AU DECCA SXLA6328 ウラディーミル・アシュケナージ&ズービン・メータ ムソルグスキー&ムソルグスキー・展覧会の絵
通販レコード→豪オレンジ銀文字盤

AU DECCA SXLA6328 ウラディーミル・アシュケナージ&ズービン・メータ ムソルグスキー&ムソルグスキー・展覧会の絵

カラヤンの後継者に目されるほどの聞かせ上手だった若き日のメータと、イメージが明確で音色が多彩な若き日のアシュケナージ。 ― 不滅のロンドン ffss ステレオ名盤。2つのヴァージョンを聞き比べられる醍醐味のある好盤。》当時、盤自体は英国本国のデッカ社から輸入して、著作権の関係からラベルのみオーストラリアで印刷・貼り付けたそうです。また、全てのオーストラリア・ラベルは 英国モノラル ED3 盤に間違えられそうなオレンジ色ですが、溝なし ORIGINAL RECORDING BY THE DECCA CO,.LTD LONDON です。ED1 相当であるので聴感上は、英盤とまったく同じでした。ジャケットに関しても ― 本盤も該当する ― 一定の売上を確保出来そうな盤はオーストラリア印刷でしたが、数見込み出来ないものは英国から直輸入したそうです。デザインの違いにオーストラリア人の好みが推察出来ます。ただ、日本では英国盤至上主義が根強いので価格は抑えました。コンサートマスターが日本人演奏家だった所以か、熊本地震の応援にエサ=ペッカ・サロネンが5月に特別講演を開くフィルハーモニア管弦楽団は、戦後活動の場をフルトヴェングラーに妨害されていたカラヤンのために、当時英EMIの責任的立場にあったプロデューサーでもあった、ウォルター・レッグが個人設立したオーケストラ。カラヤンがデッカに去ってからは、クレンペラーのオーケストラとして英EMIに名盤を数多く残している。しかし、1964年にEMIと袂を分かちたレッグはオーケストラを解散させることを決める。フィルハーモニア管弦楽団に限らず、オーケストラの財政状況はどこも危うい状況にあった。当日はクレンペラー指揮によるレコード録音日であり、オーケストラ団員は全員一致で解散反対を決議、居合わせたクレンペラーも全面的な支持を約束して、フィルハーモニアは自主運営組織によるニュー・フィルハーモニア管弦楽団として再出発することになった。しかし、クレンペラーが高齢化で引退。ムーティとの蜜月時代に、再びフィルハーモニア管弦楽団の名称を回復する。2008年からはエサ=ペッカ・サロネンが首席指揮者となり、フィルハーモニア管弦楽団を束ねているが、アシュケナージもピアニスト時代から指揮者としての録音も多い。ムソルグスキーの組曲《展覧会の絵》は、最も有名な編曲はラヴェルのオーケストレーションによるものであり、オーケストラの演奏会で取り上げられる演目のほとんどはこの版だが、その死後、リムスキー=コルサコフが管弦楽版に編曲して以降、他にも多くの版が存在する。日本の冨田勲は、シンセサイザーによる編曲・録音を行った。彼の2つの編曲版のうち、管弦楽版は手塚治虫の実験アニメーションのために書き下ろした作品だった。ところが、これは手塚がラヴェル版を用いようとしたところムソルグスキーの著作権は消滅していたもののラヴェルの著作権が生きていることが判明し、デュラン社から膨大な使用料を要求され予算を超えてしまったためやむなく取り下げ、代わりに冨田に依頼したという経緯がある。それらを含め管弦楽版は16種類、ピアノ協奏曲や室内楽版、吹奏楽版。オリジナルはピアノ曲ですが、原曲ではなくラヴェルの管弦楽版を参考に、より超絶技巧性を持たせたものとしてホロヴィッツは編曲してSP盤録音しているのは良く知られている。本盤はアシュケナージ、メータ共に1度目の録音。この作品のディスクはピアノ版もラヴェル編曲によるオーケストラ版もそれこそ星の数ほどあるが、この2つのヴァージョンを一曲づつ聞き比べられるのがこのカップリングの醍醐味である。1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いているピアニスト、ウラディーミル・アシュケナージ。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として、演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏です。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。そのアシュケナージが自分で編曲までしているくらいゆえ、よほどこの曲に霊感が沸くのだろう。フランス的な鮮やかさに彩られ、ムソルグスキーの本来の音楽から離れてしまったラヴェル編曲に対して、ストコフスキー版やゴルチャコフ版のようなロシア的な土臭さといった色合いはあまり感じず、ロシア人側の視点から、よりムソルグスキーの原典に近づけるために「展覧会の絵」の描写的な部分をよりデフォルメした形で見せた編曲で、その美しいピアノ演奏をオーケストラに投影させピアノでは出せない色彩感を目指した指揮者 ― 表現は対照的ながら本質はムソルグスキーの原曲の持つロシア的な性格を一層引き出しつつ、ピアノの持つ可能性を最大限に活かすことを目的としたホロヴィッツの精神の延長にあるようで ― アシュケナージが素晴らしい。ステレオ録音黎明期(れいめいき)1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP 3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。ショルティは DECCA レーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931-2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、その父親と組んでウィーン・フィル初のステレオ録音全集を完成させる。当時ウィーン・フィルのシェフであり、録音の偉業を望んでいたカラヤンではなかった理由はそこにありそうだ。指揮者よりも、エンジニアが主導権を持っているようだったとセッションの目撃証言がある。またズービン・メータの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない"素晴らしい"出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、DECCA では録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
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