34-15845
通販レコード→豪オレンジ銀文字盤

AU DECCA SXL6340 イシュトヴァン・ケルテス ブラームス・弦楽セレナーデ

商品番号 34-15845
ブラームスの青年時代における管弦楽分野の習作ともいえる幸福感に満ちた第1番。 ― 不滅のロンドン ffss ステレオ名盤。ケルテスの推進力と抒情美を兼ね備えた指揮が作品の何気ない部分まで表情豊かに聴かせている。》打ち明け話。ブラームスのセレナードを長いこと、交響曲だと思い込んでいました。そうして巡りあったのがケルテス盤で、初めて聴いた演奏だったことに気づきました。テルアビブの海岸で散ったケルテスがベストパートナーだったロンドン交響楽団と残してくれた逸品。若くして高い評価を得ていたハンガリーの指揮者、イシュトヴァン・ケルテス(1929-1973)の代表作のひとつともいわれるブラームスの交響曲全集。交響曲第1番と第3番、ハイドン変奏曲は、ケルテスが遊泳事故で亡くなる直前に録音されたものですが、ハイドンの主題による変奏曲の終曲「パッサカリア」については未完結となっていたため、その部分はウィーン・フィルの団員がケルテスの死を悼んで、指揮者なしで録音を完了したというエピソードでも知られています。ケルテスの指揮はブラームスらしさを大切にし、内声を充実させた立派なもの。オーケストラが相性の良かったウィーン・フィルということもあり、生き生きと弾む音楽が実に魅力的でもあり、ウィーン・フィルのゾフィエンザール・サウンドを満喫できる逸品です。なお、1964年に録音された交響曲第2番では、まだ若かったケルテスのフレッシュな音楽づくりが聴きものとなっています。4曲ともに、デッカならではの厚みと艶のあるサウンドが、ウィーン・フィルならではの艶麗さと武骨さの入り交じる、複雑な味わいのブラームスを楽しませてくれます。そして、2つのセレナードはブラームス若き日の復古的作品。ブラームスの2つのセレナードは、19世紀の半ばに書かれています。当時まだ20代の若者でハイドンやモーツァルトの作品研究もおこなっていたブラームスは、半世紀以上も途絶えていた「オーケストラのためのセレナード」を復活させるべく作曲に取り組み、セレナード第1番ニ長調とセレナード第2番イ長調の2曲を完成。古典派の精神に学んで日常の心に訴求する繊細な美しさやユーモアを持った音楽が書かれています。ホルンの名手、バリー・タックウェルも在籍していた当時のロンドン交響楽団は、技術はもちろん、表現力にもかなり高度なものがあり、管楽器の非常にうまいオーケストラとしても知られていた。そのロンドン交響楽団との共演だけにサウンド面は申し分なく、さらにケルテスの推進力と抒情美を兼ね備えた指揮が作品の何気ない部分まで表情豊かに聴かせているのがポイントともなっています。また、英 DECCA の優秀な録音技術もあって、この作品本来のロマンティックな味わいを満喫することができます。ケステスはブダペストに生まれ、リスト音楽院で大作曲家ゾルタン・コダーイに学んでいます。1955年からブダペスト国立歌劇場の指揮者となりましたが、1956年ハンガリー動乱で西側に亡命。1960年にアウクスブルク国立歌劇場の音楽総監督に就任し、1963年から亡くなるまでケルン国立歌劇場の音楽総監督を務めました。コンサート指揮者としては1965~68年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、同時に英デッカにドヴォルザークの交響曲全集を始めとして数多くの録音を行いました。そしてウィーン・フィルへの客演や録音も軌道に乗り、いよいよ巨匠への飛躍の時期だった1973年4月、イスラエル・フィルに客演した際、テル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死しました。まだ43歳でした。ニキッシュに始まり、ライナー、フリッチャイ、オーマンディ、セル、ショルティと続くハンガリー指揮者界の栄誉を受け継ぐ期待のホープであったケルテス。もし、彼が、これからという時期に他界しなかったら、アバドや小澤世代のケルテスの存在は20世紀末の指揮者の勢力地図を大きく塗り替えていたろうと誰もが思っています。1961年録音のウィーン・フィルとの《新世界より》が大評判を呼び、その続編として第8番がロンドン交響楽団と録音されました。以降、1967年に発売された再度の《新世界より》を含め、1968年の序曲集までも録音したドヴォルザークの交響曲、管弦楽曲の全集。ストラヴィンスキーを予見させるような新鮮なモーツァルト、ウィーン・フィルとのシューベルトはとにかくも、ブラームスのセレナードまで含めた交響曲全集へと、DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。ステレオ録音黎明期(れいめいき)1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP 3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。オーストラリア・プレス、オレンジ銀文字盤。英プレス盤ではモノラル盤で使っているデザインです。
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