34-14814
商品番号 34-14814

通販レコード→豪パープル銀文字盤
「さらば、わが糸のすさびよ」の如き、滔滔たるマーラー最後のアダージョ ― マーラーと親密だった弟子として、早くから作品紹介に務めたブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日-1962年2月17日)のマーラー演奏には特別な説得力があります。ワルター指揮、コロンビア交響楽団の名盤、マーラーの交響曲第1番『巨人』と並行して録音されたのが同じくマーラーの交響曲第9番でした。中でも交響曲9番はワルターの代表的な1枚で、ワルター自身もこの第9番こそマーラーの遺言であると語っています。マーラー逝去の翌年1912年6月にワルター指揮ウィ-ン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された本曲。約四半世紀後の1938年、同じ組み合わせでの歴史的なライヴ演奏をSPレコードで発売するも、初演者ならではの「絶対価値」的な呪縛からか「9番」の録音は長く封印されていた。その呪縛を解いたのもワルター自身でした。マーラーが「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった『大地の歌』もワルターの指揮により初演と初録音が行われた作品です。数多くの優れた音楽家が、ナチス・ドイツの暴挙を嫌い、憤怒の涙を流しながら、ヨーロッパからアメリカに亡命した。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並び称されたドイツの大指揮者、ワルターもそのひとりである。一度も来日しなかったのに、今もなお日本で最もファンの多いワルターの指揮した『大地の歌』は現在、ライヴも含めると複数の録音が知られています。ワルターはグスタフ・マーラーに才能を認められ、20世紀初頭にウィーンとミュンヘンの宮廷歌劇場で名をあげた。ナチス台頭後もしばらくヨーロッパにとどまっていたが、1939年に渡米、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めた。戦後、ヨーロッパの楽壇に復帰し、ウィーン・フィルなどを指揮。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺したいという米COLUMBIAレコードのプロデューサーからの誘いに絆されます。その後、ワルターは初演から約半世紀後、晩年の1961年に到ってコロンビア交響楽団で再録音を望んだのが本盤。1938年盤と、1961年盤には、それぞれに録音した時代を背景に感じさせる個性と価値をもつ。いまと違って長大なマーラーの9番に聴衆の集中力を途切らせないために38年盤は、「きわめて反抗的に」盛り上がる第3楽章ロンド・ブルレスケ(戯れの曲)のあと、第4楽章の速いテンポと感情表出をする斬新なアプローチには強い驚きがある。対して1961年盤ではマーラー草稿最終ページにある「さらば、わが糸のすさびよ」の如き、滔滔たるマーラー最後のアダージョである。このレコードには演奏するだけではなく、ワルター自身によるライナーノーツが載せられたり、ワルター自身による、インタビューやマックルーアのナレーションほか収めた貴重な特典LPが付いていました。
1961年1月16,18,28,30日、2月2,6日カリフォルニア、アメリカン・リージョン・ホールでのステレオ、セッション録音。ジョン・マックルーアの制作。
AU CBS KLCS2809110 ブルーノ・ワルター マーラー・…
AU CBS KLCS2809110 ブルーノ・ワルター マーラー・…
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ブルーノ・ワルターが〝比類ない名演〟を残したのが、深い絆で結ばれていたグスタフ・マーラーの音楽だった。実質的に9番目の交響曲でありながら、「交響曲は9曲書くと死ぬ」というジンクスを嫌って交響曲と名付けなかった《大地の歌》の初演(1911年)を指揮したのも、ワルターだった。マーラーが高く評価していたワルターは、マーラーの死の半年後にこの曲を初演しました。マーラーは1908年の夏に、熱に浮かされたように中国の詩集をテキストにしたこの作品の創作に没頭しました。自分の苦悩と不安の全てをこの作品の中に注ぎこみました。それが「大地の歌」なのです。「5番」、「6番」、「7番」、「8番」の交響曲を作曲してきた次の声楽付きの交響的作品、彼は「大地の歌」を最初は9番のつもりで書き始めて、あとでこの番号を消したのでした。つまりマーラーは、この「大地の歌」に交響曲としての番号をつけることを避けようとしました。なぜならベートーヴェンもブルックナーも10番目にたどりつけなかったことから、第9交響曲という観念にひどくおびえていたからです。偉大な交響曲作曲家は9番以上は書けないという迷信におびえて、この作品を交響曲と呼ぶ勇気がなかったのです。そう呼ばずにおくことで、彼は運命の神様を出し抜いたつもりでいたのです。その後、現在の第9交響曲にとりかかっていたときに、妻アルマに「これは本当は10番なんだ。『大地の歌』が本当の9番だからね。これで危険は去ったというわけだ!」と思わず言わずには居られませんでした。あぁ、運命の歯車は動き出します。結局、彼は9番の初演には生きて立ち会うことができず、10番はついに完成にも至りませんでした。神様は間近で、その告白を聞いていたのです。ベートーヴェンやモーツァルト、ブラームス、ハイドン、シューベルトなどの曲と違って室内楽的に個々の楽器が奏でられ、しかし大原則が潜んでいることに気が付かされる頃、それらが必然性を持って連携していて広大な宇宙を作っていく印象的な緊張感のある出だし。予想もつかない飛躍、劇的変化があり、しかしそれもやはり内的連関があって必然性がある。それらを一つの統一体にするところがマーラーの天才のなせる業であり、それをその通りに再現してくれるワルターの素晴らしさ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏での疾走する緊張感にも比類ない感動があるが、コロンビア交響楽団による演奏では激しく、ワルターが本来洞察していた姿を示してくれる。1938年録音のウィーン・フィルとの演奏は、この上ない素晴らしい演奏ですがワルター自身は、あの録音が異常な極限状態に置かれた場での演奏であったことから本当に自分が満足できるものではなかったことを何度か述べている。そして、このコロンビア響との演奏が自分の本来の演奏であることも述べている。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のインテンダントだったウォルフガング・シュトレーゼマンがカリフォルニアのワルター邸を訪問した際に、録音したばかりのマーラーの第9番とブルックナーの第9番のレコードを聴かせてくれ、「さながら目の前にオーケストラがあるように指揮をするのだった」と著書で述べている。これはワルターが完全に満足した演奏であることを証言している。本盤は録音状況がよく、かつ細部まで目届きされたマーラー解釈が濃縮されているコロンビア響との演奏である。多くの聴きてが初めて〝マーラーの第9番〟の本質に触れた記念碑的音盤だったに違いない。ワルターの没後、レナード・バーンスタイン(1965年)、オットー・クレンペラー(1967年)らの非常な名盤の登場によって一気に「交響曲第9番」の普及がすすむ原動力となっているのは確実だ。
カーネギーホールでのマーラー生誕100周年記念祭が行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。マーラーの作品ではウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロンビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはブルーノ・ワルター唯一だ。クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。尤も、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロンビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。社会のムードも一変している。当時新進気鋭のピアニスト、ヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退していた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、グスタフ・マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくようなこの指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロンビア響とのセッションに専心し、1962年2月に85歳で亡くなった。