DE RCA LSC-2313-B ゲオルグ・ショルティ コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団 Overtures and Intermezzos from Famous Operas
- Record Karte
DE レッドレーベル, 1958年の優秀録音。
- ゲオルグ・ショルティ
- コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
- 1972年5月シカゴ、クラナートセンターでのケネス・ウィルキンソンによる優秀録音。
《鶴屋百貨店「イタリア展」(2025年5月1日〜12日開催)》便乗優秀録音レコメンド、イタリアを耳で感じる100年名盤セレクション
珍しいレパートリーを集めたショルティ初期録音
- ― ゲオルグ・ショルティ初期の録音であり、ショルティにしては珍しいレパートリーを集めた〝オペラからの名曲集〟。すでにロイヤル・オペラのオーケストラを掌握しきったような管弦楽への色付けは流石の一言です。エルネスト・アンセルメのロイヤル・バレエ2枚組と並び、コヴェントガーデンの記録としても貴重だし、とりわけショルティの愛好家にとっては歴史的ドキュメントとしても見落とせない貴重な記録。製作陣は、デッカ担当で、1958年キングズウェイ・ホール、ジェームス・ウォーカー&ケネス・ウィルキンソンとくれば超優秀録音なのはすぐ分かります。1958年はステレオ黎明期、全盛期のこの盤に本当のベニスの音が詰まっている感じがしました。ワーグナー録音史は、ショルティ抜きでは語れません。そんな巨人、ショルティですが、そのキャリアにおいてすべてが順風満帆だった訳ではありません。音楽監督を置かずに運営されてきたコヴェントガーデン王立歌劇場に就任し、そこには解決すべき問題が山積されていました。ショルティの就任当時、まだコヴェントガーデンは世界一流の歌劇場とは認識されておらず、上演されるオペラはイギリス人歌手が英語で歌うというポリシーが貫かれていました。ショルティはまず、この慣習を一新、原語による上演と世界中から一流歌手を招聘することに着手します。そうした、まさにゼロからのスタートで、〝指環〟チクルスを完結されるのがどれほどの難仕事であったかは想像に難くありません。
- 彼のトレードマークのようなリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』でイギリスのコヴェント・ガーデン王立歌劇場に登場、その成功により1961年に音楽監督に就任した、その時ショルティ49歳。気に障る先輩指揮者がいた。その名は、レジナルド・グッドオール。その男、ワーグナー馬鹿の聴き手にとってはスペシャルな存在だ。コヴェント・ガーデン時代の10年間、ショルティはグッドオールと同じ職場にいながら、指揮の才能の疑問を持っていたため、グッドオールに指揮をさせなかったのだが、ロンドンのもうひとつの歌劇団、サドラーズ・ウェルズ・オペラ(現在のイングリッシュ・ナショナル・オペラ)でグッドオールが「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を振ったところ、大絶賛を浴びてしまったのだった。ワーグナーのファンはイギリスにもけっして少なくなかったが、上演のさいには、ドイツから大指揮者を招いて指揮してもらうのが当然だった。時は20世紀半ば、イギリスがオペラの大輸入国で首都ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場さえ、やっと自前のカンパニー(歌劇団)を常設したばかりの頃である。コヴェント・ガーデンの指揮者陣に加えてもらっていたグッドオールは筋金入りのワーグナー馬鹿で、ワーグナーの楽劇を指揮することしか眼中になく、それ以外の音楽にはほとんど目もくれなかった。であったからに、どれほど彼が切歯扼腕しようともワーグナーを指揮する機会は与えられなかった。好きでもないイタリア・オペラばかり指揮させられた男は、投げやりになった。気難しい上に、独学の指揮はひどくわかりにくかったから、やがて男は指揮棒を取りあげられた。コヴェント・ガーデンの最上階、掃除係と共同の一部屋に押し込められ、歌手のコーチだけがその唯一の仕事となった。ところが1968年、63歳になった彼が引退を考えはじめたとき運命が変わった。一夜にしてイギリス最高のワーグナー指揮者として、熱狂的な人気を博することになった。指揮者ストーリーのシンデレラだ。当然、なんでコヴェント・ガーデンでは冷遇されてるんだ、嫌がらせじゃないのか、という声も上がるわけで、若いショルティの仕打ちは、その批判の矛先にもされたらしい。ショルティは「ショルティ自伝」にはグッドオールについて
…私は彼に指揮の機会を与えないといって非難された。目がなかったのかもしれないが、私の意見はそうだった。
と書いている。 - しかも、録音史上の金字塔となるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのスタジオ録音と、このコヴェントガーデンでの〝指環〟上演は並行して行われていました。こちらもすべてにおいて初の試みであり、録音時には多くの困難があったことが伝えられています。〝神々の黄昏〟はコヴェントガーデンでの上演が、ショルティが初めて公式に演奏した場でもありました。当日の演奏は特にビルギット・ニルソンの歌唱が多くの称賛を集め、全体としても大変高く評価されました。ローゼンタールも
ショルティが正しくケンペが間違っているというわけではない。逆もまた然り。ワーグナー音楽へのアプローチ方法はひとつではないのだから。だからこそ、ワーグナーの音楽は人々を魅了し続け永遠に生き続けるのだ。その夜のオーケストラの出来は素晴らしく、コヴェント・ガーデンが一流歌劇場オーケストラを持ったことを実感させた。今まで聴くことのなかったワグネリアンのどよめきが沸き立ち、オーケストラの響きは言葉で言い尽くせぬほど刺激的だった。
とショルティの選択したスタイルは当時のコヴェント・ガーデンで聴かれたものとはかなり異質なものだったことも指摘しながらも、ショルティの音楽家魂、響きとバランスに対する耳の良さ、この音楽を牽引する力と情熱を賞賛している。この高評価を経て、コヴェントガーデンのチクルスの完成、さらにはデッカ録音の成功へと繋がって行きます。このコンサートは、その後のワーグナー録音史の流れを決める分水嶺とも言える瞬間だったのです。
サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)
- ユダヤ人であったゲオルグ・ショルティはナチスの迫害を逃れスイスに亡命を強いられたり、地方のオペラ座の監督等を歴任していたが、ワーグナーの大作「ニーベルングの指環」の初のスタジオ録音をウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と共に完成させ一躍トップ指揮者になる。マーラーの交響曲についても比較的早くから取り組んでおり、1960年代にロンドン交響楽団と第1,2,3,9番、そしてコンセルトへボウ・アムステルダムとともに第4番の録音を行っている。ショルティのマーラーには、どこをとっても曖昧な箇所がなく明瞭で光彩陸離たる音響に満たされている。1969年からのシカゴ交響楽団との蜜月時代にはヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と並ぶ世界最強の音楽チームとして認められ、1970年及び1971年に録音された第5~8番を皮切りに1980~1983年にかけて第1~4番と第9番を再録音してマーラーの交響曲全集を完成させるなどコンサートに録音にと他の追随を許さない完成度の高い音楽を世界に提供した。強靭なリズム感とメリハリの明瞭さはショルティの鋭角的な指揮ぶりからも明らかであり、これは最晩年になっても変わりがないものであった。ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感に溢れウィーン・フィルやシカゴ響、ロンドン響と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。さすがに晩年は陰影が加わり、ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。1997年、ダイアナ妃、マザーテレサが亡くなった数日後、療養先の南フランスにて急死する。気性は激しかったが、病や死といったイメージから最もほど遠かった指揮者だけにショルティ・ファン以外のクラシック音楽ファンにも衝撃を与えた。その旺盛なショルティのスケジュールには、翌週のダイアナ妃の追悼コンサートの指揮や、2000年の予定まで入っていたという。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトークの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネルの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。
理想主義者にして実用主義の一面もある。
- ゲオルク・ショルティは、日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが指揮した「魔笛」(モーツァルト)で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当した。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC(英国放送協会)のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルの演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。
- サー・ゲオルグ・ショルティは20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。ピアノ、作曲、指揮をバルトーク、ドホナーニ、コダーイに学び、ピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。1937年にはザルツブルク音楽祭でトスカニーニの助手を務めました。最初のデッカへのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。1956年リリック・オペラで客演のためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969年〜1991年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991年〜1997年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの第5交響曲の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲第15番まで、シカゴ交響楽団との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルの『メサイア』、ハイドンの『創造』、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲第1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲第4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲第3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ交響楽団とともに受賞しました。
プロダクト・ディテール(オリジナル盤)
- レーベルRCA
- レコード番号LSC-2313-B
- 作曲家
- Side-A
- ジュゼッペ・ヴェルディ
- ジョアッキーノ・ロッシーニ
- ジュゼッペ・ヴェルディ
- Side-B
- ジャック・オッフェンバック
- ジョアッキーノ・ロッシーニ
- アミルカレ・ポンキエッリ
- Side-A
- 楽曲Orchestra of the Royal Opera House Covent Garden, Georg Solti – VENEZIA - Overtures and Intermezzos from Famous Operas
- Side-A
- La Traviata
- L'italiana In Algeri
- La Traviata
- Side-B
- The Tales Of Hoffmann
- Semiramide
- La Gioconda
- Side-A
- オーケストラコヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団
- 指揮者ゲオルグ・ショルティ
- 録音年月日1972年5月
- 録音場所シカゴ、クラナートセンター
- 録音エンジニアケネス・ウィルキンソン
- 録音種別STEREO
- 製盤国DE(ドイツ)盤
- レーベル世代レッドレーベル
ショップ・インフォメーション(このヴィンテージ盤はショップサイトの扱いがあります。)
- 商品番号363293
- 盤コンディション良好です(MINT~NEAR MINT)
- ジャケットコンディション良好です
- 価格8,800円(税込)
- 商品リンクhttps://www.lpshop-b-platte.com/SHOP/363293.html
- ショップ名輸入クラシックLP専門店 ベーレンプラッテ
- ショップ所在地〒157-0066 東京都世田谷区成城8-4-21 成城クローチェ11号室
- ショップアナウンスべーレンプラッテからお客様へ
当店のレコードは、店主金子やスタッフたちが、おもにヨーロッパに直接出向き、実際の目と耳で厳選した、コンディション優秀な名盤ばかりです。国内で入手したものや、オークション品、委託商品はございませんので、安心してお求めになれます。
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