• 4月28日
    スイスの作曲家、ザッハーが生まれた日(1906年)。指揮者としての活躍はもちろんだが、彼は同時代を生きた作曲家への委嘱を積極的に行ったことで知られている。例えば、ストラヴィンスキー、バルトーク、武満徹、ヒンデミットなど、作曲家への創作の機会を与え続けた。他にも、楽団や財団(現在は博物館になっている)の設立を通じて、様々な形で音楽の発展に貢献した。

  • 361956
  • GB 33CX1054 ヘルベルト・フォン・カラヤン フィルハーモニア管弦楽団 バルトーク/管弦楽のための協奏曲

    • イギリス/紺地に金文字レーベル
    • 1951~53年の優秀録音。
  • 協奏曲の王
    • 20世紀オーケストラ音楽の傑作。ヘルベルト・フォン・カラヤンがその生涯でスタジオ録音を行なったバルトークのオーケストラ作品は「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の2曲だけでした。実演では、ピアノ協奏曲第3番など、ほかの作品も取り上げています。最晩年のバルトークが、その作曲技術の粋を尽くして書き上げたオーケストラ機能のデモンストレーション曲ともいうべき「管弦楽のための協奏曲」を完成するのは、1943年10月8日。戦後の現代音楽には共感を感じ得なかったカラヤンのレパートリーの中で、最も近年な名曲だ。フィルハーモニア管弦楽団は1945年の創設以来、20世紀を代表する偉大なクラシック演奏家と共演を重ねており、とくにカラヤンと多くの録音を残したことで知られています。ちょっとしたソロにも入魂の名人芸が披露され、パート間のバランスも完璧なまでに整えられた豊潤・流麗なバルトーク演奏はフィルハーモニア管を一躍スターダムにのせたレパートリーともなり、カラヤンのイメージにまさに相応しいもので、カラヤンは作品に対しての客観的分析と主観的共感をほどよく混ぜ合わせたような演奏を行っている。
    • 聴いてみれば、純音楽的でハンガリー的な素材を生かしつつ、モダンに仕上げられた作品と分かります。バルトークの作曲技法はどのジャンルでも念入りであり、斬新な味を含みつつ根底に堅実な土台があるように思います。考えようではベートーヴェンと同じ観念であると言えます。このレコードは、カラヤンにとって最初の録音だが、本質的に後に続く2回と大きな差異はない。全体は極めて緻密かつ壮麗に仕上げられており、オーケストラの機能的な面からも、また音楽的な表現の面からもカラヤンの丹念緻密な音楽づくりが最良の結果をもたらしたものの一つである。現代は自己特徴を表現するヴィルトゥオーゾ時代へ移行する時期にありますが、1950年代から60年代は名曲の録音がステレオLPの開発で意欲的に進んだ時代で、演奏家も積極的に、かつ曲に敬意を持って名演を残してくれました。本盤1953年録音とは思えないモノラル録音のよさも特筆すべきです。
  • ザ・ベスト・オブ・マエストロ~アビィ・ロード・スタジオ新リマスターによる
    カラヤン(ヘルベルト・フォン)
    ワーナーミュージック・ジャパン
    2014-03-26
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)は、レコード録音に対して終生変わらぬ情熱を持って取り組んだパイオニア的存在であり、残された録音もSPレコード時代からデジタル録音まで、膨大な量にのぼります。常に新しいテクノロジーに関心を抱き、その推進には協力を惜しまず、コンパクトディスクの開発や映像収録についても先見の明を持っていました。膨大なレコーディングを残し、生前本人が発売を認めた録音としては、アルバム数にして実に481枚を数えます。この中でライヴ録音はマーラーの交響曲第9番の1曲のみで、カラヤンがいかに完璧を目指しスタジオ録音を重視していたかがわかります。SPレコードで発売した『魔笛』序曲、『ニュルンベルクの名歌手たち』第一幕への前奏曲に始まり、生涯に約900枚を発売。LPレコードを上に積み上げると約300キロメートル、つまりエベレスト35.5個分、富士山79個分の高さとなる。再録音や序曲、アリアなどの別録音を含む述べ録音曲数1,189曲。142曲が3回以上録音した曲の数。かなりの〝こだわり〟ぶりがうかがえる。没後25年たっても、どの録音も評価に陰りが出ることもなく、契約の関係でカラヤンの名前が使えなかった録音が続々と登場している。
  • オペラの歓び(上)
    高崎 保男
    音楽之友社
    1998-12-10
  • ヘルベルト・フォン・カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団を率いて1952年5月ヨーロッパ大陸ツアーも成功させ、それは創立10年に満たない楽団の地位向上に貢献した。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグとカラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードの数々は、その後のクラシック音楽のレコードの作り方、販売戦略の手段として正に基準となるような仕事であった。カラヤンは最初のチャイコフスキーの《悲愴交響曲》の録音の時から既に大オーケストラの繊細な単音からダイナミックなハーモニーまでを、いかに効率良くレコードで聞かせることができた。その天性の才能あってヴィルヘルム・フルトヴェングラーに頭を抑えられてコンサート活動が思うように出来ないカラヤンをレッグはレコード製作に誘った。フィルハーモニア管との良好な関係を構築したかに見えたカラヤンは、1955年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任してしまう。1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。そうなるとカラヤンはさらなる飛躍を狙った。もはや機運はカラヤンに向いていた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がすでに英DECCAと専属契約していたし、ベルリン・フィルを抑えたドイツ・グラモフォンもカラヤンに接触していた。そして何よりも結婚だ。26歳年下のファッション・モデル、エリエッテ夫人と結婚した。もうレッグの手を借りなくても独り立ちできる。時は満ちていた。一方、レッグは契約更新をしないでいるカラヤンをギリギリまで待った。はっきりした時にはフィルハーモニア管にはオットー・クレンペラーを迎え入れている。既に内通は通っていたのだろう、親離れするカラヤンを慮って席を開けてくれていたのだ。本盤は、そのお互いの利害が一致した関係に終止符を打つ以前の録音。順風満帆のカラヤンは、単身渡米してカーネギー・ホールでニューヨーク・フィルハーモニックとのライヴ(1958年11月15日、ウェーベルン:弦楽合奏のための5つの楽章 作品5、モーツァルト:交響曲第41番ハ長調 K.551「ジュピター」、リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」作品40。同22日、ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 作品21、ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 作品125 )を残して戻ると、英EMI時代の置き土産にベルリン・フィルを使ってハンス・リヒター=ハーザーと1958年11月30日ベルリン、グリューネヴァルト教会でのセッション・ステレオ録音を遺した。録音会場は20世紀初頭に建てられ、EMIが1950年代後半にさまざまな録音に使用していたベルリンのグリューネヴァルト教会で、イエス・キリスト教会と並んで優れた音響効果で知られていました。この録音を最後にカラヤンは当時契約を結んでいたEMIを離れたため、1947年から続いてきたカラヤンの第1期EMI時代を締めくくる録音ともなりました。これらの録音では過度に左右の分離感を強調するのではなくむしろアナログ時代のEMIらしい自然な空間性を感じさせる音づくりで、重厚で精気みなぎる60年代のカラヤンとベルリン・フィルの充実した響きを捉えています。
  • 日本では「帝王カラヤン」と邦語されたが「K」の韻を踏んで、〝Kaiser - Karajan〟 と呼ばれるようになる背景にはヘルベルト・フォン・カラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第4代の常任指揮者であった期間、他の指揮者はベルリン・フィルを指揮してベートーヴェンとブラームスの交響曲を録音しないという「暗黙の了解」があった。レコード会社のセールに於いて、絶大な人気を博していた1970年代以降は以降は言うまでもないが、60年代の初めにわずかな例外を指摘できるが、この「暗黙の了解」は守り続けられた。こうして続々登場するレコードは木管・金管に綺羅星のごとき名手を擁していた時期にあたり、絶頂期のベルリン・フィルでしか成し得ないゴージャスな響きが見事に捉えられています。特にひそやかなピアニッシモから豪壮なフォルティッシモにいたるダイナミック・レンジの広さは見事です。対してカラヤンがベルリン・フィル以外のオーケストラを指揮するとき、同じくベートーヴェンとブラームスの交響曲は演奏しないとの「暗黙の了解」があった。これは主にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に限られていたわけだがカラヤンの晩年におけるウィーン・フィルとの演奏会、レコーディングにおいてブルックナーやチャイコフスキー、シューマン、モーツァルト、シューベルト、ドヴォルザークの交響曲が取り上げられたのはこのためである。戦後ドイツ・グラモフォンへの初録音はリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。ベルリン・フィルとベルリンのダーレムにあるイエス・キリスト教会で1959年3月2日に、はじまった。同年末まではEMIへ ― 11月11日のバルトーク「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がレッグとの最後 ― の録音はグリューネヴァルト教会で行ったが60年代はウィーン・フィルとはゾフィエンザール、ベルリン・フィルとはイエス・キリスト教会でセッションが組まれた。ウォルター・レッグとの1950年代の自然なバランスによる音作りは、録音会場の効果の差異を聴き取ることが出来ます。フィルハーモニア管弦楽団とのレパートリーも幅広く、ステレオで再録音していない名曲もある。
  • オペラの歓び(下)
    高崎 保男
    音楽之友社
    1998-12-10
    • バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
    • バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカへ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。ところが、それと同時にバルトークが亡命したアメリカはシェーンベルグに代表されるような無調の音楽がもてはやされているときで、民族主義的な彼の音楽は時代遅れの音楽と思われていました。そのため、彼が手にした仕事は生きていくのも精一杯というもので、ヨーロッパ時代の彼の名声を知るものには信じがたいほどの冷遇で、その生活は貧窮を極めました。アメリカへ移住して約1年半後の1942年3月、彼はかつてのピアノの弟子宛に、次のような書簡を送 っている。「私たち二人の状態は日ごとに悪化しています。耐えられないといえば誇張になりますが、ほとんどそれに近いものです …… 私は、かなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません …… 」それに加え彼の体は白血病に冒され始め、ようやくコロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得て嘱託講師の地位を受け入れた彼は、民謡の録音からの採譜と分類に従事しながら、次第に衰弱していく一方でした。そんなバルトークに援助の手をさしのべたのがボストン交響楽団の指揮者だったセルゲイ・クーセヴィツキーでした。もちろんお金を援助するのでは、バルトークがそれを拒絶するのは明らかでしたから、作品を依頼するという形で援助の手をさしのべました。そのおかげで、私たちは20世紀を代表するこの傑作「管弦楽のための協奏曲」を手にすることができました。クーセヴィツキー財団からの委嘱として、自身の70歳記念とボストン響指揮者就任20周年記念演奏のための作品を書いてほしいと切り出し、バルトークをいたく感激させた。彼にとっては、渡米後初めての作曲の委嘱である。バルトークは体力に自信が持てなかったため、この申し出をいったんは断ったがクーセヴィツキーは期限を設けなくてもよいからと彼を説得し、作曲料の半額に相当する額面の小切手を彼の枕元に置いて席を立ったといわれている。実はこの時、クーセヴィツキーはライナーとシゲティの二人から依頼を受けてやって来ていた。バルトークと同郷の友人、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティはアメリカ作曲家協会(ASCAP)に働きかけ、その援助でバルトークが安心して療養できるように取り計らった。1943年夏、こうして彼はASCAPの世話でニューヨーク北部の山中にあるサラナック湖畔で療養生活をすることになった。
    • その後、バルトークは信じられないスピードで委嘱された作品を仕上げる。彼は同年8月15日、作曲に着手し同年10月8日には作曲を完了している。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》 であった。そして翌年の12月に初演されている。初演後、セルゲイ・クーセヴィツキーは「過去の50年を通じて最 高の傑作だ」と彼を讃えた。バルトークは初演時の演奏会プログラムに次のように書いている。「作品全体の雰囲気は ― 第2楽章を除くと ― 第1楽章の厳粛さと第3楽章の死を悼む歌から終楽章の生への肯定へと移行する漸進的な推移を示す。 …… この交響的なオーケストラ曲にこのような題をつけたのは、諸楽器を協奏的及び独創的に使用する傾向からきている …… 」この曲は名人揃いのボストン交響楽団の各プレイヤーの優れた腕前を発揮させるために作曲されただけあって、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を思わせる内容となっている。バルトークの楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが彼に宛てた「ヨハン・ゼバスティアン・バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、コダーイの同名作品の影響が発想になったとも思われる。多楽章で、第5楽章「終曲」のコーダの部分は、バルトーク自身の「エンディングが唐突過ぎる感がある」との反省を基に改訂がなされている。今日の演奏ではこの改訂版を使用している。フリッツ・ライナーやクーセヴィツキーはバルトークの自筆楽譜を使って録音しているが、ヘルベルト・フォン・カラヤンは最終的な出版楽譜に忠実なところはバルトークでも変わらない。この曲とヴァイオリニストのユーディ・メニューインの委嘱で作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の成功で、さてバルトークの晩年は経済的にも精神的にも充実した日々を送ることができた。だが、病魔は既に彼の体を蝕んでおり、1945年9月26日バルトークはニューヨーク市内のブルックリン病院で息を引き取った。
    1. 361956
    2. 33CX1054
  • プロダクト・ディテール(オリジナル盤)

    1. レーベル
      COLUMBIA
    2. レコード番号
      33CX1054
    3. 作曲家
      バルトーク・ベーラ
    4. 楽曲
      管弦楽のための協奏曲
    5. オーケストラ
      フィルハーモニア管弦楽団
    6. 指揮者
      ヘルベルト・フォン・カラヤン
    7. 録音年月日
      1951年12月1日、1952年11月28、29日、1953年7月21、22日
    8. 録音場所
      ロンドン、キングズウェイ・ホール
    9. 録音チーム
      ウォルター・レッグのプロデュース、ダグラス・ラーターの録音。
    10. 録音種別
      MONO
    11. 製盤国
      GB(イギリス)盤
    12. レーベル世代
      紺地に金文字レーベル
  • CDとDVD,参考本はアマゾンで購入できます。
  • Concerto String/Harry Janos-Interme
    Herbert von Karajan
    Emi Classics Imports
    1998-03-17
  • バルトーク:弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽;ヒンデミット:交響曲「画家マティス」
    カラヤン(ヘルベルト・フォン)
    ワーナーミュージック・ジャパン
    2016-03-23
  • バルトーク / 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽(Sz106)
    カラヤン(ヘルベルト・フォン)
    ユニバーサル ミュージック クラシック
    2001-02-07
  • Rite of Spring / Concerto for Orchestra (Dig)
    Deutsche Grammophon
    2008-01-24
  • バルトーク:管弦楽のための協奏曲
    カラヤン(ヘルベルト・フォン)
    ワーナーミュージック・ジャパン
    2016-03-23
  • Karajan Brahms Ein Deutsches Requiem [DVD] [Import]
    Jos Dam Gundula Janowitz Berliner Philharmoniker Herbert Karajan Wiener Singverein
    Deutsche Grammophon
    2008-05-13
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン 僕は奇跡なんかじゃなかった: その伝説と実像
    カール レーブル
    音楽之友社
    2017-03-28
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン(上)
    リチャード オズボーン
    白水社
    2001-07-01
  • ヘルベルト・フォン・カラヤン(下)
    リチャード オズボーン
    白水社
    2001-07-01
  • バルトーク 民謡を「発見」した辺境の作曲家 (中公新書)
    伊東信宏
    中央公論新社
    2013-11-08