34-15183
商品番号 34-15183

通販レコード→独チューリップ盤 ALLE HERSTELLER [オリジナル]
自然を誇張するから不自然になるのではない ― クラシック音楽を西洋芸術だとして考えるとき、オットー・クレンペラー以外でクラシック音楽の自明性や説得力を自己表現としてしまうような指揮者は、ロリン・マゼールぐらいだろう。ヴァイオリンはヴァイオリニストのもの、作曲は作曲家のものという専門化された現代に置いてマゼールは、ヨハン・シュトラウス2世のようにヴァイオリンを弾きながら指揮しマーラーのように自作を指揮する。ステージで指揮者とオーケストラが熱演しているのに客席に深く座り込んで目を閉じて鑑賞している頭でっかちの聴衆が増えた前で、指揮台の上で盛んに跳び上がるマゼールは、そうでもしないと聴衆には理解できまいと言わんばかりに曲の聴きどころをお客に知らせてくれようとする。映画『アマデウス』でモーツァルトが指揮しているような、その姿は19世紀以前のクラシック音楽のスタイルが模倣されている。聴衆を背に瞑想するような指揮姿を見せるヘルベルト・フォン・カラヤンや録音を表現手段として確立したグレン・グールドを対極にする、ひとつの時代を現出させた。現代とは、クラシック音楽が最早カリカチュアに転落してしまった時代なのだと自明だからと、わざとらしい誇張も厭わないのだろう。クラシック音楽が、そもそも不自然であるということを告げてくる。どうもマゼールはテクニシャンに走り、表面的との声もあります。しかし、このころのマゼールが一番面白いという人も多いが、確かに面白い。どちらも子供向けの音楽だが、プロコフィエフ・音楽童話「ピーターと狼」で、ゆったりしたテンポではオーソドックスな音楽作りをしていますが切迫した場面でのテンポの上げ方や、エッジの効いたブラス・セクションにマゼールの個性が出ています。リズムもシャープで、狩人達のテーマでは独特のアーティキュレーションを適用する箇所もあり。これはセルジュ・チェリビダッケの手法の模倣ではないのか。それに比べればブリテン・パーセルの主題による変奏曲とフーガ「青少年のための管弦楽入門」は、メリハリをバシバシ効かせて最後のフーガの盛り上がりも凄い。デフォルメ満載と極端に、無感動に指揮棒を振っていることがある。マゼールの指揮にしびれを切らした奏者が、ついに勝手に曲にのめり込んでくるのを指揮台の上で待っている。自然を誇張するから不自然になるのではない。ベートーヴェンやマーラーのようにやり過ぎるか、ブラームスやヴェルディのように何もやらないかの極端に振れる。その両極を示すようなブリテンとプロコフィエフの極端さは面白い。
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対峙する敵を一刀両断、返す刃で背後の敵をも倒すが如き、凄まじいキレとテンションの高さ、恐ろしくクリアな楽曲に対する読みはウィーン・フィルの楽団員に『譜面がまるごと頭のなかにあるようでした』と震え上がらせている。そして感情の起伏の大きさ。対極から対極への転換の早さ。テンプの振りの速さと運動の大きさの力強さが、ひとつの狂気すら呼び起こす。ロリン・マゼールが成人する頃には世界規模の2つの大戦は終結していた。大人げなかったフルトヴェングラーがカラヤンに向けた ― レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりへの― 羨望の裏返しが、相似た関係を迎えたとき、カラヤンとマゼール青年との間ではどうだったのか。ドイツ音楽界で権勢を振るったフルトヴェングラーが1954年11月30日、風邪から肺炎になり急死した。その直前、カラヤンとチェリビダッケが相次いでベルリン・フィルを指揮した。オーケストラの楽団員はカラヤンの合理的で無駄のないリハーサルが気に入る一方、チェリビダッケとはリハーサルで罵り合いになった。ベルリン・フィルのフルトヴェングラー追悼演奏会で指揮したのは、サヴァリッシュだった。フルトヴェングラーはニキシュ追悼演奏会を指揮する機会を偶然から得たことで後継者の座を手にしたがカラヤンは、そういう手はとらなかった。ベルリン・フィルの初のアメリカ・ツアーの指揮を引き受ける条件として、カラヤンは自分を終身の首席指揮者にするように求めた。戦後彗星のようにデビューし、400回以上もベルリン・フィルのコンサートを指揮したチェリビダッケではなく、戦前から数えても10回しか指揮していないカラヤンが4代目のベルリン・フィル首席指揮者となった顛末だ。カラヤンはベルリン・フィルとの関係が深まるがロンドンのフィルハーモニア管弦楽団やウィーン交響楽団、そしてスカラ座でも指揮し多忙な日程をこなしていた。1955年10月にはフィルハーモニア管弦楽団を率いてアメリカを再訪し、ベートーヴェンの交響曲全曲録音を完成した。1956年1月27日に、エーリヒ・クライバーが亡くなった。1959年1月16日にトスカニーニが90歳の誕生日を目前にして、ニューヨークで亡くなった。1946年以来、カラヤンと盟友関係にあったEMIのプロデューサー、ウォルターレッグには、カラヤンが去るのを引き止める力はなくなっていた。英国のデッカ・レコードがウィーン・フィルと専属契約を結んでいたこともあり、またベルリン・フィルと専属契約を結んだドイツ・グラモフォンが同じくカラヤンと契約を結んだ。寸間を抜くようにマゼールはまだ26歳だった1957年、ドイツ・グラモフォンでカラヤンより先にベルリン・フィルとのレコーディングを開始するという異例の扱いを受けた指揮者でした。8歳で指揮者デビューしたマゼールは、10歳のときにはNBC交響楽団の夏期公演でも指揮、続いてニューヨーク・フィルも指揮して大きな注目を集めるほどの「天才」でした。その後、1952年にイタリアに留学してバッハなどバロック音楽を勉強、帰国後はボストンのバークシャー音楽センターでさらに指揮を学び、翌1953年にはヨーロッパに戻ってイタリアで指揮者デビューして成功を収めることとなります。そのデビュー公演がきっかけとなって、マゼールはヨーロッパ各地のオーケストラに客演を重ねるようになり、次第に知名度を高めてドイツ・グラモフォンと契約を結ぶに至ります。マゼールのレコーディング・デビューは1957年2月にベルリン、イエス・キリスト教会で行われたベルリオーズ、チャイコフスキー、プロコフィエフによる3つの『ロメオとジュリエット』を収めた2枚組アルバムで、ベルリン・フィルとの録音でした。
若い頃から大作を得意としていたマゼールは、ベルリオーズの劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17も各地で演奏、ライヴ録音も遺されていますが抜粋とはいえレコーディング・デビューまで『ロメオとジュリエット』だったというのは凄い話です。組み合わせのチャイコフスキーとプロコフィエフも好んで指揮していた作品で、2人の主人公の劇的な恋愛と周囲の闘争を描き上げるという題材をマゼールが濃密に描きあげます。指揮台上の超絶技巧家(ヴィルトゥオーゾ)という言葉があるとすれば、マゼール以上に相応しいマエストロはいない。また、マゼールは英語のほかにドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能で、そうした背景もあってかフランスのオーケストラを頻繁に指揮し、さらにフランス語のオペラの録音までおこなっていたといいますから、その活動範囲の広さは驚異的。どのようなオーケストラからも普段の何倍もの輝かしい音を、短時間で手際のいいリハーサルとともに引き出した。とりわけオペラの本番は様々な不確定要素が錯綜する演奏の現場となるので、ギョッとするほどの即興の面白さ、アクの強い表情の突出で、マゼールの器用さは尊ばれた。シャープな芸風だった若きマゼールは当時破竹の勢いだったカラヤンの対抗勢力として大いに注目を集め、ドイツ・グラモフォン、EMIに続いてデッカやフィリップス、コンサート・ホール・レーベルなどへも録音を開始、バロックから近代に至る幅広いレパートリーを取り上げ若手指揮者としては異例の活躍ぶりを見せていました。現在のロリン・マゼールに対する評価はいろいろとありますが、1970年代の前半におけるマゼールの評価は「風雲児」「天才」「鬼才」というものだった。カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から80年代前半の録音。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」と念願込めて再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してカラヤン節の極みとでも言える。ベルリン・フィルの迫力も頂点に達している。ウィーン・フィルとベルリン・フィルだけを相手に、ベートーヴェンの交響曲全集ばかりを4回も録音していた。カラヤンとの因縁深いマゼール。作曲家でもある資質と卓越したヴァイオリンの腕前といった、カラヤンがコンプレックスを抱えていた才能のある ― ムターがウィーン・フィルとの録音でチェンバロを弾き、ヨーロッパ讃歌を作曲したのはカラヤンの抵抗だったとしたらマゼールはなかなかの存在だったと思える ― 指揮者。冴えた閃きでカラヤンの苦手としたレパートリーを攻めてくるのだからたまらない。しかもそれが、カラヤンに負けない変態ぶり。後世に残す手本と成る録音を残そうと頑張っていたカラヤンには、そうしたマゼールの気ままぶりも辛抱ならなかったかもしれない。
ロリン・マゼール(Lorin Maazel)はクラシック界の巨匠と呼ばれる世界的指揮者。1930年3月6日、フランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアのハーフ。生後まもなく一家でアメリカ移住。5歳頃からヴァイオリン、7歳頃から指揮の勉強を始める。8歳でニューヨーク・フィルを指揮。9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮。11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮。以後、10歳代半ばまでに全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍。イタリアでバロック音楽を研究といった楽団員経験、まだまだ未開だったバロック音楽にも作曲、演奏の両面から造詣があった。その経験を経て、1953年に指揮者デビュー。1960年、フェルディナント・ライトナーと交代で「ローエングリン」を指揮してバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー。1963年、ザルツブルク音楽祭にデビューしたチェコ・フィルとのコンサートでは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を弾き振り。ヴァイオリンの腕前も魅せる。指揮者としての信頼厚かったことも、1965年にフリッチャイの後任として、ベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団の音楽監督を皮切りに、1972年にセル死去後空席だったクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に。そして、1982年のウィーン国立歌劇場総監督就任。マゼールはウィーンに行くまでの約10年の間に厳しいトレーニングによりクリーヴランド管弦楽団を以ってセル時代の規律を取り戻し、見事なオーケストラに戻すことに成功した。またボスコフスキーの後任としてニューイヤーコンサートの指揮者を1986年まで務めた経歴は良く知られる。1955年から25年にわたってニューイヤー・コンサートの指揮をしてきたボスコフスキーから引き継ぎ、務めたこの7年という連続期間はボスコフスキー、クレメンス・クラウスに次ぐ長さであり、マゼール以降は1年毎の交代になりましたので、ニューイヤー・コンサートを語る上では外せない重要な指揮者です。当時のマゼールは1982年からウィーン国立歌劇場の総監督に就任することもあり、ウィーンでは絶大な人気を博していました。だが1984年にウィーンのポストを追われてからは、それまでとは一転して挫折の連続。ロサンゼルス・オリンピックが行われたこの年、4度目のベートーヴェンの交響曲全集を作り上げたが、うんざりしてきたベルリン・フィルと軋轢を大きくし始めたカラヤンがベルリン・フィルで予定していたヴィヴァルディ「四季」にウィーン・フィルを起用。最晩年になってカラヤンはウィーン・フィルとの関係を強めていった。カラヤンの晩年の輝きは魅力を増し、マゼールの影は薄れます。そしてついに、1989年10月。カラヤン亡き後のベルリン・フィルのシェフを選ぶ選挙でマゼールはアバドに敗れ、新譜発売も途切れてしまいました。この居座古座にマゼールは巻き込まれた形だ。2002年からはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。初来日の1963年以降30回近く来日し、NHK交響楽団をはじめ日本の主要オーケストラを指揮。2014年5月のボストン交響楽団との来日公演をキャンセルしていたが、同年7月13日に米ヴァージニア州の自宅で肺炎のため逝去。享年84歳。
1962年1月、2月パリ、サル・ド・ラ・ミュテュアリテでのステレオ・セッション録音。ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」のナレーションはロリン・マゼール、ブリテンの指定通り指揮者自身が行っている。プロコフィエフの音楽童話「ピーターと狼」のナレーションは、アレック・クランズ(Alec Clunes, 1912〜1970)。日本盤では、2017年10月2日から12月22日までテレビ朝日で放送されたドラマ「トットちゃん」になった黒柳徹子の若い声が聴ける。
DE DGG 136 902 ロリン・マゼール プロコフィエフ・ピー…
DE DGG 136 902 ロリン・マゼール プロコフィエフ・ピー…