34-16479

商品番号 34-16479

通販レコード→米ピンク黒文字盤

〝final〟は予定されていた。 ― スカラ座でお別れ演奏会を行い、英国によってフィルハーモニア管弦楽団に客演した1952年がアルトゥーロ・トスカニーニの欧州での最後の指揮となる。高齢からくる記憶の問題など、トスカニーニも困難に直面していたこともあってか、人生の幕引きはこの頃からカウントダウンするように段取りされていたようにミスティックなくらいに運命的だ。ラスト・シーズンは1954年1月17日と24日にヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」からスタートします。指揮者生活最後のオペラ指揮と決めてのリハーサルに熱を入れたようです。元来、トスカニーニはパルマ音楽院では作曲科の学生であった。ところが学生のときワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を観覧し作曲家になることを断念、そのままチェロ科に移ってしまった。トスカニーニは極度の近視であり、譜面台に置いた楽譜が見えなかったため本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった。その暗譜能力は驚異的であり、合奏曲約250曲の全パート、オペラ約100曲の譜面と歌詞、更に多くの小品を完璧に覚えていたという。オーケストラをリハーサルで徹底的に鍛え、妥協を許さない専制的な指揮者であった。こうした態度はオーケストラのみならずオペラ歌手にまで及ぶのは常からだったが、その自慢の記憶力に不安を覚えるようになっていたから、より尚熱の籠るリハーサルになったのだろう。1954年4月4日、カーネギー・ホールでNBC響と最終演奏会を行い、68年間に及ぶ指揮者人生を終える。その日、不安的中。得意のオール・ワーグナー・プログラム・コンサート。その時に演奏していた曲目は「タンホイザー」序曲とバッカナーレで記憶障害により指揮を一時止めてしまった。そしてこの演奏会の直後にトスカニーニの引退が発表された。「我が指揮棒を不本意ながら置き、なおかつ我がオーケストラに別れを告げねばならぬ悲しい時が来てしまった」。引退は演奏会の前に計画されていたものであり、アクシデントは全米にラジオ生中継されており、録音作業としては6月に2度指揮している。夏にイタリア北部の町パルマに帰国。半年滞在して、米国に戻り、自宅で息子ヴァルテルらと共に発売可能な録音の選定を行って、本盤は許可されて発売された。大戦中の録音で興味深い、曲の最後でアメリカ国家が盛大に鳴らされるように改編されているカンタータ「諸国民の讃歌」、歌劇「ナブッコ」~「行け、我が思いよ、黄金の翼にのって」から、ヴェルディ最後の作品となった「テ・デウム」の最晩年のライヴにいたる名演で、ヴェルディ指揮者としてのトスカニーニのさまざまな側面を堪能できるアルバム。ズンチャッチャと弾むリズムにのって歌い継がれるメロディ・ラインのカンタービレな美しさ。ヴェルディの音楽が持つ魅力の真髄を明らかにするトスカニーニの熱気にあふれた指揮である。老齢ということも重なり、次第に心身ともに疲弊していったのは間違いないことですが、3月14日のオール・イタリアン・プログラムで演奏した、ヴェルディの「聖歌四篇」からの《テ・デウム》は、大戦中の録音と比べても、トスカニーニ健在!という印象を受けます。しかし、トスカニーニには時間をかけて十分に取り組まなければならない私的問題が重要だった。令和元年8月25日、熊本市西区にある五福まちづくり交流センターで開いた蓄音機鑑賞会で話した。孫娘ソフィアのことだ。→コンディション、詳細を確認する
20世紀最大の指揮者の一人、アルトゥーロ・トスカニーニは4歳のときに初めてオペラを聴き、9歳でパルマ王立音楽院に入学しチェロと作曲を学び、イタリアの巡回歌劇団のチェロ奏者となりました。帰国後はミラノ・スカラ座のチェロ奏者に就任し、同時にイタリアやスペインで指揮活動も開始。1887年のヴェルディの歌劇「オテロ」の歴史的な初演のチェロ演奏を担当していた若きトスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。ヴェルディの指揮で歌劇「オテロ」が初演された時、トスカニーニは第2チェロを弾いていた。第1幕のオテロとデズデモナの愛の二重唱はチェロの四重奏によって導かれるが、そこでヴェルディが「第2チェロ!」と声を上げた。名指しされたトスカニーニは驚いた。老巨匠は若き第2チェロ奏者に言った。「君の音は柔らかすぎる。もっと大きく弾きなさい」。楽譜にはピアノと書かれていたが、ヴェルディはもっとはっきりとした音を欲していたのだ。あるいは、実際の劇場では大きめに弾くべきだと教えたのかもしれない。このヴェルディとの直接のコンタクトは、トスカニーニに強烈な印象を残した。歌劇「オテロ」は、シェークスピアの「オセロ」を原作としている。嫉妬と猜疑心が死を招く悲劇。宗教曲の体験や、和声の研究をはじめ幾つもの準備をしていたヴェルディ。続く喜歌劇「フォルスタッフ」も名作ですが、オペラ的なものとしては歌劇「オテロ」を頂点とします。この時期には不機嫌な老人ぶりには拍車がかかり、気難しさもこの上ない。シェイクスピアという題材がなければ、意欲に火がつかなかったかもしれません。ヴェルディはワーグナーの歌劇「ローエングリン」を観てから、更に不機嫌オヤジになったという。晩年にヴェルディはワーグナーを知ったらしい。それも楽劇「トリスタンとイゾルデ」などではなく、歌劇「ローエングリン」です。この努力と苦闘が作品を比類のないものとしています。肉体的にはやけに元気だった。特に愛人テレーザ・シュトルツ(ボヘミア出身のソプラノ歌手)にサンターガタから10キロほど離れたベセンツァーノという小さな村に家を借りてやり、そこから毎日のようにサンターガタに通わせていた時には、彼女が訪問してくると、とにかくまずは事をいたしてから、レッスンにしても打合せにしても始まったという。これは当時の下男の手紙で明らかなのだという。「シュトルツ様がお出でになると、マエストロはまず、シュトルツ様のムタンデ(サスペンダー)をおとりになるのが仕事始めでした」と書いてあるそうである。還暦を過ぎても精力絶倫だったのだ。そのエネルギーがあるからこそ、フラストレーションも大きい。ワーグナーの真似なんてやる気もない。ふたりの存命中、「ヴェルディがワーグナーを模倣している」という批評が多かった。
これは、ワーグナーが従来のオペラ形式を否定し、音楽劇に革命を起こすと標榜していたことが大きい。伝統的なイタリア・オペラの土台に立ち、その上に独自の世界を構築していったヴェルディは、ワーグナー側から見れば守旧的で攻撃対象にしやすかった。チェンバロの簡単な伴奏のみで物語の説明をするレチタティーヴォを排し、隅々まで物語の進行に意味ある音楽を付けていったヴェルディのスタイルは、ワーグナーが編み出した無限旋律と似通っている。しかし、ヴェルディが試みはじめたのは、1849年の歌劇「ルイーザ・ミラー」からで、ワーグナーの革新的作品が世に出る前のことだ。ヴェルディはたしかにワーグナーを意識していた。1871年、ワーグナー作品のイタリア初上演となる歌劇「ローエングリン」に、ボローニャの街はワーグナー一色となった。ヴェルディは密かにこの公演を観に行っている。そして、感じたことをこまかくメモしていったという。イタリアでは並ぶものなきもので、それを自覚していたヴェルディは、ワーグナーの楽劇直前のロマンティックなオペラにドイツに天才がいることを知ってショックを受け、ますます不機嫌で扱いにくい老人となります。ワーグナーに対するライバル心が見て取れる。しかし、それは自作とは異質なものであり、その攻勢に打ち勝つには、自らのスタイルをかえって固く守ることだと思い極めていたのである。現代に目を転じればアメリカ大統領トランプ氏だ。劇場や出版社などとの契約を人任せにせず、交渉には人一倍気を使った。報酬の受け取り方に至るまで、事細かに取り決めた。そうして得られた収益を不動産に換え、ブッセート郊外のサンターガタの土地を農場とする。オペラ作曲家として世に出て以降は、有能なビジネスマンさながらだった。歌劇「オテロ」にいたる過程とは、ワーグナーが死んで、よき台本をなすアリーゴ・ボーイトとの共同作業、歌劇「シモン・ボッカネグラ」の改訂や、歌劇「ドン・カルロ」など、周到な準備の上でのコンプレクスの克服でした。ヴェルディは、ワーグナーの真似なんてやる気もなかったと言うが、歌劇「オテロ」第4幕、デズデモーナの哀しい愛が見事に投影される「アヴェ・マリア」の美しさ。また、妻を殺し、そして自死する最後のシーンの「デズデモーナ、デズデモーナ」とうなる恐るべき官能。似通って見えるのは、両者が物語にふさわしい音楽を追究した結果であって、模倣ではない。愛と死の同期するこの場面は、方法こそ違え、ワーグナーの魂と相通ずる。
世界的指揮者だったヘルベルト・フォン・カラヤンは来日した際に、「君が代」を聴いて、「世界の国歌の中で最も荘厳な曲」と評価した。1973年にカラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて来日公演を開いた初日では、まず君が代、続いて西ドイツ ― 当時 ― 国歌が演奏された。戦時中は演奏会の最初や最後に『星条旗』 ― 星条旗よ永遠なれ ― を演奏することも多かった。『星条旗』を演奏する際アルトゥーロ・トスカニーニは、リハーサルや録音であっても、チェロを含む全員を起立させて演奏したと言われている。イタリアへの母国愛を終生抱き続けたトスカニーニであったが、だからこそ米国人にとっての母国である米国への愛を尊重していたのだと思われ、トスカニーニの人となりがわかる。トスカニーニは戦前・戦中・戦後初期を代表する大指揮者で、ヨーロッパではヴィルヘルム・フルトヴェングラー、アメリカではトスカニーニと人気を二分した。フルトヴェングラーのロマンティックの極みに対してトスカニーニは、イタリアのエミリア・ロマーニャ州の県都パルマ出身ということから当地で高名なワイン、弱発砲性赤ワイン・ランブルスコのようにすっきり系ですが、すっきりまとめているからといって、そこには軽さは感じられず力強さが感じ取れます。トスカニーニは1898年31歳の時にはイタリア・オペラの総本山とも言うべきミラノ・スカラ座の指揮者に迎えられます。そのデビュー公演でワーグナーを取り上げ楽劇「ニュルンベルグのマイスタージンガー」を1ヶ月以上に亘る猛烈な訓練の後に演奏、この公演はスカラ座の歴史に残る程の大成功を収めワーグナー指揮にみせるトスカニーニの才能のほどを内外に確認させる事となった。ドイツ系指揮者以外はまだ誰も足を踏み入れていないバイロイト音楽祭から1930年63歳の時に出演要請を受け歌劇「タンホイザー」と楽劇「トリスタンとイゾルデ」を指揮してバイロイト音楽祭始まって以来の外国人指揮者登場の第一歩を標す。そこにはアドルフ・ヒットラーを嫌い「バイロイトを人種の別なく音楽の聖域としたい」と考えていたリヒャルト・ワーグナーの忘れ形見ジークフリートの思想が働いていた。彼は外国人のトスカニーニに積極的に出演を要請して、このバイロイトを開かれたものとしたのですが生憎トスカニーニが初めてのデビューを飾った、この1930年の夏にジークフリートは突然亡くなってしまいます。ヒトラーへの敬愛を公言していたヴィニフレート夫人のもとバイロイトはナチスの牙城としての色彩を強めていく。トスカニーニは翌1931年には歌劇「タンホイザー」と舞台神聖祝典劇「パルジファル」を指揮し、更に翌々年の1933年にはバイロイトの名誉市民の称号も得て、いよいよ念願の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を指揮する予定になっていた。演奏会で指揮している分は良かったのですが、「是非今年の公演の折りには直接会ってナチス第三帝国の首相として御礼を申し上げたい」という大変遜った文面の手紙がナチスからトスカニーニに届く。
ヒットラーのユダヤ人政策に徹底して反対していたアルトゥーロ・トスカニーニは「現在のような状況のもとではバイロイトに足を運ぶわけにはいかない」と断っており、「この間バイロイトで指揮できたこと、それ自体が私にとっての報酬である。」として、この時のバイロイト音楽祭の出演料は一切受け取らなかった。この当時、利用するだけ利用されたブルーノ・ワルターは演奏活動が出来ないところまでナチスに追いつめられ、娘は娘婿だったナチス将校に銃殺される。危機を感じて帰宅しないで演奏会場に駆け込んだワルターの急場を救うべく指揮を代行したのがトスカニーニだった。程なくフランス経由でイギリスへの逃避行を手引した。1936年引退を決意してニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任し、イタリアへ戻ったトスカニーニに翌1937年にはラジオ放送を通じて一度に何百万もの人々に演奏を聴いて貰おうと言うアメリカの放送局からの提案を受け入れ再びニューヨークに復帰すると、1937年トスカニーニのためにアメリカRCA社が創設したNBC交響楽団の指揮者となります。ワルターの晩年にアメリカ・コロンビア社が結成したコロンビア交響楽団の先駆けみたいですが、当時のアメリカの財力は有名指揮者にオーケストラをプレゼントするとは凄まじい。商魂逞しい米国のメディアが投資するトスカニーニには、剛毅で、集中力が高く、熱気にあふれ、人を引き付ける何かがあった証左であろう。後輩のヘルベルト・フォン・カラヤンでさえ持つことが出来なかった強大な影響力を生み社会現象になった初めてのマエストロではなかろうか。1954年4月4日、カーネギー・ホールでのコンサートを以て引退。1957年1月16日、ニューヨークの自宅にて脳血栓のため亡くなった。89歳でした。この「20世紀最大の指揮者」の音楽は、TV放送用の映像が全て残されていて、死後60年以上経過した今なお、多くのクラシック愛好家の心を震わせている。
  • Record Karte
  • ジャン・ピアース、ロバート・ショウ合唱団、ウェストミンスター合唱団、1954年3月14日(聖歌四篇~テ・デウム, Recorded At – Carnegie Hall)、1943年1月31日(歌劇「ナブッコ」~「行け、我が思いよ、黄金の翼にのって」, Recorded At – Studio 8H)、1943年12月12月8&12日(カンタータ「諸国民の讃歌」, Recorded At – Studio 8H)、モノラル録音。
  • US RCA VICS-1331 アルトゥーロ・トスカニーニ ヴェル…
  • US RCA VICS-1331 アルトゥーロ・トスカニーニ ヴェル…
ヴェルディ:レクイエム&テ・デウム
ネッリ(ヘルヴァ)
BMGインターナショナル
2000-09-20