• 4月12日
    オーストリアの作曲家、ヨーゼフ・ランナーが生まれた日(1801年)「ウインナ・ワルツ」といえばヨハン・シュトラウス1世をはじめとするシュトラウス家の存在が大きいが、当時ランナーの作った楽団はウィーンで絶大な人気を誇っていた。それまでは「農民の踊り」であったワルツを洗練された芸術音楽の分野にも取り入れ昇華させた人物として、欠かすことができない存在である。
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  • DE DGG 2532 026 ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ヨハン・シュトラウス2世・皇帝円舞曲

    • ブルーラインレーベル
    • 1980年の優秀録音
    • カラヤンが自伝の中で「血の中を流れている」と語る楽曲たち ― 交響曲の各楽章になってもおかしくない曲を並べて、カラヤンは〝交響組曲〟的楽しみ方の出来るアルバムにしている。
    • ヨハン・シュトラウスは喜歌劇「こうもり」で一躍時代の寵児になりますが、歌劇を作曲してこそ宮廷音楽家に認められなかった。ウィンナ・ワルツは幾つものメロディーをつなげたポプリ形式のおおらかな作りですが、「皇帝円舞曲」の場合、もう少し細かいユニットに別れていて、「威厳をたたえた部分」と「おしゃれでチャーミングなメロディユニット」の対比が第1主題、第2主題として聴くことで交響曲の一つの楽章に思えてきます。ヨハン・シュトラウス2世はブラームスとの親交が深く、ブラームスの得意とする音楽ジャンルは犯すまいと心に決めていました。晩年、歌劇「騎士パズマン」を作曲しウィーン宮廷歌劇場(現在のウィーン国立歌劇場)で初演。名実ともに音楽史に残る作曲家と認められます。
    • フィルハーモニア管弦楽団時代から、ウィーン・フィルともカラヤンはヨハン・シュトラウス2世のワルツ集を録音しているが、ベルリン・フィルとの2度目のレコーディングはデジタルで行った。アナログ録音だった1969年の時は2枚のアルバムとしての発売でしたが、デジタル録音ではそれが3枚のアルバムとなった。カラヤンの思い入れが強いほど感じられる。しかしCD時代に入って混乱が起こっている。ベルリン・フィルの演奏で、どちらもギュンター・ヘルマンスがエンジニアだったことで、デジタルで録音しなおした音源とアナログ時代の音源が錯綜。加えて、《愛の使者》、《天体の音楽》、《浮気心》の3曲はアナログ盤では当時発売されず、1997年のCD化にあたって初めて追加して発売された。慮るにカラヤンの心中如何ばかりか。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグは未来の演奏会やアーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏を数多く後世に残すことであったという。
    • レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンの為に、レッグ自ら1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供しレコード録音で大きな成功を収めたが、このフィルハーモニア管弦楽団創立には、1947年1月ウィーンでレッグとカラヤンが偶然出会い意気投合したことに始まる。カラヤンのEMIへのレコード録音は、フィルハーモニア管弦楽団で始まる前にウィーン・フィルとの録音があり、本盤はカラヤンにとっては初めてのオペラ全曲レコーディングとなった記念すべき一組です。意気投合したが、実現には道のりがあった。ドイツでは1946年、連合軍による『非ナチ化』政策が始まった。ナチだったと疑われている人々は無罪が証明されるまで公的な活動が出来なくなった。カラヤンもフルトヴェングラーも、そしてベームをはじめとする音楽家たちも、その対象となった。ドイツ音楽界は1930年代にユダヤ系の人々が亡命や追放、粛清でいなくなったうえ、戦争が始まると戦場や空襲で多くの者が命を失い人材不足に陥っていたところに、残っていた大音楽家たちまでもが活動が出来なくなってしまったのだ。
    • 前年にイタリアでドイツ敗戦を迎えたカラヤンは、何回かイタリアでコンサートを指揮した後、故郷ザルツブルクに戻り、この地で一旦はナチ容疑が晴れた。ユダヤ系の女性を妻としたこと、ヒトラーに嫌われ干されていたことなど、戦争中はマイナスだったことがプラスに転じたのである。カラヤンは46年になると本格的な活動を再開すべくウィーンに向かったが、ソ連軍の命令で公演を続けられなくなる。さらにはザルツブルク音楽祭にも連合軍の命令で出演できなくなった。カラヤンはレコードに活路を見出すことにし、EMIと契約し、早速9月よりウィーン・フィルとレコーディングを開始。オーケストラはウィーン・フィルだった。平和が戻ったはずの世界は、冷戦へ突入していく。ベルリン・フィルの演奏会はチェリビダッケが指揮し、客席にフルトヴェングラーは居た。1947年、チェリビダッケの協力もあり、非ナチ化審理が無罪で終わったフルトヴェングラーは5月、ベルリン・フィルの指揮台に復帰した。1947年のザルツブルク音楽祭もカラヤンは出演できなかったが、フルトヴェングラーは出演しコンサートを指揮した。ユダヤ系のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインが共演したことが話題になった。その裏側にはカラヤンが、フルトヴェングラーと手を結ぼうと接触したことがあるが、それはまた別の話だ。
    • カラヤンがコンサートに復帰するのは10月で、ウィーン・フィルを指揮した。それと平行して、EMIへのレコーディングも続いていた。レッグ&カラヤン連合軍の快進撃の第一幕が開いた。英米の本当の連合軍も、レッグのロビー活動により、カラヤンに公的な指揮活動が許されたのと前後している。この快進撃の第一幕が、《フィガロの結婚》でした。このウィーン・フィルとのレコーディングは、1946年から1949年まで集中的に行われている。しかし、この時期のカラヤンとウィーン・フィルの演奏が評価の高いシロモノであったことが、その後カラヤンにとっての天敵フルトヴェングラーが亡くなった後にベルリン・フィルとウィーン・フィルがカラヤンを迎え、帝王として君臨することになる礎となったことは事実である。まさに、カラヤン芸術の原点として評価すべき時代の録音と云えるだろう。 レッグ夫妻(後の)&カラヤン連合が創作した最高のフィガロであることには、誰も異論はないだろう。とりあえず、カラヤンの戦後はウィーンを活動の拠点として始まったのである。1948年、夏、ザルツブルク音楽祭に出演出来たカラヤンが、オペラを指揮するのは初めてだった。だが、「カラヤンが今後も、この音楽祭に出るならば、わたしは出ない」とフルトヴェングラーはカラヤン追放を求めた。斯くて、その後、天敵フルトヴェングラーによりウィーン・フィルを締め出されたカラヤンはウィーン交響楽団に活動の場を移し、またレコーディングはフィルハーモニア管弦楽団と行うようになるが、そのフィルハーモニア管弦楽団でも合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで第二期黄金事態を築いたことは周知の事実です。1954年にドイツ音楽界に君臨していたフルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルの首席指揮者の地位に登りつめた。
    • 『ヘルベルト、いかに君でも対処しきれないよ』カラヤン帝国建設に邁進している最中、『帝国の崩壊』を予言したのは、EMIのウォルター・レッグだった。1946年1月のウィーンでの出会い以来、盟友関係にあったレッグとカラヤンだったが、カラヤンがベルリン・フィルの首席指揮者の座を射止めた頃から、両者の関係に隙間風が吹くようになっていった。EMI、フィルハーモニア管弦楽団、そしてカラヤンを束ねるのがレッグの仕事だった。カラヤンはベルリン・フィル、ミラノ・スカラ座、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団、そしてウィーン交響楽団を抱えているではないか。どこに、ウィーン国立歌劇場の仕事の入り込む日程的な余地があるというのだ。レッグのそういう言葉には忠告の裏にビジネス上の打算もあっただろう。カラヤンがベルリン・フィルを手に入れるところまでは、レッグの思惑とも一致した。個人的利益には直結しなくなるが、フィルハーモニア管弦楽団に代わってベルリン・フィルを使ってEMIにレコーディングすればいいのだ。だが、ウィーン国立歌劇場管弦楽団はレコーディングの時はウィーン・フィルという別団体になってしまう。そしてウィーン・フィルは、EMIのライバル会社である英DECCAと専属契約を結んでいたからだ。
    • カラヤンは、さんざんフルトヴェングラーから邪魔をされてきた。ベルリン・フィルはもちろん、ザルツブルク音楽祭もウィーン国立歌劇場も、そのすべてが、フルトヴェングラーが居たがためにカラヤンにとって縁が薄かった。チャンスは二度とやってこない。特にポストというものは、穫れる時に手にしなければ二度と、その機会はない。レッグの忠告を聞いたカラヤンが冷たい目で見て、『邪魔をする奴は誰だろうと」と呟くのを、レッグの妻でソプラノ歌手のエリーザベト・シュヴァルツコップは聞いた。ここで英EMIの親分レッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードの数々は、正に基準となるようなレコードであったと断言出来ると思います。こうして英国で基準となるようなレコード作りをレッグから嫌と言うほど学んだカラヤンは、1959年以降この手兵とともにドイツ・グラモフォンに膨大な数の基準レコード作りに邁進した。広く親しまれた名曲を最高の演奏でレコード化することに情熱を傾け続けた彼の姿勢は、このアルバムにも端的に示されています。
    • 本盤はカラヤン&ベルリン・フィルによる1981年収録のシュトラウス・ファミリーの作品集です。収録曲は、皇帝円舞曲 作品437、トリッチ・トラッチ・ポルカ作品214、ワルツ《南国のばら》作品388、喜歌劇《ジプシー男爵》序曲、(マックス・シェーンヘル編)アンネン・ポルカ作品117、ワルツ《酒・女・歌》作品333、ポルカ《狩り》作品373。
    • アルバムの冒頭を飾る《皇帝円舞曲》はシュトラウスの晩年のワルツの中では最も人気のある楽曲と認められており、彼の「10大ワルツ」の一つに数えられている。シュトラウスの大親友だったヨハネス・ブラームスは、シュトラウスは年老いてから創造力が減退したと思っていた。二重和声が付けられたシリーズや、普段から簡単な曲ばかりを作曲しているにも関わらず、わざわざ「誰でも弾けるピアノ曲集」などと銘打ったシュトラウスの晩年の作品群をブラームスは嫌っていた。しかしこのワルツ《皇帝円舞曲》については非常に好意的にとらえ、「これは管弦楽法がすばらしいので、見事に鳴るんだ。しかし結局、魅力の秘密なんか考えてもしょうがないな。」などと語り、このワルツの楽譜がジムロック社から出版されることを喜んだという。楽団が総勢100人という大構成で演奏する曲でもあり、SPレコード時代から名指揮者の名演盤が数多い。ヨハン・シュトラウス2世の緻密な曲作りを代表する『皇帝円舞曲』、『南国のばら』、『酒・女・歌』を柱に親しみ深いポルカで繋いでいく。交響曲の各楽章になってもおかしくない曲を並べて、カラヤンは〝交響組曲〟的楽しみ方の出来るアルバムにしている。
  • プロダクト・ディテール(ヴィンテージ盤)

    1. オーケストラ
      ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    2. 指揮者
      ヘルベルト・フォン・カラヤン
    3. 作曲家
      ヨハン・シュトラウス2世
    4. 曲目
      1. 皇帝円舞曲 作品437
      2. トリッチ・トラッチ・ポルカ作品214
      3. ワルツ《南国のばら》作品388
      4. 喜歌劇《ジプシー男爵》序曲
      5. (マックス・シェーンヘル編)アンネン・ポルカ作品117
      6. ワルツ《酒・女・歌》作品333
      7. ポルカ《狩り》作品373
    5. 録音年月日
      1980年6月13~15日、9月29、30日、12月4日
    6. 録音場所
      ベルリン、フィルハーモニーザール
    7. 録音チーム
      • プロデューサー:ギュンター・ブレースト
      • ディレクター:ミシェル・グロッツ
      • エンジニア:ギュンター・ヘルマンス
    8. レーベル
      Deutsche Grammophon
    9. レコード番号
      2532 026
    10. 録音種別
      STEREO DIGITAL
    11. 製盤国
      DE(ドイツ)盤
    12. レーベル世代
      ブルーラインレーベル
  • ショップ・インフォメーション(このヴィンテージ盤はショップサイトの扱いがあります。)

    1. 商品番号
      373217
    2. レコード盤コンディション
      良好です(MINT~NEAR MINT)
    3. ジャケットコンディション
      良好です(四辺、四隅に少々傷みあり)
    4. 価格
      5,500円(税込)
    5. 商品リンク
      https://www.lpshop-b-platte.com/SHOP/373217.html
    6. ショップ名
      輸入クラシックLP専門店 ベーレンプラッテ
    7. ショップ所在地
      〒157-0066 東京都世田谷区成城8-4-21 成城クローチェ11号室
    8. ショップアナウンス
      べーレンプラッテからお客様へ
      当店のレコードは、店主金子やスタッフたちが、おもにヨーロッパに直接出向き、実際の目と耳で厳選した、コンディション優秀な名盤ばかりです。国内で入手したものや、オークション品、委託商品はございませんので、安心してお求めになれます。
    1. 373217
    2. 2532-026
  • CDはアマゾンで購入できます。
  • 美しく青きドナウ J・シュトラウス、ウィンナ・ワルツ集
    ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
    ポリドール
    1997-09-05
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