DE DECCA 430 433-1 プラシド・ドミンゴ ルチアーノ・パヴァロッティ ホセ・カレーラス ズービン・メータ CARRERAS DOMINGO PAVAROTTI in concert Terme di Caracalla Roma

商品番号 34-18418

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世紀の競演~3大テノール・コンサート1990 ― 西暦212年から216年にかけて、ローマ帝国第22代皇帝カラカラがローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場。20世紀のはじめ、この浴場のデザインは幾つかの現代建築のインスピレーションとなった。カラカラ浴場の建物群は、あちらこちらに2,000から3,000の浴槽を設置でき、ただの浴場よりもむしろ娯楽性の高いレジャー施設であった。現在でも遺跡は、ローマの観光名所の1つとしても親しまれているだけでなく、夏のオペラシーズンのローマ歌劇場のバックドロップとして建っている。1990年7月7日に、イタリアで開催されるサッカーのワールドカップを記念してローマのカラカラ浴場跡で行われた。人気テナー歌手3人が競演したイベントのライヴ録音。6000席のチケットはわずか10分間で売り切れました。また、古代ローマの帝政期以降は男性間の同性愛行為がごく自然な性行為と見なされていた事もあり発展場としての役割もあった〝浴場〟での、女っけのないコンサート。かつてない「世紀のイヴェント」の成功で、その後、世界各地で行われることになった〝3大テノール〟公演の第1回目となった。世界3大テノールは、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラスの3人を指して言われています。世界のテノール歌手の中で頂点に立つ3人。パヴァロッティはすでに故人で、ドミンゴはバリトン歌手としてや指揮者として活躍していて、カレーラスもオペラハウスでは現役とは呼べないが。お互いがライバル同士の世界で最も優れた男性歌手3人が一堂に会してその喉を競う夢のような歌合戦で彼らが、持ちうる技術や心を込めて、愛唱する名歌を慈しみ、一切崩して歌うことせず、全力で、そして時に楽しんで歌うのだから聴いていて感動しないはずがない。オペラが苦手な人やクラシックが苦手な人でも歌が好きな人なら是非聴いて欲しい。
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オペラ界においては、陰翳をたたえた美声、充実した中音域、卓越した演技力、すぐれた歌唱技術によって、世界各国において幅広い人気と高い評価を得ているプラシド・ドミンゴ、パヴァロッティの後、声に芯のあるテノールは出てこないのでしょうか。ドミンゴは、スペインのマドリード生まれ。両親はサルスエラ歌手。1949年、サルスエラ劇団を経営する家族とともにメキシコに移住、両親の一座で子役として舞台に立っていた。若くしてバリトン歌手としてキャリアをスタートした後、テノーレ・リリコ(叙情的な声質のテノール歌手)に転向したが、元来はより重いリリコ・スピントの声質だった。ドミンゴはバリトン出身だけにテノールの聞かせどころの最高音域は不安定であるが、美声と洗練された歌い口でオペラ通や批評家をうならせたのだった。特筆すべき多様性をもつ歌手であり、ヴェルディ、プッチーニなどのイタリア・オペラ、フランス・オペラ(『ファウスト』、『サムソンとデリラ』など)、ワーグナーなどのドイツ・オペラと広汎な演目をレパートリーとしている。その陰翳を帯びた声質と自在な表現力を生かして、30歳代で数あるテノールの役の中でも特に重厚な歌唱を要するオテロもレパートリーに加えた。ドミンゴのオテロは彼の世代の第一人者と見なされている。そして、3大テノールでドイツ・オペラに積極的なのは彼一人だけである。1968年には西ドイツのハンブルクでローエングリンを歌ってワーグナー作品にも進出したが、声帯障害を引き起こしてしまう。同年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にチレア作曲「アドリアーナ・ルクヴルール」マウリツィオ役でのデビューが決定、リハーサルを行っていたドミンゴだったが、同役を演じていたスター歌手フランコ・コレッリが突然出演をキャンセルしたため、劇場は代役をドミンゴに依頼、隙かさず劇場に駆けつけてマウリツィオを演じたドミンゴは、思いがけず数日早まったメトロポリタン・デビューを成功させる。また、1969年にはエルナーニでミラノ・スカラ座、1971年にはカヴァラドッシを歌ってロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにデビューし、世界的な名声を確立した。またドミンゴは、ロマンチックなオペラのヒーローに相応しい、端正な顔立ちと高身長にも恵まれている。『愛の妙薬』のネモリーノのような軽いレパートリーにおいても、リリックに柔らかに歌う発声と演技力により評判になった。しかし、声が成熟して重みと厚みを増すに従いワーグナーの諸役も無理なく歌えるようになり、徐々に彼の主要なレパートリーとなっていく。また伊仏独の多くのオペラに加え英語の新作オペラやオペレッタの英語版まで歌い、のみならずロシア語オペラの『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』を原語で歌うなど、語学能力も高い。ドミンゴのレコード&CD録音は、オペラ全曲盤、オペラ・アリア集、ポピュラーソング集など膨大な数にのぼる。RCA、EMI、ドイツ・グラモフォン、デッカ、ソニークラシカルなど多くのレコードレーベルで録音を行っており、長年デッカと専属契約を結んでいたパヴァロッティとはこの点でも対照的である。ドミンゴはヴェルディのテノール向けのアリアを、ヴェルディが上演国に合わせてそれぞれの言語で作曲したオリジナル版からの複数版を含めて全数収録したCDセットを録音し、批評家からも概ね好意的な評価を得ている。近年は再びバリトン歌手として活動しており、『シモン・ボッカネグラ』の題名役や『椿姫』のジェルモン役で高評価を得ている。
Side-A
  1. チレア:フェデリコの嘆き(歌劇『アルルの女』から)〔カレーラス〕
  2. マイヤベーア:おおパラダイス(歌劇『アフリカの女』から)〔ドミンゴ〕
  3. プッチーニ:妙なる調和(歌劇『トスカ』から)〔パヴァロッティ〕
  4. レハール:君はわが心のすべて(喜歌劇『ほほえみの国』から)〔ドミンゴ〕
  5. ディ・クレシェンゾ:つばめは古巣へ〔パヴァロッティ〕
  6. カルディルロ:カタリ・カタリ〔カレーラス〕
  7. デ・クルティス:帰れ、ソレントへ〔パヴァロッティ〕
  8. ララ:グラナダ〔カレーラス〕
  9. ソロサーバル:そんなことはあり得ない(サルスエラ『港の酒場女』から)〔ドミンゴ〕
  10. ジョルダーノ:ある日青空を眺めて(歌劇『アンドレア・シェニエ』から)〔カレーラス〕
Side-B
  1. プッチーニ:星は光りぬ(歌劇『トスカ』から)〔ドミンゴ〕
  2. プッチーニ:誰も寝てはならぬ(歌劇『トゥーランドット』から)〔パヴァロッティ〕
  3. フィナーレ・メドレー〔カレーラス/ドミンゴ/パヴァロッティ〕
    • マリア~トゥナイト~太陽の土地~シェリト・リンド
    • メモリー~黒い瞳~カミニート~ばら色の人生
    • マティナータ~ウィーンわが夢の街~アマポーラ~オ・ソレ・ミオ
  4. ディ・カプア:オ・ソレ・ミオ〔カレーラス/ドミンゴ/パヴァロッティ〕
  5. プッチーニ:誰も寝てはならぬ(歌劇『トゥーランドット』から)〔カレーラス/ドミンゴ/パヴァロッティ〕
レコード・セールス1億枚。世界で最も売れたクラシック・ヴォーカリストとして知られるルチアーノ・パヴァロッティは1935年10月12日に北イタリア、モデナに生まれ。パン焼職人でアマチュア・テノール歌手でもあった父親とともに地元のコーラスで歌い、同郷の名ソプラノ、ミレッラ・フレーニとは幼なじみで同じ乳母によって育てられた。声楽をテノール歌手アッリーゴ・ポーラに師事して本格的に学ぶのは1952年になってから。レッジョ・エミーリアでおこなわれた声楽コンクールで優勝し、1961年4月29日、市立歌劇場で《ラ・ボエーム》のロドルフォ役を歌いオペラ・デビューを飾る。ここでの成功からイタリア各地はもとより、世界各地の主要歌劇場で次々にデビューを飾る。デビュー当時のパヴァロッティは、リリコ・レジェーロのたいへん美しい声を持っていて《ファヴォリータ》や《連隊の娘》で聴かせた艶やかな高音は「これぞ、テノールの声」という見事なもので、帝王カラヤンが「パヴァロッティは100年に1人の声だ!」と絶賛したそうです。若きテノールの評判は世界中へと広まり、〝キング・オブ・ハイC(2オクターブ上のハ音)〟の異名をとる。パヴァロッティは〝ハイC〟という言葉を広めた。パヴァロッティは〝ハイC〟を美しく響かせることで「キング・オブ・ハイC」と呼ばれていますが、アルフレード・クラウス、ニコライ・ゲッダ、ウィリアム・マッテウッツィ、クリス・メリットなどのように〝ハイE〟〝ハイF〟の超高音は持っていません。また、マリオ・デル・モナコ、フランコ・コレルリ、ニコラ・マルティヌッチといったドラマティック・テノールの〝ハイC〟には、パヴァロッティのものとは違った感動があります。バリトンのように太く男性的な声をテノールの最高音まで引き上げた時の豪快さと興奮は格別なもので、高音を得意とする歌手の〝ハイC〟を聴く時よりもスリルがあります。つまり、ジュゼッペ・ディ・ステファノやコレルリがナポリ民謡を歌ったレコードは別格としても、パヴァロッティの高音域は誰よりも美しい。「神に祝福された声」と評されたイタリアの空を思わせる明るく豊かな美声は世界中の人々から愛された。プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」でのロドルフォ役はパヴァロッティの十八番となり、本格的なメジャー・オペラ・ハウス・デビューとなった1963年のウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス、1965年のミラノ・スカラ座へのデビューもこの役でした。1964年には英デッカ社にオペラ・アリア集を録音、レコード・デビューも果たしています。アメリカへは1965年に進出(マイアミ)、1968年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場に、やはりロドルフォ役でデビュー、世界の3大歌劇場でのデビューを33歳で達成しています。1972年2月、メトロポリタン劇場で上演されたドニゼッティの歌劇『連隊の娘』に出演、パヴァロッティはトニオ役のアリアでハイC(高いハ音)を9回、苦もなく歌って喝采を浴びて名声を決定付け、「キング・オブ・ハイC」という異名をとるに到りました。
その後も《リゴレット》、《仮面舞踏会》、《愛の妙薬》、《トスカ》などに出演。NHKが招いたイタリア歌劇団の一員として1971年に初来日。《リゴレット》の公爵を歌い、聴衆の一人が感激のあまり舞台に上がり、彼に抱きつくというハプニングもあり大きな評判を呼ぶ。1975年にメトロポリタン歌劇場の一員として来日、《ラ・ボエーム》のロドルフォを披露。単身来日は1977年、リサイタルとオペラ・アリア・コンサート。1980年代からは音楽コンクールを主催し、若手声楽家の育成にも乗り出し、1981年にメトロポリタン歌劇場で初めてドラマティックな役柄の《アイーダ》のラダメスを歌う。また、オペラでの活躍の他に1990年代以降の活動はオペラの領域を越えて展開。1991年ロンドンのハイド・パーク、1993年ニューヨークのセントラル・パークでの大規模な野外コンサートは、それぞれ20万人、50万人の聴衆を集めた記録破りのコンサートとなった。さらに、ロックやポピュラー界のトップ・アーティストたちとのジャンルを超えた共演を重ね、窮状にある世界各地の子供たちへの援助を目的とした「パヴァロッティ&フレンズ」を1990年より開催。世界的人気を博していました。日本では2004年に引退コンサートを行ないましたが、70歳になる2005年10月での引退を表明、2006年2月にはトリノ冬季五輪の開会式に登場、椅子に座りながらも相変わらずの美声で十八番の『誰も寝てはならぬ』を熱唱して健在ぶりをアピール。4月からはヨーロッパでの「さよならツアー」が始まりましたが、6月に膵臓がんと診断されて中断。7月にはニューヨークの病院ですい臓の摘出手術を受けて退院するものの、発熱などの症状がみられたため、2007年8月8日に自宅のあるイタリア北部のモデナの病院に入院、経過が良好なため25日に退院し自宅療養をしていた矢先、意識不明の状態に何度か陥り、ついに2007年9月6日、モデナの自宅にて腎不全により亡くなりました。71年の輝かしい生涯でした。
プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パヴァロッティ、ホセ・カレーラス、ズービン・メータ指揮、フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団。1990年7月7日ローマ、カラカラ浴場跡でのライヴ録音。クリストファー・レーバンのプロデュース、Engineer – James Lock, John Pellowe, Philip Siney.
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