34-17975

商品番号 34-17975

通販レコード→独ダーク・ブラウン黒文字盤[レア]

じゃあ、フーガを書きたいの? ―  「今日はこの曲で」と差し出したリクエスト用紙。「グールドの演奏している曲じゃなくて作曲した曲をリクエストするなんて、またマニアックだね。これ、うちにないの知っててリクエストしてるだろ」あっさり断られるかと思ったら、流れていたレコードをCDに切り替えながら、「同じグールドなんだから、今日はゴールドベルク変奏曲で我慢して」「ないならそれで良いですよ。81年盤の録音で」「分かってるよ」ここはリクエストした曲が最高級のオーディオ機器で聴けるサービスをしている喫茶店。本店はレコードショップ。こちらは店長の趣味を実現させた喫茶店。髭がよく似合うスキンヘッドで、しかも強い声で突き刺すようなところもあるので、初めてレコードショップに足を踏み入れてみた中学生だったわたしは、スタッフに指示を出している姿に怖いものを感じて、優しそうなスタッフを探したものだ。でも、何度か店に通っていると、いつものスタッフが見当たらなくて、店長と対峙することになった。ギロリと足元から頭の先までを観察されて肝が縮んだが、意外と言葉は優しくて、一瞬でスキャンされたのか趣味も性格も、一番分かってくれている。仮にリクエストした曲がなかった場合、次来た時時にはディスプレイの目につくところに並べられていた。この店に足を運んでいた理由は、そのようなところだ。グレン・グールド作曲の《じゃあ、フーガが書きたいの?》は弦楽四重奏とソプラノ、コントラルト、テノール、バスの独唱を伴う実験精神の賜物。ピアノは登場しない、グールドは演奏していない。「言われたことは気にしない」「言われたことは守らない」「言われたことはいっさい忘れて」「理論もいっさい忘れて」バス歌手はある程度の勇気が要ることを示唆することからはじめる。「だってフーガを書くのなら」テナーは書き上げた後の用途にこだわる。「規則を忘れて書くしかない」「だからやってごらん、そう、われわれの歌えるフーガを書いてごらん」とコントラルトが、自分自身の対位法作法は申し分のなく正しいものであるにもかかわらず、大胆に反伝統的方法を擁護する。バス、テノール、コントラルト、ソプラノへと反復進行で、ほかの声部が「応答」するか同じ言葉のニュアンスを変えながら、それを繰り返すにつれて、フーガの技法が理解できるように展開される。「忘れるしかない」そういいながらも楽曲は厳格なフーガの規則をしっかり守って書かれている。一見理屈っぽいが感覚的なフーガの学習になっている。こういった矛盾こそがグールドらしい点ではある。モーツァルトが、ベートーヴェンが、そしてシューベルトが、ウィーンでバッハをはじめて聴いて、フーガの魅力に囚われた。グールドがフーガの虜になるのはよくわかる。グールドほどピアニストらしくないピアニストはいなかった。グールドが1963年にテレビの教育番組用に書き下ろしたものだが、グールドはこの作品を5分14秒のコマーシャルだ、と言った「教育用」と言えどもよく書けているものだと思う。曲中では弦楽四重奏によって、バッハやベートーヴェン、ワーグナーの引用が、原曲とは異なった表情で差し込まれる。この曲はフーガそのものをどれほど感じるかが大切だ。とだけ言いたげな、もうとてつもなくグールドそのものだ。死後40年近い今も絶大な人気を誇るピアニスト、グールドが「将来的にはピアノも廃業して作曲家になりたい」と語っていたことはファンの間では有名なことだろう。しかし、現在実際に我々が聴くことが出来るのはファゴット・ソナタと、弦楽四重奏曲、それからこの《じゃあ、フーガが書きたいの?》の3曲のみで、結局彼が作曲家として名を馳せることはなかった。むしろグールドの創作意欲は、人声を使った新しいジャンル「対位法的ラジオ・ドキュメンタリー」の探求へと転化していった。スカルラッティ、スクリャービン、締めはベートーヴェンの交響曲第6番《田園》の第1楽章だけと曲順だけ追っていくと脈絡を感じないのだが、通して聴き進めているとグールドの術中に捕らえられている。『シルヴァー・ジュビリー・アルバム』は記念盤といえば記念盤で、実際〝スペシャル〟ではあるのですが、本気なのだか冗談だったのかわからない、微妙で不思議なアルバムです。
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本当の意味での世紀末ウィーンの情緒が匂い立ってくる ―  リリック・ソプラノの範疇に入るだろうか、優しくも羽毛のような歌声。単に耳に優しいだけではない。21世紀に入り惜しまれつつ亡くなったエリーザベト・シュヴァルツコップは、様々な役柄において持ち前の名唱を余すことなく披露した。シュヴァルツコップは戦中にカール・ベームに認められてウィーン歌劇場でデビューを飾っているが、彼女の本格的な活動は戦後、大物プロデューサーのウォルター・レッグに見いだされ、その重要なパートナーとして数多くの録音に参加したことによる。1953年に、英コロムビア・レコードのプロデューサーだったレッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、EMIとの専属録音契約を交わした〝歌の女王シュヴァルツコップ〟を作り上げた。ワンマン・エゴタイプの厳しい人物で、そのレパートリーの多くはレッグが決定していたそうで、そのようなことを彼女自身が語ってもいる。レッグは夫ともなったが、シュヴァルツコップの歌に惚れ込みEMIに数々の録音を残したことの功績は大きい。そして、シュヴァルツコップは大プロデューサーであったレッグの音楽的理想を体現した歌手の一人であったと思う。当時は、「オペラ歌手」を自認する歌手たちは、決してオペレッタの歌を歌おうとはしませんでした。たとえ録音であったとしてもオペレッタを歌うオペラ歌手を、マリア・カラスは心底馬鹿にしていましたし、その事を隠そうともしませんでした。彼女はオペラ歌手たるもの、オペレッタの甘ったるい歌などは歌うべきではないという固い信念を持っていました。そして、その批判の矛先こそがオペレッタを歌う、このシュヴァルツコップでした。実際、シュヴァルツコップによるオペレッタの歌唱は、未だに誰も超えることのできていない一つの頂点であり続けています。その素晴らしさのよって来るべきところは、オペレッタだからと言って、一切の手抜きをしないで自分のもてる技術のすべてを注ぎ込んでいる「真面目さ」にあります。言葉の意味を一語一語慎重に吟味しつくし、歌の背後にある深い意味までを掘り下げる。その知的な歌いぶりは、作品によってはまると絶大な感動を呼び覚ます。そのような品の良さと凛とした気高さを持っているが故に、シュヴァルツコップの真摯な歌の中からこそ本当の意味での世紀末ウィーンの情緒が匂い立ってくるのです。1950年代後半はシュヴァルツコップが録音に積極的に取り組んだ時期、だがオペラでは役を限定しつつある頃で、この後はオペラを離れドイツ・リートの分野で輝く。彼女の厳かな歌によるこれらの歌は、本当に心を清くさせてくれるものでしょう。マルシャリンは新しい歌手の新しい歌によって凌がれても、これはどうも凌がれそうにない。

Glenn Gould ‎– The Glenn Gould Silver Jubilee Album

Side-A
  1. D.スカルラッティ:ソナタ K 430(L 463) 1:43 録音:1968年1月30日 ニューヨーク、30番街スタジオ, グレン・グールド(ピアノ)
  2. D.スカルラッティ:ソナタ K 9(L 413) 1:47 録音:1968年1月30日 ニューヨーク、30番街スタジオ, グレン・グールド(ピアノ)
  3. D.スカルラッティ:ソナタ K 13(L 486) 2:17 録音:1968年2月6日 ニューヨーク、30番街スタジオ, グレン・グールド(ピアノ)
  4. C.P.E.バッハ:ソナタ イ短調 No.1, Wq.49-1(H.30)
    1. I- Moderato 4:03
    2. II- Andante 3:26
    3. III- Allegro Assai 4:20
    録音:1968年1月30日 ニューヨーク、30番街スタジオ, グレン・グールド(ピアノ)
  5. グールド:『じゃあ、フーガを書きたいの?』 5:06 録音:1963年12月14日 ニューヨーク、30番街スタジオ, エリザベス・ベンソン=ギイ(ソプラノ), アニタ・ダリアン(メゾ・ソプラノ), チャールズ・ブレッスラー(テノール), ドナルド・グラム(バス), ジュリアード弦楽四重奏団
Side-B
  1. スクリャービン:2つの小品 Op.57 4:20 録音:1972年12月13日 トロント、イートンズ・オーディトリアム, グレン・グールド(ピアノ)
  2. リヒャルト・シュトラウス:オフィーリアの歌 Op.67 8:16 録音:1966年1月14,15日 ニューヨーク、30番街スタジオ, エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ), グレン・グールド(ピアノ)
  3. ベートーヴェン〜リスト:交響曲第6番 Op.68『田園』~第1楽章 9:57 録音:1968年7月30,31日 ニューヨーク、30番街スタジオ, グレン・グールド(ピアノ)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf)は1915年12月9日、ドイツ人の両親のもとプロイセン(現ポーランド)のヤロチン(Jarotschin, 現Jarocin)に生まれたドイツのソプラノ歌手。ベルリン音楽大学で学び始めた当初はコントラルトでしたが、のちに名教師として知られたマリア・イヴォーギュンに師事、ソプラノに転向します。1938年、ベルリンでワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』で魔法城の花園の乙女のひとりを歌ってデビュー。1943年にウィーン国立歌劇場と契約し、コロラトゥーラ・ソプラノとして活動を始めます。第2次世界大戦後、のちに夫となる英コロムビア・レコードのプロデューサー、ウォルター・レッグと出会います。レッグはロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』のロジーナ役を歌うシュヴァルツコップを聴いて即座にレコーディング契約を申し出ますが、シュヴァルツコップはきちんとしたオーディションを求めたといいます。この要求に、レッグはヴォルフの歌曲『誰がお前を呼んだのか』(Wer rief dich denn)を様々な表情で繰り返し歌わせるというオーディションを一時間以上にもわたって行います。居合わせたヘルベルト・フォン・カラヤンが「あなたは余りにもサディスティックだ」とレッグに意見するほどでしたが、シュヴァルツコップは見事に応え、英EMIとの専属録音契約を交わしました。以来、レッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、1953年に二人は結婚します。カール・ベームに認められ、モーツァルトの歌劇『後宮からの誘拐』のブロントヒェンやリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタなどハイ・ソプラノの役を中心に活躍していましたが、レッグの勧めもあって次第にリリックなレパートリー、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』伯爵夫人などに移行。バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭にも出演し、カラヤンやヴィルヘルム・フルトヴェングラーともしばしば共演します。1947年にはイギリスのコヴェントガーデン王立歌劇場に、1948年にはミラノ・スカラ座に、1964年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー。1952年には、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』の元帥夫人をカラヤン指揮のミラノ・スカラ座で歌い大成功を収めます。以来、この元帥夫人役はシュヴァルツコップの代表的なレパートリーとなります。オペラ歌手としてもリート歌手としても、その完璧なテクニックと、並外れて知性的な分析力を駆使した優れた歌唱を行い20世紀最高のソプラノと称賛されました。ドイツ・リートの新しい時代を招来したとまで讃えられシューマンやリヒャルト・シュトラウス、マーラーの歌曲を得意とし、中でもとりわけヴォルフの作品を得意とし、1970年代に引退するまで男声のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウと並んで最高のヴォルフ歌いと高く評価されています。1976年にオペラの舞台から、1979年には歌曲リサイタルからも引退し、後進の指導にあたっていました。2006年8月3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去。享年90歳。
  • Record Karte
  • Art Direction – Henrietta Condak, Design [Cover] – Chris Austopchuk, Photography By [Cover] – Don Hunstein, Soprano – Elizabeth Benson, Mezzo-soprano – Anita Darian, Tenor – Charles Bressler, Baritone – Donald Gramm, Strings – Juilliard String Quartet, Violin – Isidore Cohen, Robert Mann, Viola – Raphael Hillyer, Cello – Claus Adam, Conductor – Vladimir Golschmann, Editor [Tape & Record] – Samuel H. Carter (tracks: B3). Engineer – Fred Plaut, Hugh Cooper, Jean Sarrazin, Robert Waller, Producer – Andrew Kazdin, Paul Myers.
  • DE CBS  CB76983 グールド&シュヴァルツコップ…
  • DE CBS  CB76983 グールド&シュヴァルツコップ…
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シルヴァー・ジュビリー・アルバム
ブレッスラー(チャールズ)
ソニー・ミュージックレコーズ
1998-10-21

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