34-16204
商品番号 34-16204

通販レコード→独ブラック・アンド・ホワイト黒文字盤
ルドルフ・ケンペのオペラ録音は、歌手の顔ぶれがいつも素敵だ。 ― 戦争中はワーグナーの音楽がナチス・ドイツのシンボルのようだった。今だからかえってだからかもしれないが、ワーグナーの音楽を嫌うのにナチス・ドイツとの関連を理由にする食わず嫌いがいるが、戦後になり1950年代、様々な歌劇場で毎年のように『ニーベルングの指環』は上演されていた。このケンペがコヴェント・ガーデン歌劇場で上演した1957年ライヴは、ハンス・クナッパーツブッシュがバイロイト音楽祭で上演した一連の演奏とともに最高の名演として高く評価されているものです。1953年にコヴェント・ガーデンに登場、その後20年に渡り数々のオペラ上演を行いロンドンの聴衆、歌手、楽団員から絶大なる信頼を受けたケンペは前年(1956年)は病気のために一時休養を取ったものの、1957年はシーズン開始から精力的に活動し、プッチーニの『蝶々夫人』、リヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』そしてワーグナーの『ニーベルングの指環』チクルスを立て続けに振ったのでした。もちろんこの『指環』は聴衆からも批評家からも大絶賛、溢れるような音の洪水と高らかな歌声に全ての人が歓喜したという伝説の公演記録です。後にケンペは1960年にバイロイト音楽祭に登場、そこでの一連の『ニーベルングの指環』でも素晴らしい演奏をおこなっていたのは言うまでもありません。本盤はバイロイト音楽祭に登場する前年(1957年9月25日)にスタジオ録音されたステレオ録音です。ルドルフ・ケンペ(Rudolf Kempe)は1910年ドレスデン近郊ニーダーポイリッツに生まれ、1976年チューリヒで死去したドイツの指揮者。ケンペはカール・ベームやヘルベルト・フォン・カラヤン同様ドイツの歌劇場からの叩き上げで、その優れた職人的手腕とスケール雄大にして情緒豊かな音楽性、そして物腰の柔らかな誠実な人柄によってオペラにコンサートに国際的に活躍した名指揮者でした。1949〜52年ドレスデン国立歌劇場の音楽総監督、1952〜54年バイエルン国立歌劇場の音楽総監督のほか、ウィーン国立歌劇場、ロイヤル・オペラ、メトロポリタン・オペラ、バイロイト音楽祭などの指揮台に数多く登場したほか、1961〜63年と1966〜75年にかけてロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、1965〜72年にチューリヒ・トーンハレ管弦楽団、1967〜76年にはミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を歴任しました。1955〜56年に一時病気のため演奏活動を中断、病から復帰後、新たな意欲を燃やしてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してEMIへの録音を盛んにおこなうようになり、精力的で一気呵成なものから、巨匠的な雄大なアプローチまで多彩なケンペの音楽をセッション録音することになります。ステレオ録音では、ベルリン・フィルとの有名なベートーヴェンの『英雄』やベルリオーズの『幻想交響曲』、ドヴォルザークの『新世界より』、リヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ』、などなど。 ケンペ独特の語りかけるようなフレージング、アーティキュレーションは、時として「あれっ?」と思うものの、それが人間味なのでしょう。その音楽の優しさ、潤いに感動。端正でオーソドックスなようでスケールが大きく大胆、心意気がオーケストラの楽員みんなのすみずみまで行きわたっているのが手に取るようにわかります。ケンペといえば、渋い、地味、本格派、といったイメージで見てきた。はたしてそれであっているかしら。
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ラファエル・クーベリック、ヴォルフガング・サヴァリッシュ、ルドルフ・ケンペが指揮者としてではなくピアノを弾いて、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「4台のピアノのための協奏曲」で共演するリハーサル映像は、片手に屈指したいほど良い。繰り返されるフレーズにメリハリを付けて退屈した音楽にならないように全体を見晴らすクーベリックに、サヴァリッシュは脇にいるコンサートマスターと何度もひそひそ話を繰り返していたが、4人のピアノの配分を変更することを提案する。それをクーベリックが同意すると、サヴァリッシュはケンペに丁寧に説明していた。ずっとケンペは周りに従うようで、30分のリハーサルは終わるのかと思ったら最後の最後、みんなに語りかけて「本番もこれで行こう」と場のムードが整う如くみんなが散開してリハーサルは終わった。普段ピアノを弾く姿を見ないであろう大指揮者たちの共演だから、握手ぐらいするかと思ったが個性が良く出ていると思った。表面から感じる印象はごく一部の彼しか捉えたとしか云えず、ケンペの持つ本質は、堅固な構成感、優れたバランス感覚、そして作品の深い読み、どれをとっても抜群で、しかも表現力豊かなのがわかる。また各声部の透明で豊かな響きは、もともとオーボエ奏者であった感性から来るものだ。ピアニストとしてモーツァルトの協奏曲のレコードがヒットしていたり、名歌手たちのピアノ伴奏を務めたリサイタル盤もある指揮者、元ヴァイオリニスト、ヴィオリスト出身の指揮者が居たくらいに、当時の演奏家の凄さを思い知らされるのは、1929年、ケンペはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のオーボエ奏者で、同時にブルーノ・ワルターが指揮者、シャルル・ミュンシュがコンサートマスター、フランツ・コンヴィチュニーが首席ヴィオラ奏者だった、今から思えば雰囲気はどうだったのだろうかと妄想広がるという事実からである。客演・録音したオーケストラは多数にわたり、初期のフィルハーモニア管弦楽団、その後のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団やBBC交響楽団、ロンドン交響楽団、さらにはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、バンベルク交響楽団、バイエルン放送交響楽団、そしてシュトゥットガルト放送交響楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団と数えしれない。他にもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やアムステルダム・コンセルトヘボウ交響楽団にも客演した。そしてなんといってもシュターカペレ・ドレスデンとは特に頻繁に客演、録音も多く残した。渋く派手さはないが醸し出す音楽は、十分に思考を重ねられたうえでの音の発露であり、聴けば聴くほど感銘に値する。あらゆる人から尊敬され愛された人であったらしく、さらなる音楽の深みはケンペ自身の人柄の良さから来ているのだろう。
リヒャルト・ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれた。彼の父親は警官だったが、ワーグナーが生まれて半年後に死んでしまい、翌年母親が、俳優であったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。ワーグナーは、特別楽器演奏に秀でていたわけではなかったが、少年時代は音楽理論を、トーマス教会のカントル(合唱長)から学んでいた。これが後の彼の作曲に大きな役割を果たすことになる。23歳の時には、マグデブルクで楽長となり、ミンナ・プラーナーという女優と結婚した。1839年ワーグナー夫妻はパリに移り、貧困生活を味わった後、彼のオペラ「リエンティ」の成功で、ザクセン宮廷の楽長となった。しかし幸せは長く続かず、ドレスデンで起こった革命に参加した罪で、彼は亡命を余儀なくされる。スイスに逃れた彼は、友人の助けで作曲を続け、1864年、やっとドイツに帰国することが出来た。とはいえ、仕事もなく、彼は借金まみれになってしまった。そのときバイエルンの国王で彼の熱烈な崇拝者だったルートヴィヒ2世が救いの手を差し伸べてくれた。彼らの友情は長続きしなかったが、その後ワーグナーはスイスに居を構え、1870年フランツ・リストの娘であるコジマと再婚し(ミンナは少し前に死去)、バイロイト音楽祭を開くなど世界的な名声を得た。彼のオペラはそれまで付録のようについていた台詞を音楽と一体化させるという革命的なもので、多くの作曲家に影響を与えた。しかし、第2次大戦中ナチスによって彼の作品が使用されたため、戦中戦後は正当な評価を受けることが出来なかった。
フェルナンド・フランツ (バリトン)、ベンノ・クッシェ(バス)、ヨハンナ・ブラッター(アルト)、ルート・ジーヴェルト(アルト)、リサ・オットー(ソプラノ)、メリッタ・ムセリ(ソプラノ)、ジークリンデ・ワーグナー(アルト)、ヨーゼフ・メッテルニヒ(バリトン)、ルドルフ・ショック(テノール)、ヘルムート・メルヒャート(テノール)、1957年9月25日のセッション録音。
DE CFP CFP109 ルドルフ・ケンペ ワーグナー・ラインの黄…
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