34-19998

商品番号 34-19998

通販レコード→米ダーク・マルーン・シェード・ドッグ盤

〝史上最高のショパン弾き〟と言われるのもこの演奏を聴いて納得。 ― それと、もう一つ感じたことは、ショパンの曲も素晴らしい!さすがにピアノの詩人と言われる訳である。同世代のライバル、リストより遙に美しく魅力的に感じるのだ。アルトゥール・ルービンシュタインの70歳代後半の高齢での録音でしたが、技術的には衰えを微塵も感じさせない自然で安定した素晴らしい演奏です。 この「ショパンのノクターン」の長年の大ベストセラーで、ノクターン全集の定番中の定番としての位置づけは発売当初から全く変わっていないようです。ショパンのノクターン全集はとても多くのピアニストの録音がありますが、いかに現代のピアニストの名演奏が台頭してきたとしても、ルービンシュタインのこのノクターン全集は決してレコードカタログから消えないどころか、むしろ時が経つにつれて、その存在感を増しているとも言えます。これはショパンのノクターンの永遠のスタンダード、長年の規範としての位置も保ち続ける絶対的存在ではないかと思います。その理由はこのノクターンの演奏内容にあります。ポーランドに生まれ、ポーランドを超えた2人の詩人。ショパンとルービンシュタインの心の溶け合いが美しい!この単純な曲から複雑な書法の後期の曲まで、多彩な表情に満ちた夜想曲を見事に描き分けている演奏です。演奏は淡々と弾きながら次第に神の領域に入っていく、文字通りの神品。くっきりとした輪郭を持ちながらもコクのあるマイルドな音色で、ノクターンらしく1曲1曲を静謐な佇まいの中に必要十分な詩情を盛り込み、息の長いフレーズに板についた自然なテンポルバートで息を吹き込み、いかにも鍵盤の王者らしい豊かな風格と高貴で格調高い節回しで再現し、僕たちを安らぎの境地へと誘ってくれます。テンポ設定は若干遅めで、非常に落ち着いた自信に満ちた深い響きはいかにもショパンのノクターンに相応しく、ショパンのノクターンという作品の魅力とルービンシュタインの人柄の魅力の双方が見事にオーバーラップして、この素晴らしい演奏を実現させているように感じます。ノクターン ― 夜の詩たるこの曲集で、ルービンシュタインはセンチメンタルで独善的な惑溺と詩的インスピレーションの飛翔との危うく際どい境界線をキッチリ見極めます。初期の比較的単純な曲から、めまぐるしく転調する後期の複雑な曲へと至る、ショパンの生涯を俯瞰しうるようなこの曲集に対し、彼は各曲の彫琢に意を砕くのみならず、作風の推移への目配せも余念がありません。斯くしてショパンの生涯の雄弁な要約とすら言える演奏が生み出されました。作品番号付きの第1番から第19番までが収録されています。
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夜想曲 ― ノクターン(Nocturne)の語源はラテン語で夜をさす「Nox」から派生し、修道院などで行われる晩祷のことを示す。ひいては夜の黙想、瞑想などの意味に転化したものと考えられる。宗教作品としての晩祷はモンテヴェルディからラフマニノフまで壮大な作品が存在する。また貴族の夜会で奏される音楽にノットルノ(Notturno)があり、ルネサンスから古典派にかけてセレナードと同様の機会音楽として存在した。この個人の瞑想とサロン文化が結びついて、このジャンルが形成されたと思われる。ショパンがパリのサロンで活躍していた頃、そしてショパン存命中も、このノクターンがショバンの曲の中で一番人気があったようです。ショバンのノクターンは全21曲で、このアルトゥール・ルービンシュタインの夜想曲集の中には、残念なことに映画「戦場のピアニスト」で異常ともいえる人気となった「第20番嬰ハ短調遺作」が入っていません。ルービンシュタインは作品番号のない曲を録音しなかったようです。夜想曲第20番嬰ハ短調 KK. IVa-16「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」は、姉のルドヴィカ・ショパンがピアノ協奏曲第2番を練習する時のための曲として書かれた、1830年の春の作曲。初版では「アダージョ」という標題がついていたが、ブラームスがこの曲を写譜する際にこの標題を消してしまった。残った速度記号の「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ(Lento con gran espressione)」のみが残り、これが標題として知られるようになった。また現在では夜想曲として知られるが、これはルドヴィカがショパンの未出版作品のカタログを作った際に「夜想曲風のレント(Lento w rodzaju Nokturna)」と記したことによる。夜想曲集は第1番を含む作品9の3曲が出版されたのが、1832年のこと。ワルシャワを離れて、パリで身を起こす初期に出版された。ノクターンの作曲は、ショパンの作曲時期全般にわたっているため、作品ごとに作風の変遷を見て取ることもでき、第18番が生前最後に出版された夜想曲である。初期のノクターンは、フィールドの影響が色濃く残されているが、時代が下るに従って作曲技法が深化し、ショパン独特の境地へと発展していく様子がうかがえる。ノクターンといえば、有名なのは昔から「第2番変ホ長調」でしたが、これも一人のピアニストの悲喜こもごもを描いた映画「愛情物語」の功績が大きい。現在人気は「第20番嬰ハ短調遺作 」の方かも知れません。代表的な演奏はウラディーミル・アシュケナージということになるでしょう。「第20番嬰ハ短調遺作」を、19曲に加えるならば最も最初に演奏するのが、ショパンの生涯を俯瞰しうる。
クラシックの多くのLPレコードを買い、ソニーのコンポーネント・ステレオで聴くようになってから、神水に在ったこだわりのオーディオショップの何かの記念セールで、Shure V15TypeⅢをとても安く購入でき、その再生音の格段の変化に驚き。折に触れ、グレードアップする度に何度も、何度も聴きました。ピアノのレコードのリファレンスとしてでなく、聴いていてとても優雅な気持ちになり、再生音の確認を忘れて至福の時間を過ごすことが出来る、優れたLPレコードだったからです。レコード購入時から演奏は折り紙つきでしたが、ニューヨークや、シカゴあたりのスタジオでなくて、ローマで録音されているところも何かあるのかな。以前から忘れられないことに、仲道郁代さんは子供時代の思い出で「夜寝る前にルービンシュタインのバラードを何度も何度も聞ききました。」と話していた。最近でも、「題名のない音楽会」で 仲道郁代と五嶋龍が対話している中で、アルトゥール・ルービンシュタインの弾くショパンの演奏が話題になり、五嶋龍さんは「部屋を暗くして、私はルービンシュタインのノクターンをよく聴きました」と話していました。私を含め日本人はショパンが好きである。日本の詩的文化と「ピアノの詩人」と呼ばれたショパンに、何か通じるものを感じているのかもしれない。ショパンはライバルにして親友であったリストとよく比較され、女性的なイメージがあるといえばあるが、ショパンも男性的な激しく力強い曲はたくさんある。そうした一面を表出させている演奏である。そして肉付きの良いピアノの音の録音は、50年も前のままなのに、鮮烈さが増して心を縛って離さない。今回も全19曲を通して聴き返していて、ルービンシュタインの演奏はショパンのピアノ演奏の〝世界遺産〟と言われることもあるのが、今更のように理解でき深く思いに刻まれました。
怪人プロデューサーの自宅アパートで深夜、部下の事業部長が打ち合わせをやっていたら、ガサゴソと音がして食堂の大型冷蔵庫の扉が開いた。手に何か食べ物と飲み物を抱えてベッドルームへ去ろうとしている小柄な男がいた。斯くも、世紀の巨匠は人懐っこい人柄であった。アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887〜1982)はポーランドのユダヤ人家庭に生まれ、1898年にベルリンでデビューした。ヨーロッパで長く活動した後、第二次大戦前にアメリカへ渡り世界的な名声を得た。祖国愛、政治的亡命、アメリカでの成功と、いかにもアメリカ人が喜びそうなサクセス・ストーリーが見え隠れしている。彼の祖国への愛に嘘偽りがあるとは思わないが、どうもプロモーション上、そういうイメージが作られていたような気がする。ルービンシュタインは若いころから華があるピアニストであり、大変に人気もあったピアニストであった。優れた音感と驚異的な暗譜力を持ち備えており、初めて見る楽譜も練習もせずに見ているだけで難なく弾くことができた天才肌のタイプであった。ルービンシュタインは早くから異常なピアノの才能を示し、姉の弾くピアノの曲を聴いただけで、そっくりそのままピアノで再現することができ、姉が間違えたところはそっくりそのまま間違えて弾いたそうです。ルービンシュタインは厳格なメソッドが嫌いで、それよりも音楽の情熱、躍動を重視するタイプのピアノ弾きでした。「フランクの〈交響的変奏曲〉を汽車の中で楽譜を読んだだけで覚え、マドリッドで初めて弾いたことがある」と回想されても居るように、ユーディ・メニューイン、ヴィルヘルム・バックハウスと並び、練習嫌いの上に、練習に時間も取れなかったのだろう。「木枯らしのエチュード」は左手が旋律を担うのだから右手を適当に弾いてもそれらしく聴こえる、と言って実践したこともあったようです。彼は第1次世界大戦前はパリ、ロンドンに拠点を置いて、ヨーロッパ、南米各地で超過密スケジュールで演奏活動を展開し、その華やかで情熱的な演奏で聴衆に熱狂的に迎え入れられていましたが、その一方でアメリカ合衆国では聴衆・批評家ともに比較的冷淡な反応だったようです。
当時はミスが多いがため、アルトゥール・ルービンシュタインが演奏しているピアノからこぼれ落ちる音符を掃除担当者が片付ける風刺画さえ描かれていた。そんなある時、17歳年下のホロヴィッツがパリデビューを果たした際、ルービンシュタインはその素晴らしいテクニックに驚嘆し、静かな絶望に陥ったようです。ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz, 1903〜1989)は研ぎ澄まされた独特の感性と、正確無比な演奏をする完璧主義者でもあった。わずかなミスにも妥協を許さず苦悩の様子を見せていた、そんな彼の姿はきっとルービンシュタインから見ると理解できる範囲を超えていたのかもしれない。ルービンシュタインはそれを自覚して自己の演奏の欠点を顧みることはありましたが、その一方で彼の情熱的で華やかな演奏を好んでくれる聴衆もいるのだから、あえてその欠点を修正する必要もないのではないかという思いもあり、そのはざまで揺れ動いていました。しかし、ホロヴィッツに限らず彼よりも若いピアニストは皆、彼よりも正確なテクニックでピアノを弾くという現実に直面し、「今は聴衆に受け入れられていても、努力しなければやがて忘れ去られてしまうのではないか」と自信が揺らぎ始めていました。1928年、41歳になったルービンシュタインに変化の兆しが見え始めます。彼は以前、ピアノ演奏の録音を経験したことがありましたが、そのロールピアノの録音は音質が非常にこもっている上にノイズも多く、すっかり失望してしまい録音には懲りていました。この年、イギリスのH.M.V.レコードの代表者から録音の話を持ち掛けられた時も、以前の録音で懲りていたルービンシュタインは気乗りしませんでした。しかし、「気に入らなければレコードを発売しない」という条件で彼はその誘いを受け入れ、非公開でショパンの「舟歌 Op.60」を録音したところ、その音質の良いことには驚きましたが、改めてプレイバックを聴くと自分の演奏の音抜けやミスタッチがあまりに多いのに閉口しました。「こんなことではダメだ。もっと正確な演奏をしなければ」という危機感がさらに強くなってきました。ルービンシュタインのピアノ演奏の技術的な精度は録音技術の発達と大いに関係があるようです。またそれと同時に、彼は「そろそろ結婚して家庭を持ちたい、大切な伴侶と家庭に恵まれれば、彼らが自慢できるようなピアニストを目指そうと頑張れるのではないか」という思いも芽生えます。この年、久しぶりに彼の祖国ポーランドに帰り、エミール・ムリナルスキ指揮ワルシャワフィルと共演し成功を収めます。その時、最前列で彼の演奏にうっとりと聞き惚れていた女性がいたことにルービンシュタインは気づいていました。演奏会後、指揮者ムリナルスキが楽屋裏でこの女性を彼に紹介しました。それは指揮者の娘、まだ10代の金髪の美少女アニエラ・ムリナルスカでした。ルービンシュタインはこの人に惚れ込みました。
それまで遊んできた数々の女性よりもはるかに魅力的で、そこには知性と良き妻の資質を垣間見て、アルトゥール・ルービンシュタインは寝ても覚めてもこの人のことを考えるようになりました。しかし彼はアニエラとの24歳という年齢差を考えると積極的になれず、そうしているうちにアニエラは何と他のピアニストと結婚してしまいました。ルービンシュタインは奈落の底に突き落とされたように落胆し茫然自失となり、その心の慰めをピアノと友人に求めました。そんなある時、アニエラが離婚したという話を友人が彼にこっそりと教えてくれました。表向きにはアニエラの年齢が若すぎるからというのがその理由だったそうですが、本当はアニエラがルービンシュタインのことをどうしても忘れられなかったというのがその理由だということでした。「父の指揮するあのコンチェルトの演奏会の時、私はあなたのことが好きになりました。でもあなたは私に少しも関心を示してくれなかったものですから ... 」とアニエラは告白しました。「歳の違いを気にしていましたし、それにその時はまだ心の準備もできていませんでした」とルービンシュタインは言いました。しかし、アニエラは歳の差を全く気にしていなかったようです。プレイボーイの返上。2人は1932年に結婚します。この時、ルービンシュタイン45歳、アニエラ21歳、歳の差24歳の結婚でした。アニエラはピアノを聴く優れた耳を持っていたようで、ルービンシュタインの良い聴き手だったようです。そして彼は演奏スタイルを根本から見直し、新たなスタイルを構築・確立していった。ミスタッチや音抜けを克服するため、ルービンシュタインは楽譜を入念に読み、パッセージ毎に細かく区切って楽譜に忠実に正確に音を再現していきました。その鍛錬期間は3か月間だったようですが、この3か月間でルービンシュタインの演奏は見違えるように変わったようでした。練習の合間にアニエラと一緒に村を散策するのを楽しみました。ルービンシュタインは小柄なピアニストですが、ピアノ演奏に自信をつけた彼はアニエラからは 「まるで巨人が歩いている」ように見えたそうです。この1934年の鍛錬の前後の録音はEMIに残されています。1932年録音のショパン・スケルツォ全曲、1934年録音のショパン・ポロネーズ1番~7番は、非常に情熱的で躍動感溢れる天才肌の演奏ですが、ミスタッチは多く感じられますが、しかし1938年から39年に録音されたショパンの51曲のマズルカ集では、ミスタッチ、音抜けが格段に少なくなり、持ち味の溌溂としたリズムと情熱、変幻自在で豊かな音楽性をそのままに、そこに抑制とコントロールが加わることで技術的な完成度は格段に増し、「大家の芸」と呼ぶに相応しい見事な演奏となっています。この1934年の前後で、ルービンシュタインが遊び人タイプの練習不足のピアノ弾きから、押しも押されもせぬ一流ピアニストに大きく前進したことが録音記録からもはっきりと聴きとれます。
そして彼はウラディーミル・ホロヴィッツと共にピアノ音楽の巨木的存在としての地位をゆるぎないものにした、安心して聴くことのできる温か味を感じさせるピアニストになっていった。しかも、ホロヴィッツに見られるような目の覚めるような派手なテクニックを追い求めるのでなく、明るくキラキラと輝くダイヤのような芯を持ち自然に朗々と歌い上げられるフレーズに卓越したリズム感にあると彼自身の魅力を見出した。その音はアルトゥール・ルービンシュタインとホロヴィッツの音楽の方向性、人柄、音色、性格、レパートリーに多々対極にあるように見えるが、音楽への想い、観客へのサービス精神は何ら変わるところがない。ルービンシュタインは過去、数回に渡ってショパンのあらゆる曲を録音していますが、 演奏技術の完成度、音質を考えると、1958年~1966年というステレオ最初期にRCAビクター・レッドシールに録音したもので、本盤録音当時、ルービンシュタインは70歳代でしたが、演奏技術は若い頃よりもむしろ正確で、強靭な打鍵でスタインウェイのフルコンサートを鳴らし切る美しく輝かしい響きで弾き進めていくゴージャスで堂々としたショパン演奏です。ショパン演奏はセンチメンタルで感傷的な演奏が主流だった一時期もあったようですが、ルービンシュタインは安っぽい感傷に陥る瞬間は一瞬たりともなく、板についた自然なテンポ・ルバートで朗々と格調高くピアノを歌わせます。ルービンシュタインの演奏が今の時代にもあまり古さを感じさせないのは、彼の演奏のこのような特徴によるところが大きく、ショパン演奏の規範として今でも多くの愛好家に愛聴されているのは皆さんもご存知の通りです。
僕がルービンシュタインを何故嫌いかというと姿勢が良いわけ。ということは上半身の力が全部鍵盤にかかるわけ。すると、もう割れんばかりの強い音が出るけれども、汚い音になる ― 坂本龍一がグレン・グールドの演奏から聴こえ出るピアノの音と姿勢の関係を語るところで、引き合いに出されている。20世紀のアメリカが求めたショーマンシップもシンボリックすぎるほど見事だった世紀の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタイン。1935年の初来日の後、2度目に彼がやって来たのは1966年6月、すでに79歳の高齢であったが、その舞台のなんという素晴らしさだったことだろう。演奏も舞台姿も円熟の極み、風格豊かで一切の無駄と虚飾を取り去った音楽の本質がそこにあった。しかも、どんなに枯れていても若い頃の道楽者には艶福の名残りがあった。「私は40歳までは女ばっかりだった」とルービンシュタインは指揮者の岩城宏之に語ったそうだが、まあ話半分としても求道者よりはプレイボーイ的な演奏であることは確かだ。しかし、そうした遊びを芸の肥やしにして壮年から老年にかけてのルービンシュタインの深まり方は只事でなく、ほとんど奇蹟のような出来事であった。レコード録音はSP時代はもちろんだがモノーラル時代、そしてステレオ時代に入ってからも、その初期の頃のルービンシュタインには大味なイメージが強い。そんなアメリカの外面的なヴィルトゥオーゾが、70歳代も半ばを超えてから急速に円熟への道を歩み始めた。若い頃は放蕩と道楽の限りを尽くし、60歳代に至るまで効果を狙うだけのピアノを弾いていた最も人間臭い人間ルービンシュタインが、やっとその脂ぎった演奏に抑制を効かせ過度に華やかだったタッチを是正した結果が、ピアノを弾くのが楽しくてたまらない。という風情で、まさに人生の達人の姿がそこにあった。いかなる激しい演奏場面においても背骨がピンと伸びきって、身体のあらゆる部分に無駄な動きが全くないのには驚かされる。そんなルービンシュタインの演奏にはいやらしさが寸毫も感じられない。それは歌舞伎の名優が舞台上で大見得を切っても、演技が少しも下品にならないのと似ている。華のあるステージであり、華麗な音楽創りをしているのに思わせ振りがない。1世紀に一人か二人しか出現しない、この人はまことに「大名人」としか表現しようのない音楽家であった。
ショパン:夜想曲集(全19曲)
アルトゥール・ルービンシュタイン
SMJ
2016-12-07

1965年8月30日、31日、9月1〜2日(1〜15、17〜19)、1967年2月21日(16)ローマ、RCAスタジオA(1〜15、17〜19)、ニューヨーク、ウェブスター・ホール(16)での録音。
US RCA LM6005 アルトゥール・ルービンシュタイン ショパ…
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