交響曲第7番と主題が関連している「フス教徒」。《イギリス》と《新世界より》に挟まれた序曲三部作「自然と人生と愛」。 ― ラファエル・クーベリックには「その音楽は概して中庸で、素朴な味わい云々」といった評が付いてまわる。商業録音の成果に関して多く言われていたことで、音楽的特質においてクーベリックは一種フルトヴェングラー的な気質を持っていたとされ、個性的だが、あざとくないアゴーギグ。例え方を変えれば、演歌すれすれの泣き節。激しくも気高い情熱。心憎いまでの絶妙な間の取り方。そしてオーケストラとの阿吽の呼吸。ザックバランな言い方をすれば、ぶっ飛び破廉恥演奏ではないが、間違っても退屈な優等生演奏ではない。かえって要所要所で「おっ、おぅっ」と仰け反らされるテクニシャン。とはいえ、それも絶対的な安心感で身を任せていられる。全体的に湧き立つような早めの推進力のあるテンポが採られ、その中で野卑にならないギリギリのところで見事な緩急が付けられています。細部の彫琢は入念に整えられており、ちょっとした打楽器や木管のアクセント一つが意味深く響き、対旋律が埋没することなく絶妙なバランスで引き立つよう目配りされている。熱狂と哀愁とが絶妙に交錯する作品の本質を、あくまでも自然な流れの中で描き出す手腕は全盛期のクーベリックならではといえるでしょう。1973~1976年、ミュンヘン、ヘルクレスザールにおけるステレオ録音。ドヴォルザークの管弦楽曲というと『スラヴ舞曲』ばかりが取り沙汰されますが、一連の交響詩群もダイナミックな迫力と美しい旋律の双方を満たす親しみやすい作風なので、この作曲家の交響曲がお好きな方は聴いておいて損の無い作品が目白押しともいえる状態です。特に、このアルバムにおけるクーベリックの演奏は、たいへん優れた演奏として評価の高いもので、描写的性格はもちろんのこと、音響面での充実振りもかなりのものです。本盤は序曲《自然の国で》《謝肉祭》《オセロ》と《フス教徒》。1973年4月16日、まだ43歳でイシュトヴァン・ケルテスがテル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ行方知れずとなったことで、1973年12月に『スラヴ舞曲集』を録音し、フルトヴェングラー、カラヤン、ベーム、バーンスタインといったレコードでの人気指揮者が全曲盤を残さなかったにもかかわらず、LP初期から定盤とされる録音に恵まれてドヴォルザークの序曲と交響詩全曲を完成しました。クーベリックはチェコの人々にとって『スラヴ舞曲集』は極めて神聖な音楽であると語っていた。クーベリックの考え、音楽哲学がオーケストラ全体に行き渡っている。終始自信と確信に満ち溢れているがバランスのとれた安定感ある仕上がり、渋く落ち着いた弦楽器の音色に木管の潤いのある響きなどオーケストラは気品があってしなやかに歌い流している。本盤をはじめ、指揮者とオーケストラが作品を知り尽くし文字通り一体化していることが判ります。
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録音は1950年代からミュンヘンの録音会場として使われ、その優れた音響で知られるヘルクレスザールで行なわれました。後の1986年にガスタイク・フィルハーモニーが出来るまではバイエルン放送交響楽団の定期演奏会も、すべてここで開催されていました。1800人以上を収容できる典型的なシューボックス形式のホールで、細部をマスクし過ぎない適度な残響感、高音域から低音域までバランスのとれた響きの2点で、録音には最適であり、マウリツィオ・ポリーニも好んでそのソロ録音をここで行なってきました。ドイツ・グラモフォンによるクーベリックとバイエルン放送交響楽団の録音も一部を除いて、このホールで行なわれており会場の特性を知り尽くした安定感のあるバランスが聴きものです。ドイツ・グラモフォンならではのオーケストラ全体を俯瞰できるサウンドの中で、木管や打楽器など重要なソロ・パートが適度な明晰さを持ってクローズアップされています。楽器配置はいつもながらのヴァイオリン両翼型で、弦楽セクションの動きの激しいドヴォルザーク作品にはまさにうってつけ。立体感充分の音響面での成果は、ヴァイオリン・パートを左右に分ける配置が功を奏しています。
「私が姿を現すと12,000人もの聴衆から熱狂的な歓迎を受けた。私は心からの感謝を表すために何度も繰り返しお辞儀をしなければならなかった」 ― アントニン・ドヴォルザークは1884年3月、ロンドン・フィルハーモニック協会の招きでイギリスを訪問し大成功に終えると、ドヴォルザークはヴィソカーという小さな村に建てた別荘にこもり、くつろいだ時間を送った。この別荘は義理の兄にあたるコウニツ伯爵から土地を譲り受け、プラハから60km離れた小さな村に造ったもので、今やチェコを代表する作曲家となったものの田舎生まれの彼には、ゆったりとした田園生活を送る必要があったのである。1884年6月にドヴォルザークは、ロンドン・フィルハーモニック協会の名誉会員に推薦されるとともに新作交響曲の依頼を受けた。これに応えて作曲されたのが交響曲第7番である。そして、彼はこの新作交響曲を携えて1885年4月に3度目の渡英を果たす。ドヴォルザークとイギリスの蜜月はこの後も続き、結局生涯に9回のイギリス訪問を重ねている。交響曲第7番は、劇的序曲『フス教徒』とも主題上の関連がある愛国的な感情を伺わせる作品である。チェコの音楽界に持ち込まれた「民族精神」の概念によって、19世紀になるとチェコ人自らが民謡の収集・出版を行うようになると、19世紀末から20世紀初頭のスメタナ、フィビフ、ドヴォルザーク、ヤナーチェクといった才能の開花につながっていった。しかし、個々の作曲家たちにとっては民謡あるいは民族舞曲との距離の取り方が重要な問題として問われるようになっていた。「民族色を打ち出すには民謡の単なる引用と模倣で十分である」と主張する保守的な伝統主義者のグループは、「民謡の旋律やリズムの模倣により国民様式が形成されるのではない」と表明したスメタナら標題音楽を創作することで国民性を獲得しようとした「進歩派」を、「標題性」を重視するのはドイツ音楽であり国民音楽ではないと批判。国民音楽の父と現代言われるスメタナだが、「国民音楽」確率は一筋縄ではいかなかった。
スメタナがビール醸造技師の息子であり、フィビフは貴族に仕える森林管理官の家庭に生まれ、日常的にはチェコ語ではなくドイツ語で生活しチェコのフォークロアから離れた生活をしていたことは、しかし「進歩派」形成に少なからぬ影響を及ぼしていると推測される。こうした中、ブラームスの目にとまったドヴォルザークの作品が西欧に紹介されたことで、彼の音楽の方向性は決定づけられた。スメタナとドヴォルザークは「ボヘミア楽派」と総称され、個人的にはお互いに尊敬の念を抱いてはいたものの、「進歩派」には「民謡の単なる引用と模倣」からなる「保守派」的な立場にドヴォルザークがあるかに思われた。ここで交響曲第7番と序曲「フス教徒」と主題構成を対比させ、「標題や言葉を伴わない絶対音楽にも標題性は内包されている」と「愛国心を抱いた音楽家の不屈の感情吐露である」として、ドヴォルザーク擁護の引き合いに出されている。劇的序曲「フス教徒(Hustiská dramatická ouvertura)」作品67、B.132はチェコ国民劇場の総裁フランティシェク・アドルフ・シュベルトがフス教徒時代を主題とした三部から成る演劇を企画し、その音楽として依頼に応えて作曲された。フス教徒(フス派)とは、15世紀初めのチェコの宗教改革家ヤン・フスを支持した者たちのことで、フスの死(1415年)以降はさらに勢いを増し、十字軍を退け、1420年から1434年までの短い期間ではあったが民主主義政権を成立させたりもした。この作品には2つの有名な旋律が用いられている。1つはスメタナの『わが祖国』の第5曲、第6曲でも用いられているコラール『汝ら神の戦士達』で、これはフス教徒時代のターボル派の僧によって作曲された軍歌であるとされている。もう一つはチェコ民族の守護聖人ヴァーツラフ1世を讃える12〜13世紀に創られたコラールである。これらが明らかに示しているとおり、この作品は、フス教徒に祖国独立運動の願いを仮託した愛国主義的作品である。初演は1883年11月18日モジツ・アンゲル指揮、プラハの国民劇場管弦楽団により演奏された。
ドヴォルザークは西洋音楽史上、後期ロマン派に位置する作曲家である。この時代にはドイツ・オーストリア、イタリア、あるいはフランスといった音楽先進地域の外で国民楽派が勃興し、1歳年上のピョートル・チャイコフスキー(ロシア)、2歳年下のエドヴァルド・グリーグ(ノルウェー)らとともに、同楽派を代表する存在である。同時に、ベドルジハ・スメタナとともにチェコ国民楽派あるいはボヘミア楽派の創始者の一人として、ドヴォルザークはレオシュ・ヤナーチェクを初めとする以後の作曲家たちに大きな影響を与えた。ドヴォルザークはワーグナーの音楽に心酔し、徐々にワーグナーの影響下を脱していく。こうしたドヴォルザークの才能にいち早く着目したのがワーグナーと相対していたブラームスで、「ブラームス派」の音楽評論家エドゥアルト・ハンスリックらの推挙によって作曲家としての地位を築いた。ドヴォルザークは先人たちの残した豊かな遺産を十全に活用し、ワーグナーから学んだドラマ性、ブラームスも着目する構成力を高い次元で兼ね備えた作曲家であった。しかも、ドヴォルザークの音楽をとりわけ魅力的にしているのは、シューベルトと並び賞される、その親しみやすく美しいメロディーである。交響曲第9番の第2楽章ラルゴは、「家路」として親しまれる名旋律。1893年1月に着手した交響曲第9番ホ短調 作品95、B.178「新世界より(Z nového světa)」は1893年の作品。1893年12月16日、ニューヨークで初演。この作品は、ロングフェローの『ハイアワサの歌』に多くをインスパイアされたと言われている。交響曲第8番 ト長調 作品88、B.163は1889年の作品。1890年2月2日プラハで初演。イギリスのロンドンの出版社から出版されたため、かつては「イギリス」の愛称で呼ばれたこともあったがイギリスをモチーフにした標題的な要素はない。このころ、ドヴォルザークは様々な栄誉を受けている。序曲「自然の中で(V přírodě)」 作品91、B.168と序曲「謝肉祭(Karneval)」 作品92、B.169が第1面。序曲「オセロ(Othello)」 作品93、B.170が第2面。この3作は、まとめて序曲三部作「自然と人生と愛」を形成する。時に組曲と呼ばれるが実際の演奏会では3曲連続で演奏されることは稀で、演奏頻度は「謝肉祭」が圧倒的に高い。作曲は1891年3月から1892年1月にかけて続けてなされた。初演は1892年4月28日、プラハにおいて作曲者の指揮、国民劇場管弦楽団により行われた。ドヴォルザークは「オセロ」作曲後もタイトルを「悲劇的」にしようか「エロイカ」にしようかと出版社のジムロックに相談していることからも判るように、これらは決して標題音楽ではなく各曲がそれぞれ漠然と「自然」、「人生」、「愛」に対応しているに過ぎない。なお、第1曲の題名は英語訳からの重訳で「自然の王国で」とされることもあるが、原題からの直訳では「自然の中で」とするのが適切である。
1976年2ミュンヘン、ヘラクレス・ザール録音。本盤はスラブ舞曲集を補完する伝説曲(2530 786)と同時発売された。
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