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まさにレコード芸術史上の忘れえぬべっぴん。 ― シューマンのピアノ協奏曲は、〈じっくりと〉〈丁寧に〉〈繊細に〉と指示のある、言葉に書くと微妙に少しずつ違う味わいを、ゆっくりしたテンポの中で複雑に描き分けてゆくところにピアニズムを楽しむ勘所がある。ブルーノ・ワルターは、これを自由なテンポで演奏して、抒情的なものに変形してしまうと、シューマンの精神とスコアの指示に背き、3つの部分の対象が全く崩れ去ってしまう。とスコア通りに演奏に従うようにと主張している。33歳で夭折した天才、リパッティが遺した歴史的録音で、自身の行く末を知っていたのか、時に疾走し、時にたゆたう緩急絶妙のテンポ変化、その結果として生まれる瑞々しい歌と躍動感が作品と一体となった稀代の名演。リパッティが、20世紀のピアノ演奏史に燦然と輝いているのは、単に残された数少ない録音の素晴らさからだけではと思います。リパッティは録音に対しては何時も真剣で一枚のレコードが完成するまでは何度もテイクを重ね、それがより完成度を高めて、結果として強い説得力を生んだと云われている。彼のピアニズムを一言で言い表すとすれば、繊細、清潔、透明、端整といった表現が相応しいと思います。例えばブザンソンのライヴを聴いて居て感じることですが、既に迫り来る死を避けがたい運命と悟ってたと思われながら、そのような苦悩を微塵も演奏からは感じさせずに、常に聴衆の方を向いていたのではと思いたくなります。これがモノ録音しか聴くすべが無い現代でも高い支持を得ている要因では無いかと結論づけては早計でしょうか。33歳で逝ってしまったことが、何故か、英国のジャクリーヌ・デュ・プレやイシュトヴァーン・ケルテス ― それぞれに病死ではありませんが、突然の最期として ― に重なりあう。リパッティの33歳の早すぎた死は、何枚も名盤量産するという輝かしい未来を奪い、歳月を重ねて到達する円熟の境地を与えなかったですが、このルーマニアの才能を惜しむ声は高まりこそすれ、一向に衰えずリパッティ初期盤収集に苦労します。
ディヌ・リパッティ(1917年 ー 1950年)は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。死因は白血病といわれることが多いが、実際はホジキンリンパ腫である。演奏会の直前まで40度の高熱を出して病床に伏していたリパッティであったが、医師の制止を振り切り、強力な解熱剤の注射により、ようやく立ち上がることができるような状態で、よろめくようにステージに姿を現し、やっとのことでピアノのところまで辿りつくことができたという。しかし、この録音を聴く限り、そんな身体の状況などは微塵も感じさせず、集中力の高いピアノ演奏には驚かされるばかりである。このレコードで聴ける、シューマンの協奏曲はレコード芸術の歴史上でも貴重な遺産である。これほど、ロマンの香りが高いシューマン:ピアノ協奏曲は滅多に聴けるものではない。何か、リパッティがシューマンに乗り移って、幻想的な森の奥深く分け入って、平穏な一時に身を委ねているかのようでもある。夢幻的な名演とでも言ったらよいのであろう。曲は卓越したピアニストだった、シューマンの妻、クララ・シューマンが演奏することを念頭に作曲した、ピアニストとしては断念した作曲家の覇気に燃える音楽家としての息吹を感じさせます。そのドラマティックなインパクトが、テレビ特撮「ウルトラセブン」に使われた理由でしょうか。
1948年4月9〜10日ロンドン、EMI アビーロードスタジオ・セッション。リパッティ、カラヤンという夢の組み合わせ実現は、勿論大御所レッグがいなかったら考えられなかった。1947年は純粋にSP録音。モノラル録音。
US ODYSSEY 32 16 0141 ディヌ・リパッティ グリ…
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