34-19769

商品番号 34-19769

通販レコード→米オレンジ黒文字盤

20世紀最高のディーヴァ、マリア・カラス稀代の名演として名高い ― ケルビーニの歌劇「メディア」は、1797年にパリで初演されたあと特にドイツで好んで上演され、ブラームスらが激賞しました。20世紀になってからは忘却の彼方に沈んでいましたが、それを復活蘇演させたのがマリア・カラスで、1953年のフィレンツェ五月音楽祭での上演はセンセーションを巻き起こしました。その後このメディア役はカラスにとっての代表的なレパートリーとなり、彼女にとって最後のスカラ座時出演となった1962年まで31回も取り上げています。注目すべきは、カラスのメイン・レーベルだったEMIがまだモノラル収録に拘ってレコーディングを行っていた時期に、ステレオ録音されているという点。しかも手掛けたのは、伝説のマーキュリー・レーベルの名コンビ、ウィルマ・コザート(プロデューサー)とロバート・ファイン(エンジニア)で、「リビング・プレゼンス」のオーディオファイルのシリーズで知られる名録音を生み出した機材をミラノ・スカラ座に持ち込んで収録されました。スカラ座の舞台で収録されたため残響感や広がりは少ないですが、細部まで明晰な再生音はマーキュリーならではといえるでしょう。オーディオ評論家の故・長岡鉄男氏が激賞したことでオーディオファンにも高音質で知られるようになった、伝説のエヴェレスト(Everest)レーベルは、ステレオ最初期の1950年代後半、映画と同じ35mm磁気テープを使った高音質の録音で世界のオーディオファンの支持を獲得している。本盤も、1950年代後半の録音ながら音は鮮明で、不世出の歌唱を鑑賞するのに何ら不足はない1枚です。若き日のレナータ・スコット、スカラ座で活躍した名テノール、ミルト・ピッキら適材適所の歌手陣を起用し、イタリアの名匠トゥリオ・セラフィンが全曲をドラマティックにまとめているのが印象的です。1957年9月にスカラ座におけるセッションでステレオ収録された、歌劇「メディア」初の全曲盤であるのみならず、チェトラ原盤の「ラ・ジョコンダ」や「椿姫」と同様、カラスがEMI以外のレーベルに正規録音した例外的な演奏です。オペラを特集した記事、音楽業界でカラスがディーヴァと大切にされるのは、オペラをアイドルに導いたエンタテイメントの面と、幾つものオペラの蘇演というアカデミックの面での、両輪で貢献していることによるのです。ギリシア神話に登場する王女メディアは、愛と復讐のためにわが子さえをも手にかけてしまうという猛女で、その性格付けは大変に難しく、カラス以前にこの役を完璧に歌える歌手はいませんでした。カラスは全身全霊を以て、この究極の女性を歌いあげてセラフィン指揮でスカラ座の上演は称賛を浴び、この成功によりピエル・パオロ・パゾリーニ監督は映画「王女メディア」(1969年公開)にカラスを役に起用して話題を呼んだ。
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でも、マリア・カラスによるオペラ「メディア」の魅力を知るものの外、ケルビーニの音楽を聴く人はどれくらいいるのでしょうか。ロッシーニのフランス進出後にオペラ界での名声が凋落したため、今日さほど著名ではないものの、同時代の人々には高く評価され、ベートーヴェンはケルビーニを、当時の最もすぐれたオペラ作曲家と見なした。ベートーヴェンは『荘厳ミサ曲』の草稿を10歳年上の作曲家ケルビーニに捧げ、「この曲で何か気づいた点があったら言って頂きたい」と指導を求めている。一方、ベルリオーズはケルビーニを「かの高名な老いぼれ」とこき下ろした。これには国立音楽院の図書館が一般公開されていることを知ったベルリオーズは、楽譜の研究で入り浸った。だが、規則を破って音楽院の女生徒用の門から入ったことで音楽院長ケルビーニの逆鱗に触れ、図書館への出入り禁止にされた背景にある。またケルビーニが執筆した対位法の教本『対位法とフーガ講座』は、1835年の初版以降、英訳、独訳を通じて、19世紀全般における最も良く知られた対位法・フーガ教本で、パリ音楽院の公式教科書として採用され、各国の音楽専門教育の基準となったのみならず、ショパンやシューマン夫妻も用いたほどであった。結局はナポレオン戦争などの事情でシャルル10世が退位に追い込まれた後、エステルハージ侯爵に召抱えられることは無かったのですが、彼が当時のパリ音楽院院長であったことが知られるくらいで、錚々たる音楽家からの尊敬を勝ち得た人物であることを想像するのは難しいかもしれません。しかしケルビーニはベートーヴェンとそれに続く時代のあいだ ―ドビュッシーやラヴェルでさえ例外ではありません。― に生きた、音楽の覇者です。今日、ケルビーニは《メディア》他のオペラ作曲家として知られるが、同時に《ミサ曲》や《レクイエム》の宗教音楽のジャンルでも著名な作曲家であった。20世紀以来、「対位法・フーガ」 は、どちらかというと創作原理・形式というよりも、作曲書法の訓練としての位置付けが強くなる。しかしながら19世紀全般においてこれらの技法は、明らかに ― 教会、劇場のどちらで演奏されるにせよ ― 宗教音楽を作曲するための具体的な技術であり、またパリ音楽院ではオペラのアンサンブルや合唱を作曲するための重要な音楽書法として位置付けられていた。趣味のいい旋律と和声をもつアリアを創作するための「和声法」と並んで、「対位法・フーガ」は理論的というより、あくまで両分野の創作における実用的修錬だったのである。グノーやサン=サーンスといったパリで活躍した作曲家たちが、オペラ作曲家であると同時に、著名な教会音楽作曲家であったのは当然のことといえよう。
波瀾万丈な歴史的歌姫マリア・カラス。肥満児だった少女時代、母親に励まされ、ラジオのアマチュア・コンテストで幾つも賞を取り、音楽界での栄光を夢みながら、その賞金をオペラの台本や歌のレッスンにまわしていた。カラスの生涯は、みにくいあひるの子が白鳥となり、歌に生き愛に生きたと言えるのではないでしょうか。オードリー・ヘプバーンのようなポートレイトで、スタイルの良い美貌のディーヴァとしてカラスを記憶している方には驚きでしょう。彼女の母親は自分に達成できなかったことを娘に託し、美声は脂肪をつけないと育たないという俗説に従い、娘の声に栄養を与えるためにケーキや砂糖菓子など甘いものをなんでも与えた。デビュー当時は、一般的なオペラ歌手のイメージと同じく巨体のまま卓越したテクニックを生かし華々しく活躍したカラスでしたが、ヴィスコンティの助言を受けて猛烈なダイエットを開始。1953年から54年にかけて体重を30㎏も減らしスリムなスタイルを手に入れたが、それと引き換えにしたものは大きい。過度なダイエットや数々のスキャンダルにより疲労困憊、歌手活動のほうに支障がでてしまい、華々しいキャリアはわずか10年足らずで終わってしまった。艶のある美声を失った彼女は、激情的な歌唱に転進。カラスを聴く時は、そのどちらもの時代を楽しめるのですが短いキャリアは音質的に恵まれず、鮮烈的な歌唱はモノラル録音で聴くしか無い。オペラのためには全てを犠牲にしたカラスは性格の強さもあって絶えず人間関係でトラブルが多く、生前のカラスはオペラ界での輝かしい経歴と裏腹にキャンセル魔、傲慢、スキャンダルの女王、とマスコミをはじめ音楽評論家、心ないファンから批判され続けました。しかし、カラスほど真摯に音楽=オペラと向き合って生きた歌手は他に知らない。メトロポリタン歌劇場の辣腕支配人は舞台で歌わない時のカラスの凄さを賞賛しています。事前の周到な準備と舞台への集中度は余人の追従を許さないものがありました。カラスにとっては舞台が全てでした。優れた才能の存在があっても、現代は雑念が周りに多すぎるためとも言い得る。彼女はクラシックの世界に生きた人だが、その記憶のされかたはポップ・スターに近いところがある。クラシック通以外にも名前を知られ広く聴かれた点では、ポピュラーな歌手だったのだ。自身の才能を誇り、正直に演じるということに徹底した。そうした彼女の生身の人間ドラマとして聴く者の心に迫る表現力は、レコードを通してカラス没後も多くの人に伝わり新たなファンを獲得している理由なのではないか。カラスは豊かな美声に恵まれた幸せな歌手と言うよりも、まず演じることの天才であったらしい。カラスによって演じられるヒロインは、現実の生きる人間として存在する。名匠セラフィンの指揮の下、本盤など正に、カラスの変幻自在な表現は他の追随を許さないと思えるほどだ。コロラトゥーラ向きではないカラスの声だが、圧倒的な表現力とテクニックでこなしていくカラス絶頂期の録音。
映画「王女メディア(Medea)」は、「アポロンの地獄」でギリシャ神話の世界に独自の大胆な息吹を吹き込んだピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini)が、再びギリシャ神話にとりくみ、エウリピデスのギリシャ悲劇を下敷きに、それにアルゴートの伝説を組み合わせてメディアの夫たるイアソンの前史として加えて ― エウリピデスの原作は、夫に裏切られたメディアが夫に復讐する話である。その復讐というのも、夫が心を奪われた若い女を呪い殺すばかりか、夫との間に生まれた二人の子まで殺すという陰惨な行為だった。そこにエウリピデスは、人間の運命の過酷さを読み込んだわけだが ― 、宿命の女性像を造形した。山深い湖の畔で、半人半馬の賢者ケンタウロスに育てられたイアソンはいまやギリシャ有数の英雄となっていた。ギリシャのイオルコスの王であった父親が、異父弟ペリアスに殺されたと聞いていた。育て親ケンタウロスは、イアソンにイオルコスに行き王位返還を要求するようにすすめる。逞しく成長した甥を見たペリアスは、イアソンの主張をうけ入れたが、その条件としてそれを保持する国に繁栄を約束するという金毛羊皮を手に入れてくることを要求した。この金毛羊皮は今、コルキスの王アイエーテスのところにあると教わる。そこで、イアソンは仲間たちと目的地コルキスに上陸。この遠征には、ヘラクレスやテーセウスを初め、ギリシャ神話の名だたる英雄たちが加わっていた。それだけで一大叙事詩となるギリシャ神話中もっとも名高いアルゴノートの伝説である。さっそく、金毛羊皮の探索を始め神殿に潜入したイアソンだったが、そこで一心に祈りを捧げる国王の娘メディアに遭遇した。それは宿命の出会いであった。イアソンの姿を一目見て失神したメディアは、そのときから、狂熱の愛に囚われてしまった。その夜、愛のため弟までも殺した彼女の助けを借り、イアソンは金毛羊皮を盗みだし、彼女をつれてペリアスのもとへ戻った。
ところが、約束を反古にした叔父の国を去って、それから十年の歳月が流れた。イアソンは今、コリントス王国に居を終え、メディアと彼女との間に生れた二人の子供とともに、暮していた。イアソンのため故国を捨て、肉親までも殺したメディアにとっては、夫イアソンへの愛が、生きるすべてであった。しかし、コリントス王クレオンに見込まれ、娘グラウケーの夫として白羽の矢を立てられると、グラウケーの美しさに目が眩んだイアソンはメディアを蔑ろにし始めた。傷心のメディアに王クレオンは、子供と共に国外追放という追い打ちをかけた。自分の愛が裏切られたメディアは、激しい憎悪の中で、王クレオンとグラウケーに呪いをかける。巫子であったメディアの呪いは、ついに王と娘を死に追いやった。それを知ったイアソンは不吉な予感にとらわれ、メディアのもとへ駆けつけた。がその時には、すでに彼女は最後の復讐を成し遂げていた。夫のイアソンも許せないと思うのだが、愛する夫ばかりはどうしても呪い殺せないメディア。そこで、最愛の二人の児を刺殺し、我が家に火を放ったのである。愕然と凝視するイアソンに、燃えさかる炎の中でメディアは二人の子をかかえ、最後の怨念の一べつをイアソンに投げつけた。宿命の愛は、凄惨な炎の中で終りを告げてしまった。王女メディアをマリア・カラスが演じている。カラスはオペラ史上最高のソプラノ歌手と言われた人だが、この映画の中では歌わない。愛の恍惚感に耽っているときと、夫に裏切られた怒りに引き裂かれているときに言葉を発するだけなのだが、表情は非常に豊かだ。しかも妖艶といってよいほど、怪しい美しさが感じられる。彼女はギリシャ系の顔立ちだと言うが、彫りが深く、目が大きく、口元が引き締まっている。あたかもミロのヴィーナスに命を吹き込んで生まれてきたかのようだ。ボディ・ラインも優雅である。
マリア・カラス(Maria Callas)は1923年12月2日、ニューヨーク生まれのソプラノ歌手。1977年9月16日、パリにて没。13歳で故国ギリシャに帰りアテネ音楽院で名歌手、エルビラ・デ・ヒダルゴに師事。1938年にオペラ・デビューし、1947年、ヴェローナ音楽祭でのジョコンダ役で一躍注目を浴びる。1950年のスカラ座デビューから約10年間が全盛時代。ワーグナーのドラマティックな役と、ベル・カント・オペラの両方の分野で成功を収め、不世出のソプラノ歌手として名を残した。42歳だった1965年にオペラの舞台から退いたが、1969年に音楽もピエル・パオロ・パゾリーニ監督が担当した映画『王女メディア』に主演したほか、舞台演出、音楽院の講師を務め、1973~74年に世界各地でフェアウェル・コンサート・ツアーを行った。オペラ歌手としての充実した活動期間は短く、1951年からの7年間が全盛期、歌声に波があった1960年代まで含めても10数年にすぎなかった。早すぎる衰えは若い頃に難曲で喉を酷使したため、あるいはダイエットのせいとも不摂生のせいともいわれる。全盛期のモノラル録音と比べスタジオでセッションされたステレオ録音の歌唱には年齢的に最盛期とは、もはや言えないし声の変化はいかんともしがたいものがありますが、それを超越した表情づけのこまやかさ、心理描写の絶妙さは、精妙な構成力が際立った歌唱になっていきます。ドラマに対する類まれな冴えた感覚と、それに完璧に連動する歌唱力を持ち合わせていた稀代の名歌手マリア・カラスは、1953年の『ドン・ジョヴァンニ』からのマイク・テストから、レッシーニョとの1960年台の録音まで、キャリアのほとんどの期間でEMI専属の歌手としてジョルジュ・プレートル、トゥリオ・セラフィン、ガブリエーレ・サンティーニ、ヴィクトール・デ・サーバタ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、アントニーノ・ヴォットー、ニコラ・レッシーニョ、アルチェオ・ガリエラらとレコーディングを行っていました。カラスの歌手生活に大きな影響を与えるセラフィンは、聴き応えあるレコードを残す上にも非常に重要な人物になりました。
舞台ではいつも新しいものを求めなくてはなりません。その方がよりリアルです。私はいつも同じようには動かないので、二つと同じ舞台はありません。署名と同じで、二つと同じものはないのですが、それはいつも「マリア・カラス」なのです。
餅は餅屋で … というわけで、イタリアには「イタリア・オペラしか指揮しない指揮者」が大勢存在する。イタリア・オペラの泣かせるメロディをイタリア人指揮者が流麗華麗に歌わせる。その歴代最高の指揮者がトゥリオ・セラフィン(Tullio Serafin)である。1878年9月1日、ヴェネツィア近郊のロッタノーヴァ生まれの指揮者。1968年2月2日、ローマで没。ミラノ音楽院を卒業後、スカラ座のヴィオラ奏者を務める。1898年、フェラーラのテアトロ・コムナーレで指揮者としてデビュー、1909年にはミラノ・スカラ座の首席指揮者、音楽監督に就任する。1924年からメトロポリタン歌劇場で10年間は活躍したが、1934年からは再びイタリアに戻ってローマ歌劇場の音楽監督を務める。20世紀最高のイタリア・オペラ指揮者として広く認められており、多くの名歌手を育てることにも優れた手腕を発揮した。セラフィンの棒による演奏はイタリアの風土、イタリア人の体臭が匂い立つ。「ヴァイオリンがすすり泣く」とは、このことかと誰もが、そのドラマ性あふれる演奏に驚嘆し、一瞬の「間」に息を呑む。そして「ただの美しさ」とは異なる、身もだえするような美しさの虜になるに違いない。一度ヴェルディのオペラ『椿姫』の前奏曲(第1幕・第3幕)を指揮した彼の録音を聴いてほしい。一瞬たりとも音楽が弛緩することなく、歌手たちの歌も丁寧に引き立てていきます。イタリアにおいて初めてマリア・カラスの才能を認めた人物でした。こんにちの指揮者には、ほとんど見ることの出来ない態度ですがセラフィンは、指揮台の上の大スターではありませんでしたがオペラの各役柄の演奏についてじっくり熟考し、時間をかけてそれを円熟させていくことが出来たひとりでした。声の何たるかを知り、声がどう使われるべきかを知り演奏に関するさまざまなアイデアをもち、歌手が彼のもとへ楽譜をもっていくと、より豊かになって帰ってこられるような指揮者であり、カラスにとって芸術上の師であった。セラフィンは指揮者となる前、スカラ座管弦楽団のヴァイオリン奏者だった。声楽家ではない。にもかかわらず、人間の声というものを熟知し、1人1人の歌手について、どのようにトレーニングし、どのような曲をレパートリーにし、どのように歌うのがいいかということを見極めることが出来た。30歳前後でオペラ指揮者アントニオ・ヴォットーからトレーニングを受け、「椿姫」を録音したレナータ・スコットが「1950年代と60年代には、ヴォットーのほかにも、セラフィンを筆頭にグイ、ガヴァゼーニなどの偉大なオペラ指揮者がいて、その誰もがまるで〈父のよう〉に歌手を愛し、歌手が傷つかないように護ってくれました。彼らは歌手に間違った役柄を押し付けるどころか、けっして歌わせず、適正な役柄さえ、あまり早いうちには歌わせなかったものです。そして私たちに指導してくれる時にはテンポだの、『私についてくるように』ではなく、表現や言葉の意味について教えてくれたものです。」と回想している。
マリア・カラス(ソプラノ:メディア)、レナータ・スコット(ソプラノ:グラウチェ)、ミルト・ピッキ(テノール:ジャゾーネ)、ミリアム・ピラッツィーニ(ソプラノ:ネリス)、ジュゼッペ・モデスティ(バス:クレオンテ)、リディア・マリンピエトリ(ソプラノ:第1の侍女)、エルヴィラ・ガラッシ(ソプラノ:第2の侍女)、アルフレード・ジャコモッティ(バリトン:衛兵隊長)、ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(合唱指揮:ノルベルト・モーラ)、トゥリオ・セラフィン(指揮)。1957年9月11~19日イタリア、ミラノ・スカラ座でのステレオ・セッション録音。
US EVEREST SDBR3259 マリア・カラス ケルビーニ・…
US EVEREST SDBR3259 マリア・カラス ケルビーニ・…
マリア・カラス  ケルビーニ:「メディア」ハイライト
トゥリオ・セラフィン
nihon Westminster( C)(M)
2012-04-25