、フランスで六人組 ― ルイ・デュレ(Louis Durey, 1888〜1979)、アルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892〜1955)、ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892〜1974)、ジェルメーヌ・タイユフェール (Germaine Tailleferre, 1892〜1983)、フランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899〜1963)、ジョルジュ・オーリック(George Auric, 1899〜1983) ― が「新しい単純性」を、中でもウィーン古典派の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、レスピーギは古典派音楽以前の旋律様式や舞踊組曲などの音楽形式を ― 古楽の再作曲・構成のために古い音楽を ― 利用することで、近代的な和声法やテクスチュアと融合させている。「ローマ三部作」はそれぞれローマの名所旧跡めぐりといった様相を呈しており、全て聞き終えるとローマ小旅行をしたような気分を味わえる。《ローマの噴水》は印象主義的な叙景描写の曲であるのだが、ローマに数多くある噴水から田園地帯から、政治の中心地域までの4つの噴水を選び、夜明けから黄昏までを、それに重ねる。古代ローマ時代にはすでに、飲料水や大衆浴場などで大量の水を用いることから、ローマ水道と呼ばれる膨大な数の水道が建設されていたことを背景にドラマを感じさせる。《ローマの松》は松に託したレスピーギの歴史的心象を音の絵として表現したもので、よりはっきりと葬儀やローマ軍の行進などという今現実には存在しない過去の事象の包している〝イメージ〟を、今も昔も同じ場所に生きていることを現存し、イタリア人に聖樹として大切にされている「松」を象徴的な主題として使って聴衆に共有してもらう手段としている。
小澤征爾は2002年、ボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。小澤は38歳の若さで1973年にボストン響の音楽監督に就任します。以来、その演奏は国際的なレーベル、ドイツ・グラモフォンから発売されるようになり、しかもこの国際的なレーベルから、その演奏が発売された日本人指揮者では小澤が初めてのことでした。大きなオーケストラに唯一人対峙する指揮者。NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団との事件は彼の指揮者として目指していくスタイルを確信させた。「世界のオザワ」がはじめて持った、「自分のオーケストラ」はトロント交響楽団で、1965年秋に音楽監督に就任した。欧米の名門オーケストラを若いうちから指揮する機会に恵まれたのは、小澤が物珍しい東洋人であったからだろう。遡ること、レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督と成っていた1960年。小澤はバーンスタインとパーティーで会うと、街に連れ出され、飲み明かした。小澤には知らされていなかったが、この時点で彼をニューヨーク・フィルの副指揮者にすることが内定していた。明るくスマートでアクも少なく、リズムの扱いもていねいで好感が持てる。このオーケストラは翌61年4月下旬に日本公演を予定しており、話題作りとして日本人を起用してみようと考えたらしい。 欧米のクラシック音楽の中心にはドイツ音楽精神が根強い。小澤の得意のレパートリーは何か、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるだろうか。それは近年の松本でのフェスティバルでもフランス音楽がプログラムの核であることでも貫かれている。ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲やバレエ音楽、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。小澤が着任した時のボストン響は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。しかし小澤自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。そこで重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど小澤が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタイン ― その後、彼は指揮者となり成功している。 ― はそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。それでも辛抱強く時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」は殆ど感じられない、工芸品の美しさに人種の息吹を知るといったふうに小澤らしさとは、メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。アグレッシヴで瑞々しい感性を持ち合わせていた頃の芸風を知るにも恰好の一枚です。
YIGZYCN
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