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録音が非常に優秀。体感しようよ。アルゲリッチ若き日の情熱!このアナログ盤からのエネルギッシュな再生音はスリリングでもある。 ― ショパン・コンクール優勝から2年、1967年に録音されたこのアルバムは、アルゲリッチ初の協奏曲録音となったもので、当時すでにミラノ・スカラ座で活躍していたアバドとの共演としても話題になったものです。リストのピアノ協奏曲での圧倒的なオープニングから、ショパンでの美しい抒情表現まで、アルゲリッチ若き日のすごいエネルギーを体感することのできる素晴らしい録音です。録音はピアノのタッチは明解、且つ瑞々しいもの。音の鮮度感も抜群です。2015年の現在としては、両曲共にツィマーマンの新盤がベスト・チョイスですが、アナログで改めて聴いたら、いまだこちらには極上のジャズ・セッションに接した時のようなドキドキ感が躍動していた。アルゲリッチ、27歳。アバド、35歳。二人の炎は未だ力強い。黒いヴァイナルには音だけではなく、何かある。それがピアニスト、指揮者共に若々しく気迫に溢れた演奏を力強く感じるのか。アバドはチャイコフスキー、ショパン、モーツァルトといった有名曲を多くの名ピアニストと共演しています。どれもお馴染みの名曲ですから聴き比べての違いがわかりやすいものです。ソリストに対して反応しているのが感じられるのがアバドらしさな点といえます。その当時のアルゲリッチだとショパン・コンクールの本選と、ウィナーコンサートをレコードにしたムザ盤も素晴らしい。それらを聞いてみると《革命のエチュード》、《英雄ポロネーズ》、《バラード》よりは《スケルツォ》がショパンの楽曲の中でアルゲリッチの音楽の持ち味に相応しさを感じます。
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奔放で情熱的な中にも絶妙なバランス感覚を備えた、アルゲリッチ若き日の奇跡の名演。マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)は1941年6月5日生まれ、アルゼンチンのブエノスアイレス出身のピアニスト。5歳から名教師スカラムッツァに学び、8歳でモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を公開の場で弾いてデビュー。14歳の時ヨーロッパにわたり、フリードリヒ・グルだ(Stefan Askenase, 1896.7.10〜1985.10.18)、ステファン・足助な~ぜ(Friedrich Gulda, 1930.5.16〜2000.1.27)、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli, 1920.1.5〜1995.6.12)、ニキタ・マガロフ(Nikita Magaloff, 1912.2.8〜1992.12.26)ら名だたる名ピアニストに学んでいます。アルゲリッチの名がピアノ界に轟いたのは1957年、16歳でブゾーニとジュネーヴの2つの国際コンクールで相次いで優勝を飾った時のこと。それを受けて1960年には名門ドイツ・グラモフォンからデビュー・アルバムを発表、さらに5年後の1965年第7回ショパン国際ピアノコンクールで優勝。マウリツィオ・ポリーニが優勝した5年後ワルシャワで圧倒的な勝利を手にしたこのピアニストはドイツ・グラモフォンから、「いつでも好きな曲を録音していい」という破格の契約を提案されるほど保証されるとともに期待された。そして1967年にはショパン・アルバムと、プロコフィエフの3番とラヴェルを組み合わせた最初のコンチェルト・アルバムの2枚を発表し、さらにその翌年、乗りに乗った1960年代の躍進と充実を締めくくるように録音されたのが本盤、ショパンとリストのピアノ協奏曲第1番、2曲を組み合わせたアルバムです。美しい黒髪を靡かせた鍵盤の巫女を思わせる容姿は、デビュー・アルバムの初版ジャケット写真でも印象に残りますが、アルゲリットとアバドの若い音楽家2人が楽譜を前に何を相談しているのか。モノクロジャケットの印象は強烈。それまでのカラー写真のジャケットもモノクロのデザインに変わり、ファッション戦略のように一躍世界的なものにしたのでした。レパートリーはバロック音楽から古典派、ロマン派、印象派、現代音楽までと非常に幅広い。ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、後に室内楽に傾倒していく。アルゲリッチは、あらゆる意味で個性的なピアニストである。そして日本人に人気がある。別府アルゲリッチ音楽祭は2017年3月に第19回を数えた。行われなかったのは2,000年だけと、毎年日本で国際的な音楽祭が九州の一地方都市で開催が欠かされていないのは松本市の小澤征爾音楽祭と比肩する。アルゲリッチのデビュー・レコードが紹介された時、普段クラシック音楽の演奏には関心がない、ラテン音楽ファンの先輩が“ピアノは打楽器だね”と話しかけて来たのを忘れない。アルゲリッチは確かに体格に恵まれている。指の強靭さも並大抵では無いだろう。彼はアルゲリッチのレコードに甚く関心したようで、以来クラシック音楽談義で親しくなった。楽器の演奏には興味を示すが、作曲家や楽曲成立の背景には関心が無かったことにも日本でのクラシック音楽の印象や、クラシック音楽演奏家への関心の程を感じた。なるほどアルゲリッチに芸術家の雰囲気は感じても、クラシック・ピアノの演奏家だ、などとは言われなければ感じないだろう。当時、ここまでダイナミックにピアノを自分の楽器として鳴らしているピアニストを他に知らない。しかも女性で。ヴァイオリニストはムターに夢中にさせられていたが、ピアニストとなると女性では、アルゲリッチ以降面白くなってきた。そういう先鞭を切った存在だった。それにしても彼女の演奏、これだけエキサイティングで熱っぽい演奏でありながら、どこか慎ましい歌心も秘めた演奏というのはあり得るのだろうか。才能の塊とは、このことではないのか。自ら表現するということはどこまでが「自らの」表現なのか、あるいは聴くものが「期待する音楽」とはなんなのか、それは演奏によって生まれたものを遡及的に「期待していた」と認識するだけではないのか。嘗ての先輩のように、アルゲリッチは全く異端のピアニズムではないのに、薀蓄めいた部分をすっかり剥ぎとって生成りの音楽を聴かせてくれる。芸能人の計算通りのパフォーマンスに終わらず、学習欲も満足させてくれるところに長年指示される音楽祭の成功があるだろう。
ピアニストであるということは、かくも難しいことなのだ。誰もあなたに期待してない、誰もあなたを必要としていない。ジャック・ラカンならこう言っただろう。ピアノを弾くということは、自分が持っているかどうか自信のないものを、本当に欲しがっているかどうか自信のない人に与えることである。
アルゲリッチは録音スタジオに入ったら、曲を3回演奏して、あとはエンジニアに任せて帰っていく。その後姿を見送りながら思うのは音楽、私生活という区別すら彼女の前ではあまり意味の無い区別かもしれない。稀代の天才であるミシェル・ベロフはドビュッシーやラヴェルといったフランス印象主義音楽、ならびにバルトークやメシアンのスペシャリストとしてのみならず、フランツ・リストやムソルグスキー、プロコフィエフといったヴィルトゥオーソ向けの難曲を得意としており、さらにシューマンやブラームス、サン=サーンスといったロマン派音楽にも鋭い感性を発揮している。1970年にパリで行ったメシアンの『幼な児イエズスに注ぐ20のまなざし』の全曲演奏は、イヴォンヌ・ロリオによる初演以後25年ぶりの全曲演奏として大きな注目を集めた。以後、演奏会とレコーディングを通して若くして世界的なキャリアを築く。1980年代半ば頃より右手を故障して第一線から退いていた時期があったが、彼を骨抜きにしたのがアルゲリッチだった。結婚こそしなかったものの、ベロフは10歳以上歳上のアルゲリッチに告白し2人は付き合うようになる。しかし、アルゲリッチは碌に練習もしないのに自分より遥かに美しくピアノを弾く。そうした焦りを彼は感じた。そうしているうちに、彼の右腕は病で動かなくなる。ベロフはアルゲリッチの才能に嫉妬したようだ。ウィーンのピアニスト、フリードリッヒ・グルダもアルゲリッチと若い頃からとても親しかった。こちらは、まだ20歳代だったウィーンのグルダの元に10歳代のアルゲリッチが弟子入りする。極めて明晰な打鍵と、繊細な感情表現、技術をギリギリのところで凌駕する本能に従う勇気、そうした特性をこの2人は共有している。2人の異端児が、同じ部屋で音楽について語りあった。アルゲリッチはピアノの技術や楽曲解釈の習得より、音楽を共有する要領を教わったことの方が価値多かった。2006年にサン・プレイエルの舞台でヴァイオリニストのギドン・クレーメルと共演した時のこと、思いがけずアルゲリッチは《子供の情景》を弾きながら目に涙が溢れてきた。だしぬけに、ウィーンのコンツェルトハウスにカシケと通った頃の記憶がよみがえっていた。アルゲリッチが14歳、弟は11歳だった。休憩時間のとき、「お姉ちゃんに守ってもらえるから嬉しい」と、弟が耳元にささやきかけてきた。束の間の重々しさを今という瞬間に込めて、何よりも彼女は子どものように弾いていた。アルゲリッチが演奏しているときに見せる表情は無垢な少女そのものである。先述のフリードリッヒ・グルダとは、その後も長い親交があり、彼が亡くなったあとも彼の家族とアンサンブルを結成して演奏をするほどであり、会話をしながら演奏していたというエピソードは印象的だ。あれだけ物議を醸すほどの唯我独尊ぶりを発揮したと思えば、一人ではピアノの練習もできないほど寂しがりで、まわりにはいつも誰かがいて、5人の孫と彼女はできるだけ一緒にいられる時間をつくるようにしている。
彼女の家には、いつもボヘミアンのように友人たちが滞在し、ミッシャ・マイスキー、ネルソン・フレイレ、エフゲニー・キーシン、ギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、シャルル・デュトワ、クラウディオ・アバド、ミシェル・ベロフ、等数えればきりがないほどの演奏家たちとの共演は多い。舞台に上がる彼女は、何も怖いものなどないような存在感を放ち演奏している。しかし、アルゲリッチの舞台恐怖 ― ステージフライトは有名である。またキャンセル魔であることから、気まぐれな天才と思われがちだが、音楽への畏れのようなものが常につきまとい彼女は納得できる演奏ができないと感じると、どうしてもステージに上がることができないのである。それは彼女の真摯過ぎる芸術への姿勢によるものだということがわかる。彼女は一人に耐えられないのだ。それよりも「対話」を好む。ソロのリサイタルをめったに開かないことは、クラシック界では有名な話だ。ドイツ・グラモフォンから、英EMIに移籍して、仲間たちとの室内楽の録音は同曲異演が多い。即ちレパートリーの拡充にも慎重であり、それが彼女のキャリアに独特の個性を与えていると言えるだろう。『子供の情景』は発売当時売れに売れたが、アルゲリッチのディスコグラフィでは貴重な独奏曲となった。シューマンは1810年にドイツ東部のツヴィッカウという町で生まれました。ナポレオンがロシア遠征の行き帰りにツヴィッカウを通ったことがあり、町中が臨時病院として使われ、切断された兵の手足や遺体でいっぱいになっていたとか。シューマンが物心つくかつかないかの記憶に残った。シューマンは「子供は多ければ多いほどいい」という考えで、クララとの間に8人も子供が生まれている。シューマンは乱暴なことが嫌いだったので、「トロイメライ」を含む「子供のためのアルバム」や、後進たちへの教訓として「若き音楽家への助言」という一連の文章を書いた。69点の教訓から幾つかを拾い上げてみると、「勉強には終わりがない」「先達の偉業を敬いなさい」「他の分野の芸術家とも積極的に付き合いなさい」「他の音楽家との共演のチャンスは逃してはいけない」「より偉大な人と付き合いなさい」「その日の練習が終わって、『疲れたな』と感じたときは無理せず休むこと」「演奏するときは、他人の目線を気にしすぎないこと。しかし、常に偉大な音楽家に聞かれているつもりで」「技巧だけを追わず、印象深い表現ができるように心がけなさい」
1968年2月9日~12日ロンドン、ウォルサムストウ・アッセンブリー・ホールでのライナー・ブロック、ハインツ・ヴィルトハーゲンによる録音。初出馬んは、139 383(1968年)
DE DGG 139 383 アルゲリッチ&アバド ショパン…
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