商品名US RR RR407 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー モーツァルト・ドン・ジョヴァンニ

フルトヴェングラーの真骨頂、灼熱のモーツァルト。 ― 時代の転換点が記録と残される。フルトヴェングラーの偉業はそれだけでも十分ある。勿論音楽が桁外れだったからでもあるが、戦乱を乗り切るために指揮者に求められたことが平和を迎えて必要とする指揮者に、突然、病に倒れるフルトヴェングラーに替えてカラヤンをミューズは選んだ。(未完)
聞け、享楽の晴れがましい至福を。聞け、彼の荒々しい逃走を。彼は自分自身を走り過ぎるのだ、いよいよ速く、いよいよ止めがたく。聞け、情熱の奔放な欲望を。聞け、愛のざわめきを。聞け、いざないのささやきを。聞け、誘惑のうず巻きを、聞け、瞬間の静寂を―聞け、聞け、聞け、モーツァルトの「ドン・ファン」を!(未完)
(仮本文)神々の王ウォータンが人間の女と通じて双子の兄妹を生み、その2人が別々に育って愛しあい、生れ出るのが不死身の英雄ジークフリートで四部作全体の主人公だ。彼は祖父ウォータンと智の神エルダの間に生まれた娘ブリュンヒルデと結婚するが、悪人に毒を飲まされて彼女を裏切り、それがもとで殺される。ブリュンヒルデは彼の亡骸を巨大な薪の上に載せて火を放ち、自らも身を投じる。その火は天にまで達して神々の城ワルハラを焼き払い、神々は滅亡、やがて新しい人間の世界がはじまるのである。このような気も遠くなるスケール雄大な物語をワーグナーは自分で台本にし、音楽をつけ演出をして、更には「ニーベルングの指環」を理想的に上演するためバイロイトに劇場まで建ててしまった。
(仮本文)ワーグナーのレコード中で最も興味の深いのは、1936年のバイロイトのワーグナー祭を録音した9枚のSPレコードである。ワーグナーの理想が一部は改められたにしても、バイロイトのワーグナー劇場で今日まで続けられているのは既に興味の深いことで、その演奏は1927年にも一度録音されたが、それは甚だ録音が悪くもはや問題外のレコードであるが、1936年のはさすがに立派でバイロイトの気分を充分に味わい得るものがあるだろう。SPレコードの時代、「タンホイザー」の一枚物の歌のレコードでは、ビクターのフラグスタートの歌った「歌の殿堂」(JD1375)と「エリザベートの祈り」(JD763)が立派だ。ほかに「ローエングリン」の有名な「エルザの夢」(ビクター JD1375)、「ワルキューレ」から「ホー・ヨー・トー・ホー」を歌ったのもある(ビクター JE128)。「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と「イゾルデの愛の死」と一緒にしたのが、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニック管弦団でポリドールにも(60196〜7)、コロムビアにも入っている(S1044〜5、名盤集第三集)。フルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」は天下一品の称があり、どちらもすばらしい。このレコードにはキルステン・フラグスタートがイギリス、コヴェントガーデンで1937年6月1日に行った上演から選曲されている。ローリッツ・メルヒオール(ジークフリート)、ヘルベルト・ヤンセン(グンター)、ルードヴィッヒ・ウェーバー(ハーゲン)、キルステン・フラグスタート(ブリュンヒルデ)、マリア・ネザダル(グートルーネ)、ケルスティン・トルボルク(ワルトラウテ)。フルトヴェングラー指揮コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団・管弦楽団。オーケストラの実態はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団。フラグスタートは1895年生まれ。1937年は42歳ということになる。歌手としても女としても最盛期、本盤で聴く歌声は非常に強靭で力がある。
(仮本文)フルトヴェングラーの演奏を聴いていると神話がまだ神秘と聖なる力、そして何より空想ともリアルともはっきりと判別できない“物語性”を有していた時代の、その精神が蘇ってくるようだ。フルトヴェングラーの要所におけるドラマの抉り方は鮮やかそのものだ、序幕では「ラインの黄金」から順追って旋律が湧き上がってくる。チェロによる主題はまことに雰囲気豊かで美しく、ブリュンヒルデの動機がクラリネットからヴァイオリンに受け継がれていくと一気にすばらしく抒情的な雰囲気が立ち込め、心の告白のような稜線が描かれていく。ゆっくりと音を置いていく、あのフルトヴェングラー流儀がさっそく聴かれる。一つとして心がこもっていない音はなく、曲想は迫真的に移ろいでいく。テンポは速めで弛緩することなく、十分な推進力と俊敏性を示しながら進行する。夜が明け、一晩中、愛を確かめあっていたブリュンヒルデと、ジークフリートは何度目かの絶頂を迎える。フラグスタートの艶やかさ、メルヒオールのヒロイックな歌唱の、どちらもフルトヴェングラーのドラマに密接していて見事だ。「おお神聖な神々!」では音楽が旋回しながら頂点へと向かい、心の興奮がそのまま物語の迫真へと結びついていく高揚を隠さないフルトヴェングラーの音楽は圧巻である。而も、ここでのワーグナーの音楽は途方もなく美しいのである。
先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニーやウィーン・フィルハーモニーをヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンにおもむき、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区であらためて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味ぶかく見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。 … トスカニーニはムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。マンはヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてウィルヘルム・ケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険にさらすこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィル、つまりドイツのオーケストラの演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、ベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の、興奮と熱狂のるつぼと化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルハーモニーとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念をふたたび呼び覚ました。
フルトヴェングラーはベルリンに復帰したが、1949年まではベルリン・フィルハーモニーを指揮する回数は非常に少なかった。むしろウィーン・フィルハーモニーやベルリン以外の客演先のオーケストラを数多く指揮した。「当時フルトヴェングラーは、遠くから尊敬される指揮者であった。わたしは1947年まで彼と共演したことはなかったが、彼については評判やレコードから十分な知識をもっていたので、彼の指揮による演奏がきっと異常な経験であろうと推測していた。」(ここまでで本日はタイムアップ。メニューインの言葉から、リードに帰結するフルトヴェングラーの録音の偉業は未完。推測は付きそうですので続筆はありません。同じレコードを再度紹介する機会の時に続けます。)(ここから仮本文)戦後演奏活動復帰二ヶ月も経たず指揮台に立った、このハンブルク・フィルとのライヴも、こうしたキャラクタ丸出し。全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。ナチスはドイツ音楽がもつ普遍性を国内外の宣伝に利用した。きわめてゆったりと動き出す開始部が印象的。序奏部の不安になるほど長いパウゼが聴きどころの「レオノーレ序曲第2番」は1947年6月9日ハンブルクでのライヴ音源。レオノーレの第2番は、フルトヴェングラーには4種類あります。今回収録した演奏は、残された録音で一番若いものです。異常なタメが魅力の一つ、極めてフルトヴェングラーらしさが出ている秀逸の演奏。これでもか!といわんばかりの沈黙に似た静寂が会場を一瞬に飲み込みます。そして同日の「死と変容」。そしてブラームスの《交響曲第2番》を演奏した。
(ここまで仮本文)フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。3枚組。
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