34-713

商品番号 34-713

通販レコード→米ダーク・マルーン銀文字盤

女傑バッカウアーのピアノは、ショパン向きではないことが分かる。 ― アルフレッド・コルトーとラフマニノフに師事したジーナ・バッカウアーの、脂が乗り切っていた50歳の頃の録音。凄いピアニズム、20世紀半ばに人気を誇ったバッカウアー。〝男勝り〟や〝豪快な〟という形容がつく彼女だが、ここではそのスケールの大きさと豊かな詩情をたたえた演奏が展開されている。ギリシャ生まれの女流ピアニストの自己陶酔的ではないダイナミックなロマンティシズムは、男性的で勇壮。現在その名はピアノの国際コンクールを思い出させますが、生前は非常な人気を誇るスターでした。極限の技巧と体力が要求されるブラームスの「ピアノ協奏曲第2番」を十八番とし、スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが若い時に共演したレコードは、誰にも真似のできない見事な演奏で評判となりました。よく女性ピアニストに対して形容される豪腕とか男勝りといわれる以上に、ずば抜けて腕が立つピアニストだということがわかる。単にユニゾンのパッセージを猛烈に弾くのではなく、実に堂々としたテンポで、実演ではさぞかし豊かな音量を響かせて聴衆を圧倒していただろう。マルタ・アルゲリッチのように攻撃的な側面も持ち合わせていた。本盤の聴きどころ、女傑バッカウアーのピアノは、ショパン向きではないことが分かる。メロディ・ラインを歌わせることよりも、ピアノをガンガン鳴らすことに執着している。ドラティの伴奏も詩情に乏しい。ショパンはポーランドに生まれた作曲家ですが、成人してからは父親の国であるフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。ショパンが活躍した19世紀前半は、ピアノという楽器がまだまだ進化の途中だったとされる時代で、そのサウンドは現代の楽器とは少なからず違ってはいたものの、それでも古典派時代のフォルテピアノに較べると大きな変貌を遂げており、ショパンの作曲意欲を刺激するのに十分な機能を持ち合わせていたものと思われます。そうした機能面で恵まれた楽器に接していたこともあってか、ショパンのピアノ音楽は、それまでの作曲家の書いたピアノ音楽には無かった、非常に繊細で抒情的な美しさや、ダイナミックな表現にまでさまざまな感情の込められたものなど、独自の工夫を感じさせるものが多く、オペラや交響曲には目もくれず、ピアノという楽器に没入したショパンならではの、音楽表現の可能性の探求がなされているのがポイントといえる。ショパンのポーランドへの愛国心は非常に強く、ポーランドの主権復活の望みを抱きながら、富裕な貴族社会、圧力が増すロシア支配、そして農奴制に苦しむ農家たちといった当時の現状を憂い、それが後の作品にも大きく影響した。ショパンがポーランドを去る日、彼の友人が祖国ポーランドの土を、馬の餞として出国する彼に贈呈したという逸話が残っている。選挙王制を柱とするポーランドの世襲貴族階級の独裁と富裕化、農奴制強化による農民への圧迫を背景に、ロシアやスウェーデンなどの干渉による政情不安定が続いた結果、ポーランド分割をもたらし、ショパンが生まれる以前からポーランドは消滅していた。
19世紀初頭ポーランドという国名はなく、フランス皇帝ナポレオン1世の支配によって樹立したワルシャワ公国時代も暗黒時代そのものであった。ショパンが成長する、この間、ナポレオンの没落によりワルシャワ大公国は崩壊、国王はロシア・ロマノフ王朝の皇帝が兼任したため、実態はロシア領ポーランドであり、ポーランド人の自由を奪っていった。こうした中での1830年10月、20歳のショパンはウィーンへ旅立つ決心をし、前年に作曲したピアノ協奏曲第2番をワルシャワで告別演奏会を開催して演奏、祖国ポーランドを後にした。ウィーン到着後、まもなくワルシャワ蜂起がおこります。11月29日、フランス七月革命の影響により独立を達成したベルギーに対し、ロシアはポーランド軍を動員してベルギーに出動させようとした。ロシアの暴政に不満を募らせていた、陸軍士官学校の生徒たちや、ポーランドの領主貴族、さらにはポーランド市民がこれをきっかけとして武装蜂起、ワルシャワの武器庫を占拠し、反乱軍とロシア帝国軍との戦闘が展開され、ワルシャワは火の海と化した。ワルシャワ蜂起の影響もあり反ウィーン体制ととらえられ、反ポーランドの色が濃くなったウィーン楽壇でショパンは完全に孤立し、演奏する機会がなかなか得られず、7月にウィーンを去り、8月、ミュンヘンでピアノ協奏曲第1番ほかによる演奏会を開催。武装蜂起は翌1831年10月までほぼ1年近く続いたが、結果的にはロシア軍の格の違いを見せつけられて鎮圧、敗北を喫した。シュトゥットガルトでワルシャワ蜂起の失敗を知ったショパンは、父ニコラの母国であるフランス行きを決断、パリに向かいます。この頃、ショパンは自身の身体の弱さと当時祖国を離れていたことから、この騒乱に参加できない苛立たしさ、そして蜂起失敗に対する絶望感から、『エチュード作品10第12番ハ短調』を作曲。世に言う『革命のエチュード』のことです。1831年9月にパリに足を踏み入れたショパンは、ハンガリー出身でショパンより早くパリに移り住んでいたロマン派ピアニストであり作曲家のリストと親交、『革命のエチュード』を献呈した。この頃ドイツのシューマンは、ショパンのワルシャワ音楽院時代に作曲した『ドン・ジョヴァンニの“お手をどうぞ”の主題による変奏曲』を絶賛している。また1833年にベルリオーズの演奏会に来ていたショパンは、これを機に彼と親交を深めるようになった。ドイツ・ロマン派音楽家では他にもメンデルスゾーンとも交流を持ち、またドイツ・ロマン派文学の“革命詩人”ハイネや、後の写実主義作家の代表であるフランスの文豪バルザックといった文筆家とも親交を深めていった。1832年、ショパンはパリでは初めての演奏会を行った。1833年には『華麗なる変奏曲』『ボレロ』『夜想曲第6番』『華麗なる大円舞曲』『ロンド変ホ長調』など、後世に残る名作を次々と作曲する。ショパンは音楽に携わる限り、祖国ポーランドへの愛国感情を忘れることなく、ポーランドの伝統民族舞曲であるマズルカやポロネーズを取り上げ、数多くの作品を生涯にわたって作り続け、ウィーンおよびパリでこれらを披露した。
主にアメリカで活躍した本盤のソリスト、ジーナ・バッカウアー(Gina Bachauer)は、「栄光のギリシャ人」と呼ばれたり、「ギリシャの女神を思わせるような毅然さ」と言われたが、1913年5月21日、生まれはアテネで、当地で勉強したものの、両親はオーストリア人とイタリア人で、ギリシャの血は入っていない。つまり彼女はギリシャとは無縁で、母親のラテン的な素養を受け継いで、それが演奏に出ているのだろうか。その成長の過程に目を転じると、パリ音楽院でアルフレッド・コルトーに学び、1932年からはセルゲイ・ラフマニノフのもとで研鑚を積む。同時代の全く正反対の性格ながら、ともに19世紀のロマンティシズムを引き継いでいた2大ピアニストに学んだことになる。アメリカのマーキュリー・レーベルに録音したストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」での個性的で攻撃的な演奏は、ラフマニノフのダイナミックなピアニズムの影響を強く感じさせる。だが、一方で、ラヴェルの「夜のガスパール」や、ドビュッシーの「ピアノのために」「沈める寺」「デルフォイの舞姫」での硬質な音の中から生まれた一瞬の静寂と、漂う詩情や微妙なフレージングには、コルトーの影もある。バッカウアーの演奏は、2人の師の特徴をうまく受け継いだ表現の豊かさがある。1933年、ウィーン国際コンクールで優勝し、演奏活動を開始。1935年にディミトリ・ミトロプーロス指揮のアテネ交響楽団と共演し、故国で大成功を収める。しかし、ナチス・ドイツのギリシャ侵攻により、順風満帆の道は足踏みを強いられた。エジプトに逃れた彼女は、連合軍兵士のための慰問演奏活動に献身的に打ち込み、その数は実に600回を越した。第2次世界大戦後、ようやく本格的な演奏活動を再会し、1947年にロンドン、1950年にニューヨークのカーネギー・ホールで、それぞれデビューを果たした。ショパン、ブラームスを初めとするロマン派の作品を得意とし、そのダイナミックでスケールの大きな演奏は、各国で高く評価された。1976年8月22日、生地にて没。アメリカ、ユタ州のソルトレイク・シティで行なわれるジーナ・バッカウアー国際ピアノ・コンクールに、今もその名を残している。このコンクールは、彼女の没年である1976年から5年間、ブリガムヤング大学の夏のピアノ音楽祭として行われたのが始まりです。現在は、バッカウアー財団の主催で4年ごとに開催されており、19歳から32歳までのピアニスト部門の他、若年者層向けのジュニアコンクールなども開催されています。演奏者を複数回の演奏で評価するこの審査方法は、同コンクールが初めて実施し、後に多くのコンクールで採用されるようになった画期的なシステムです。また、ファイナルの協奏曲以外はプログラムが自由ですので、プログラムを選択する能力も上位入賞への大きな鍵となります。優れたピアニストとしての能力はもちろん、曲の個性や背景を深く理解できる、音楽家としての真価が問われます。聴衆賞なども用意されているので、惜しくも優勝を逃した方にも大きなチャンスが舞い込む可能性が十分あり、同コンクールでの成功は、アメリカデビューへの大きな足がかりとなることでしょう。
快活で豪快な気風に富む演奏で楽しませてくれるアンタル・ドラティ(Antal Dorati)は1906年4月9日、ハンガリーのブダペスト生まれの指揮者。1988年11月13日、スイスのベルンにて没。生地のフランツ・リスト音楽院でコダーイに師事した。彼が「コダーイの思い出」に書いているようにこの音楽院で38歳のコダーイは14歳のドラティをクラスの担当として4年間の教えた。多感な時期での畏敬と友情は生涯続いた。1924年に指揮デビュー。ブダペストやドレスデンの国立歌劇場の指揮者を務めていたが、1935年、ナチスに追われイギリスに渡る。1945年ダラス交響楽団、1949年ミネアポリス交響楽団などの常任指揮者を歴任。その後も欧米の主要なオーケストラに多数客演した。オーケストラを育成する手腕は最高といわれ、ダラス交響楽団、ミネアポリス交響楽団、ナショナル交響楽団、デトロイト交響楽団などを世界一流のオーケストラに育て上げたことは有名です。ドラティのDECCA録音といえば、ハイドンの交響曲全集があまりにも有名ですが、ハイドンからチャイコフスキーまで、広いレパートリーの中でもバレエ音楽が出色なのは「外盤A級セレクション」で知られる長岡鉄男氏が、「自然光で照明したような影があり、表情たっぷりゆったりとして、厚みと奥行きを感じさせる。いささかホコリは舞っているが、空気を感じさせる演奏だ。やや太めだが、馬力はあるほう。」と評価している。ドラティの作り出す音楽は、飾り気がなく無骨で筋肉質に引き締まった印象があり、特にそのリズム感は素晴らしく、聴くものを興奮させる力強さに溢れています。なかでもストラヴィンスキーの「春の祭典」は、20世紀最高の快演でしょう。
屈指の「オーケストラ・ビルダー」として知られたアンタル・ドラティは、どんなオーケストラが相手でも、楽員の実力を着実に引き出し、アンサンブルを的確に仕上げる見事な手腕の持ち主でした。ドラティは作曲と指揮、チェロ、ピアノを勉強し、まず1924年から1933年までの9年間は、地元ブダペストのハンガリー国立歌劇場のコレペティトアからスタートしてドイツのミュンスター歌劇場の第1楽長までキャリア・アップ、ナチ政権樹立までの4年間をドイツのオペラ指揮者として過ごしています。その後、ニューヨークのオペラ団体「ニュー・オペラ・カンパニー」の音楽監督に就任。臨機応変な能力の求められるバレエ団の指揮者・編曲者として成功した結果、英HMVにさまざまなバレエ音楽をレコーディングできることとなり、その後、コンサート・オーケストラの音楽監督や客演指揮などに本格的に進出することとなります。このようなキャリアの流れは、実際の演奏時のトラブルへの対応力、財政面まで含む運営問題の解決力、レコード会社との交渉力などの向上にも結び付き、さらに数多くの客演や臨時編成アンサンブルとの付き合いによって育まれた強力な指導力によって、「オーケストラ・ビルダー」とも称えられる独自の個性を獲得することに繋がって行きます。そういう時期にあった、1937年から1967年にかけての録音では、ドラティが巨匠風スタイルに落ち着く前の、エネルギッシュで推進力に富む演奏を楽しむことができます。オーケストラの運営方法や助成金を巡るトラブルで、1954年にヨーゼフ・クリップスが首席指揮者を辞任した後、1961年にピエール・モントゥーが首席指揮者に就任するまでの6年間、ロンドン交響楽団の指揮は客演でまかなわれており、ドラティは1956、57、1959〜1965年に登場してマーキュリーへのレコーディングを指揮しており、クリップスのもとで良い状態になっていたロンドン響の精度をさらに向上させて、仕上げのかっちりとした演奏を聴かせていました。本盤には、ナチスのギリシャ侵攻により、順風満帆の道は足踏みを強いられエジプトに逃れ、連合軍兵士のための慰問演奏活動に献身的に打ち込んだジーナ・バッカウアーと、ナチスに追われイギリスに渡ったマーキュリー・レーベルの看板指揮者、ドラティのリズムの良い切れのある演奏により、類のないショパンの本質を感じさせてくれます。独奏ピアノ、オーケストラともに太い硬質な音色を聴かせます。この演奏には病弱であったショパンのイメージは一切ない。しかしながら、それでいてバッカウアーの独奏には女性らしい細やかな色気が、フレーズのそこかしこにサラリと香り立ち、高貴な印象を与えます。またドラティ率いるロンドン響も、この作品のオーケストレーションの弱さを感じさせない磐石の構えで、独奏ピアノを支えます。私はこういう硬派なショパンが好きです。
昔から鮮烈なサウンドで知られていたマーキュリー・レーベルは、音だけでなく、演奏の方も勢いの良いものが揃っているのが特徴。1945年にアーヴィン・グリーン、バール・アダムス、アーサー・タルマッジによって設立されたマーキュリー・レーベルは、モノラル後期に活動を開始し、独特なマイク・セッティングにより、素晴らしい音響を作り出し、ステレオ初期を中心とした20年ほどのあいだに数多くの素晴らしいディスクを世に送り出しました。ラファエル・クーベリックやアンタル・ドラティ、ポール・パレー、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ、ヤーノシュ・シュタルケル、ヘンリク・シェリングといった有名アーティストたちも、ここでは誰もがシャープで活気に満ちた演奏をおこなっています。しかも、オーディオ好きの間でも有名なマーキュリーのサウンドは、ステレオ初期に制作されたものが大半ながら、どれも音響条件は申し分なく、細部まで捉えきった情報量の多さは、当時ずば抜けたものと評されていました。実際、通常の楽音だけでなく、バスドラの重低音や、カノン砲の射撃音、大量の鐘の音といった難物も高水準に再現するあたりは、このレーベルの実力を改めて確認させてくれるところです。〝You are there〟 を謳い文句に、音が生まれるその場にいるような臨場感を再現するマーキュリー独自の録音方法によって収録された名盤の数々は、現在聴き直しても実に新鮮ですし、戦後まもなくの活気に満ちた演奏スタイルを味わえる点で、その存在感には非常に大きなものがあります。
ショパン:ピアノ協奏曲第1番&第2番
バッカウアー(ジーナ)
ユニバーサル ミュージック クラシック
2003-04-23

1963年7月録音。
US MER SR90368 バッカウアー ショパン・ピアノ協奏曲1番
US MER SR90368 バッカウアー ショパン・ピアノ協奏曲1番