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歓びと力に溢れた、素晴らしいバッハ ― 8月にカラヤンはベルリン・フィルハーモニーと新しい試みをした。オーケストラ・メンバーをサンモリッツに招き、一週間のあいだ休暇と演奏を楽しんだのだ。というのもカラヤンは、毎年ここでコンサートを開催するという条件でこの街の土地を讓ってもらっていたのである。同市のクイーン・ヴィクトリア・コンサート・ルームは録音にも適していた。こじんまりした静かな会場で、音響は濁りがなく豊かだった。バロックや古典派初期の作品にふさわしい場所だったが、のちに会場はバート・サンモリッツにある小さな白塗りのフランス・プロテスタントの教会に移された。サン・モリッツでのカラヤンは、まず小さな教会でレコーディングをし、そのあとで約束したコンサートを、ヴィクトリアザールかバート・サン・モリッツで行った6曲のブランデンブルク協奏曲のうち5曲、管弦楽組曲第2番と第3番は、このようにしてサン・モリッツで録音された。カラヤンとベルリン・フィルの夫唱婦随のしあわせな9年のあいだ、毎年夏になるとカラヤンはメンバーと一緒に ― 抜かり無く輪番制をとって、1964年から72年まで毎年カラヤンの別荘があるスイスの ― サンモリッツに集まった。日中は野外で遊び、天気が悪いときは即席で録音がおこなわれることもあった。夕方はたいてい6時から夕食時まで演奏。こうして、1964年から1973年までは、この地でコンサートが開かれていた。だが、ザルツブルグでの聖霊降臨祭音楽祭が始まるとそれも開かれなくなった。1964年はバッハ ― 歓びと力にあふれた、素晴らしいバッハ ― ばかりの年だった。これはカラヤンにとって『エレクトラ』と、ウィーンでの不愉快な「抗争」のあとの、清めの儀式だったに違いない。録音した中からの6曲の『ブランデンブルク』協奏曲のうち5曲、そして組曲第2番と第3番のレコードが生まれた。1964年8月17~24日スイス、サンモリッツのヴィクトリアザールでのセッション録音。第6番のみ、録音セッションが翌年1965年8月22日に持ち越されている。
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)は、レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSP時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼります。常に新しいテクノロジーに関心を抱き、その推進には協力を惜しまず、コンパクトディスクの開発や映像収録についても先見の明を持っていました。カラヤンは1964年夏からザルツブルク音楽祭の合間を縫って、毎年サン・モリッツでベルリン・フィルと演奏会を行ないました。従来は「夏の休暇を兼ねてサン・モリッツで録音した」とされていましたが、必ず演奏会と録音が組みこまれていました。この夏のコンサートは1973年のザルツブルグ聖霊降臨祭の開始とともに終わりましたが、それまではほぼ毎夏開催され、それと並行してドイツ・グラモフォン/EMIによる録音セッションも行なわれました。サン・モリッツで演奏・収録されたのは比較的編成の小さなヴィヴァルディ(四季)、バッハ(ブランデンブルク協奏曲、管弦楽組曲、ヴァイオリン協奏曲)、ヘンデル(合奏協奏曲)、モーツァルト(ディヴェルティメント、セレナード、管楽器のための協奏曲集)、ハイドンなどバロック~古典派の管弦楽曲がメインで、レコード会社側としてはカラヤンとベルリン・フィルの録音レパートリーを、さらに時代を遡って広げ、より多彩にする意図もありました。この一連のサン・モリッツ・セッションで1969年夏に録音され1973年に「ADAGIO」というタイトルで発売されたのがアルビノーニ「アダージョ」、パッヘルベル「カノン」、ボッケリーニ「小弦楽五重奏曲」、レスピーギ「リュートのための古代舞曲とアリア第3組曲」の4曲で、この時がカラヤンにとってこれらの作品の初録音であり、しかもボッケリーニとレスピーギは唯一の録音となりました。弦楽アンサンブルを主体とする小編成とはいえ、ベルリン・フィルらしいしなやかでダイナミック・レンジの広い演奏が繰り広げられており、セッションが行なわれた1870年代に建立されたフランス教会の美しいアコースティックとともに耳に残ります。特にアルビノーニ「アダージョ」の溶けるようなレガートの耽美的な趣は「カラヤン美学」の一つの頂点であり、カラヤン没後の1995年に発売され500万枚の売り上げを記録した「カラヤン・アダージョ」にも収録され、カラヤンという指揮者のイメージを後世に決定づけたという曲となったという点でも大きな意味を持つものでしょう。『カラヤン・アダージョ』はコンピレーションアルバムという意味合い以上にコンセプトのある名旋律コレクションとして、このサン・モリッツ・セッションで録音された「バロック音楽名曲集」をオマージュしています。それ以外に、ロッシーニ「弦楽ソナタ」、シュトラウス「メタモルフォーゼン」、ストラヴィンスキー「ミューズに捧げられたアポロ」、オネゲル「交響曲第2番」などもサン・モリッツで録音されています。カラヤン自身も、またベルリン・フィルのメンバーも風光明媚なサン・モリッツでの仕事を心ゆくまで楽しみ、シーズン中の緊密な録音セッションとは異なるリラックスした雰囲気で進められたようです。
カラヤンのレパートリーの中で、目立たないようで重要な位置をしめているものにバッハがある。カラヤンのバッハは決して堅苦しいものではなく、バロック的な楽しさにあふれている。夏の休暇で訪れている先でのレコードづくりは、ベルリン・フィルには楽しい仕事だった。レコーディングの経費はカラヤンの自腹であるし、コンサート・オーケストラであるベルリン・フィルのメンバーにとって、バロック音楽を演奏する機会は演奏家として興味深く楽しみだった。カラヤンとベルリン・フィルの《ブランデンブルク協奏曲》全曲は1964年盤と1972年盤のふたつのセットで、新盤が定番とされている。ブランデンブルクというのは現在のベルリン一帯の地名ですが、この曲のタイトルは時のブランデンブルク選帝侯の息子に曲集が献呈されたことから名付けられました。この「ブランデンブルク協奏曲」( Brandenburgische Konzerte )という名称は『バッハ伝』を著したシュピッタ( Philipp Spitta )の命名によるもので、自筆譜にはフランス語で「いくつもの楽器による協奏曲集」( Concerts avec plusieurs instruments )と記されているだけである。その全6曲は、それぞれの曲が編成も中心となって活躍する楽器も、曲想も驚くほど多種多様でバラエティに富んでいて聴いていて絶対に飽きることがありません。人気があるのは弦楽合奏の第3番と、長いチェンバロのカデンツァがある第5番でしょう。全曲とも完全無欠の名曲なので、どの曲が好きかと聞かれても困るのですが、レコード鑑賞会で解説した時に話題にした通り、個人的に特に挙げるとすれば様々な管楽器が活躍する第1番、それと地味な第6番でしょうか。作曲された順番は第6番が最も若い時期、ヴァイマル時代の曲だといいます。「カラヤンのレパートリーにはバッハは含まれていたのでしょうか?」そんな素朴な質問に、録音はしているが全曲はない。と質問箱でベストアンサーに選ばれていて呆れるやら嘆かわしいやら。カラヤンの公式盤は死後発売された最後のCDだけがライヴ録音で、全録音が購入できる。ディスコグラフィを調べれば労せず判明する。だから認識不足は隠し立てできない。サンモリッツで録音したバロックの数々はレコードコレクターは手放すわけがなく、中古市場で目に止まらないことから間違った憶測が立ったのだろうか。バッハからウェーベルンまでをカラヤンは、共感できる音楽だとレパートリーを限っている理由を語っていた。独墺音楽にこだわり、イギリスやイタリア、フランスの有名曲でさえ、ドイツ的スタイルを適用しにくい音楽はレパートリーとしていない。だからこそ、バッハはドイツ音楽の源流として彼の音楽形成に重要だった。カラヤンにはドイツの貴族の称号たる“von”が名前の上についているが、カラヤン家はオーストリアの名門には違いない。故にわたしはフォン・カラヤンと書くことはない。カラヤンの父はオーストリアの医学界の重鎮だったが、祖父はギリシャ人で母はセルビア人、ギリシャから移住してきた彼の祖父が織物業者でドイツに住みつき大いに財を成した。その倅も父に劣らず財をなしてホーヘンツォルレン家から男爵号を授与された。その後、一家はオーストリアに移りカラヤンの祖父と父がともにハプスブルク家の侍医となって、これまた財を蓄えたのでハプスブルク家から男爵号を貰ったという。カラヤンの指揮ぶりは、その伸ばした腕の位置が、普通の指揮者より少し高い。演奏が満足すべき状態にあると両目を半眼にして、音楽を自分の方へ抱き寄せるふうにして、タクトの動きよりは両腕全体が掌(たなごころ)を内に向けてゆるく上下に波打って動いている。そしてフォルテでは虚空を鷲掴みにして感動を奪い取るように、肘をふるわせては素早く垂直に棒をおろす。髪振り乱す情熱な様子では無いが、その熱狂的な指揮ぶりは、いくらかはバルカンの血のせいだろうという。
カラヤンにはドイツ人の血は一滴も流れていないそうである。それ故、ナチの誘いがあったとき生粋のドイツ人フルトヴェングラーは頑固に「ナイン」と言いえたことでも、血をドイツに持たないカラヤンは拒む道理を見出しきれなかった。長年カラヤンのアシスタントをつとめたシュヒターは「極めて脆弱な神経の持ち主であり、インフェリオリティ・コンプレックスの塊みたいな男だった。」と言ったそうだ。カラヤンは19歳になったとき、ドイツのウルムという小さな町の市立オペラの指揮者になったが、三流どころと言っていいこのオーケストラを率いてデビューした『フィガロの結婚』は大成功だった。また35歳の頃に、みずから第2ハープシコードを弾きながら『ブランデンブルク協奏曲』を指揮したことがあるが、これを見た或るハープシコード奏者は、「カラヤンは本物のバッハのスペシャリストになることもできたろう」と感嘆し「カラヤンはあらゆるヴィルティオーゾ的魅力をこめた素晴らしい音楽を聴かせてくれた。彼はまるで18世紀のカペルマイスターのようにオーケストラの一員だった。しかも、カラヤンが控え目にコンティヌオ(通奏低音)を演奏していたときすら、オーケストラは稀な完璧度にまで訓練されているのが分った」と言っている。バッハの作品は最近では古楽器を使用して演奏されることが多くなっていますが、1980年代頃までは現代楽器での演奏が一般的で、通常のオーケストラ・コンサート・プログラムに組み込まれることも多くカラヤンとベルリン・フィルの場合も、ハイドンやモーツァルトに繋がるオーケストラの重要レパートリーの一貫として、《ブランデンブルク協奏曲》や《管弦楽組曲》を演奏することが多かった。本盤を含む《ブランデンブルク協奏曲》と《管弦楽組曲》はカラヤンとベルリン・フィルが1964年と65年の夏にスイスの山岳リゾート地、サン・モリッツでセッションを組んでレコーディングしたもので、いつもと違うリラックスした環境のせいか生命力に満ち溢れた演奏が繰り広げられています。当時のベルリン・フィルの個性的な名手たちのソロが編成絞り目のオーケストラ・サウンドの中に映えるリッチな仕上がりが特徴となっており、第1番のホルンにはロンドンからアラン・シヴィルがゲストとして招かれてもいます。《ブランデンブルグ協奏曲》はシュヴァルベ、ツェラー、コッホ、シェルバウムといった主にベルリン・フィルの各パート主席の名手が夫々独奏部分を担当した。カラヤンの演奏スタイルの中では幾分緩やかで、且つ華麗な演奏運びが今のトレンド演奏からするとやや大層な感じがしないではないが、だからこそ焦点が定まっていて、聴き手にとってはカラヤンの価値観がよく分かる演奏で肩がこらない良さが勝る。古楽器全盛の昨今から見れば時代錯誤のようなものですが、豊かでロマンティックな味わいもまた捨て難いものがあります。1960年代前半、シュトゥットガルト室内管弦楽団とイ・ムジチが切り開いたバロック音楽ブームに、ネヴィル・マリナーやジャン=フランソワ・パイヤールがドイツとイタリアの先人にイギリスとフランスが参戦する形で諸々のバロック室内管弦楽団がヴィヴァルディ、バッハを新鮮に聴かせているところにカラヤンとベルリン・フィルが進出してきた。名門オーケストラの名手らのソロが活躍するのですからそれは見事な華やかさで、カラヤン節の効いた、明るく、颯爽とし、それでいてゆったりとしたテンポが耳に馴染み心地よい。録音がサン・モリッツで行なわれたというのもカラヤン時代開幕を象徴しているようでした。録音はリヒター盤と同じマルチ録音。カラヤンとベルリン・フィルの驚くべき表現能力が遺憾なく発揮された演奏だ。音で表現しうるものはすべて、このレコードに刻み込んでおこうとでも決意しているかのような彼らの姿勢には、まさに圧倒されてしまう。これらは一つの風景描写的な音楽として、もっと軽くアプローチするような方法もあると思うけれど、カラヤンらはそうはしようとせず、まるでベートーヴェンの交響曲に対する時のように全力投球で挑んでいる。そこらあたりが、この演奏が持つスリリングな要素といえるだろう。
ミシェル・シュヴァルベ(ヴァイオリン)、カール・スタインズ、ローター・コッホ(オーボエ)、シャーリー・ホプキンス(フレンチ・ホルン)、アラン・シヴィル(ホルン)、カールハインツ・ツェラー(フルート)、アドルフ・シェルバウム(トランペット)、エディト・ピヒト=アクセンフェルト(チェンバロ)。
DE DGG 139 005 ヘルベルト・フォン・カラヤン バッハ・…
DE DGG 139 005 ヘルベルト・フォン・カラヤン バッハ・…