34-20628

商品番号 34-20628

通販レコード→米ブルー・レーベル銀文字盤

『ドイツ・レクィエム』の世界初全曲録音。ソリスト、合唱、オーケストラと当時の理想のキャスティングで実現した名録音。 ― 終戦後まもなく、いまだアメリカ、イギリス、フランス、そしてソ連の分割支配化のドイツ、オーストリアにあって、《ドイツ・レクイエム》には演奏者、聴衆ともに言い知れぬ特別の思い入れがあったであろう。ソリスト2人が素晴らしい。ソプラノのエリーザベト・シュヴァルツコップはオットー・クレンペラー盤でも歌っているが、こちらの方が若き迫真力に富む。バスのハンス・ホッターの深い声もじわりと胸に染み渡る。いささかドライブ気味の感もあるが、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の全力での臨場もあり鮮烈な印象。ヘルベルト・フォン・カラヤンの音楽への並大抵でない没入と奉仕に圧倒される歴史的な記録以上の内容を孕んでいる。指揮者の熱い才能を想わせる、リアルな慈愛と、そして未来への希望ともいうべき復興の祈りのこもった、厳しくもあり、そして優しく安らかな鎮魂曲を聴くことは滅多にないだろう。世界一美しいメロディーをもつ、世界一美しい曲の1つ。この曲の歌詞は、通常のラテン語のレクイエムとは全く異なり、ブラームスが聖書から抜き出したドイツ語の句による「あるドイツ語によるレクイエム(Ein Deutsches Requiem)」である。ずっと昔は「ドイツ鎮魂曲」という厳しい訳だった。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏は、その通りであるが、これが《ドイツ・レクイエム》となると、ややスマートさが出てきてカラヤンのような美しい演奏にこそ、相応しい。カラヤンも数種の録音を行なっており、1964年、同曲ではカラヤン2回目のステレオでは初となるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団での録音は、最もドイツ的な《ドイツ・レクイエム》になっており、まだフルトベングラー時代の「硬さ」「重さ」「渋さ」が濃厚に残った響きをしています。この曲に求めるものは趣味次第ですが、カラヤンらしさを求めるのであれば、本盤。カラヤンの徹底した美学は、曲によっては違和感を生じるものもあるが、この曲に関しては正に適合していて、唯一無二の透徹した天国的な美しさと荘厳さに溢れている。最終曲の美しさときたら、それまでの地上的な私たちを捉え困惑させるもの全てから解放されます。合唱における永遠を思わせる息の長いフレーズと囁くような優しい音楽に、人々の安息を願う作曲者と、命を懸けて再現する指揮者の心がまるで同期するような錯覚を覚える。管弦楽の引き摺るような旋律の情熱的歌わせ方に、若きカラヤンの音楽に対する意気込みと深い想いを垣間見る。ここまで音を慈しむように、一音一音にニュアンスを込めた演奏は、他に知らない。戦後、公開活動を禁止されていたカラヤンは、英EMIのプロデューサー・ウォルター・レッグに見いだされ、「録音は公開活動ではない」ということで彼のオーケストラで1946年9月からかなりの数の録音を行った。はれて1947年秋に演奏会活動が許可された、最初の演奏会は10月25、26日のブルックナー・交響曲第8番だった。本盤はそれをうけての大曲録音の第1弾で、この直後の11月には、このメンバーにエリーザベト・ヘンゲン(アルト)、ユリウス・パツァーク(テノール)でベートーヴェンの「第9」を録音している。
ブラームスは1853年にシューマンによって世間に紹介された後、1857〜1860年にデトモルトで合唱指揮者、1859〜1862年には故郷ハンブルクで女声合唱団の合唱指揮者、1863、64年にはウィーン・ジンクアカデミー合唱指揮者をつとめるといった、実践的な知識を習得した。ブラームスが管弦楽作品を書かなくなって、最晩年に書き続けたのが、合唱曲なのが納得できる。最終的にはピアノ協奏曲第1番の土台となる、ピアノ曲はあったが、シューマン没後5周年の1861年に書き始めて、全7曲で、1868年のクリスマスにデッサウにおいて初演を行なった「ドイツ・レクイエム」が、ブラームスのが作曲家としてのスタートと観ていいと、わたしは考えている。その初演は、アドルフ・シューブリング指揮、ピアノ伴奏での12名の合唱という形で行われた。フルオーケストラ伴奏での初演は、1869年2月18日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス第18回予約演奏会にて、カール・ライネッケ指揮で行われた。当時は、大規模合唱によるオラトリオが流行していた時代であった。1882年にブラームスがハンブルクで「ドイツ・レクイエム」を演奏した際には225名の合唱と76名のオーケストラだった。
英EMIはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で録音したモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」と「魔笛」の成果を認めて、1951年6月からウォルター・レッグのフィルハーモニア管弦楽団でヘルベルト・フォン・カラヤンのレコード制作に乗り出す。そうして発売したのは、ワルター・ギーゼキングとのグリーグ・ピアノ協奏曲、フランク・交響的変奏曲が最初だった。続くベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲録音から、ベートーヴェンの交響曲第7番のレコーディングに移っているから、交響曲全集録音の目論見は既にあったと推察できる。ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番、「コリオラン」序曲を挟んで、交響曲第6番「田園」となるから、交響曲との組み合わせを工夫したのだろうか、その頃はまだ、現在でも利益を支えるカラヤンになると予測できなかっただろうから、人気歌手エリーザベト・シュヴァルツコップの歌声を交響曲第5番「運命」と組み合わせている。ただし、ここに纏わるミステリーは後述するとして、英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、レッグが目指したのは、未来の演奏会やアーティストを評価するときに基準となるようなレコードを作ること、彼の時代の最上の演奏を数多く後世に残すことであったという。レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンの為にレッグ自ら1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供し、レコード録音で大きな成功を収めたが、これに先立つこと1947年1月ウィーンでレッグとカラヤンが偶然出会い意気投合したことで、早速9月よりウィーン・フィルとレコーディングを開始する。こうしてレコード録音で評価を広めるレッグ&カラヤン連合軍の快進撃の第一幕が開いた。英米の本当の連合軍もレッグのロビー活動により、カラヤンに公的な指揮活動が許されたのと前後している。この快進撃の第一幕が、「フィガロの結婚」でした。このウィーン・フィルとのレコーディングは、1946年から1949年まで集中的に行われている。しかし、この時期のカラヤンとウィーン・フィルの演奏が評価の高いシロモノであったことが、その後カラヤンにとっての天敵ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが亡くなった後にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン・フィルがカラヤンを迎え、帝王として君臨することになる礎となったことは事実である。まさに、カラヤン芸術の原点として評価すべき時代の録音と云えるだろう。シュヴァルツコップとのモーツァルト・歌劇「フィガロの結婚」は初期のステレオ録音より歌手の声がハッキリ聞こえる、より生々しい歌声に感じる円熟のモノラル録音と若きカラヤンの熱気と勢いありあまる演奏は文句なく素晴らしい。ハーモニーのバランスの良さと音の輪郭の美しさは流石カラヤンである。曲の構成が良く理解できる演奏で、力みは全くない。レッグと契約したばかりの40歳代後半のカラヤンの指揮は晩年のイメージとは全く異なる、若々しさを感じることが出来る演奏です。ストレートな表現ですが、大きなウネリみたいなものもあり、早めのテンポで前進していく意志の強い指揮だ。
21世紀に入り惜しまれつつ亡くなったエリーザベト・シュヴァルツコップは、様々な役柄において持ち前の名唱を余すことなく披露した。シュヴァルツコップは戦中にカール・ベームに認められてウィーン歌劇場でデビューを飾っているが、彼女の本格的な活動は戦後、大物プロデューサーのウォルター・レッグに見いだされ、その重要なパートナーとして数多くの録音に参加したことによる。そのレパートリーの多くはレッグが決定していたそうで、そのようなことを彼女自身が語ってもいる。シュヴァルツコップは大プロデューサーであったレッグの音楽的理想を体現した歌手の一人であったと思う。その絶頂期に残した素晴らしい完成度を誇るモーツァルト。最も得意としていたのは、その声質からしてもモーツァルトの楽曲であったと言えるのではないだろうか。オペラの録音というのは完璧なものなんて滅多にないもので、どこかに穴があるものだが、1962年に録音された歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」は指揮のベームをはじめてとして全てにわたって完璧である。フィオルディリージを歌うシュヴァルツコップの美しさ。こんな女性が相手なら、私は喜んで欺されてあげたくなる。1950年に録音されたヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団での歌劇「フィガロの結婚」などにおいても素晴らしい歌唱を披露しており、シュヴァルツコップとモーツァルトの楽曲の抜群の相性の良さを感じることが可能だ。決して綺麗な声で歌われているとは言えないのだが、どの曲もその濃厚な表情が美しい。愛らしくもあり格調高さを保つことを忘れない、この大歌手ならではの自在なものです。ベートーヴェンの歌劇『フィデリオ』よりレチタティーヴォとアリア「人間の屑!何をしているつもり?」と同日のセッションで、ベートーヴェンの演奏会用アリア「おお、不実なる者よ!」を録音しているが、カラヤンの伝記によると、この日はベルリンで行われたヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の最後の演奏会に立ち会ったことになっている。当日午後のロンドン~ベルリン間の移動が可能だったのだろうか。フルトヴェングラーとレッグの決裂が背景にあるだけにミステリーとして残る。この後、ウィーンのムジークフェラインザールでのベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」、そしてリヒャルト・シュトラウスの楽劇「薔薇の騎士」に至る。
エリーザベト・シュヴァルツコップ(Olga Maria Elisabeth Frederike Schwarzkopf)は1915年12月9日、ドイツ人の両親のもとプロイセン(現ポーランド)のヤロチン(Jarotschin, 現Jarocin)に生まれたドイツのソプラノ歌手。ベルリン音楽大学で学び始めた当初はコントラルトでしたが、のちに名教師として知られたマリア・イヴォーギュンに師事、ソプラノに転向します。1938年、ベルリンでワーグナーの舞台神聖祝典劇『パルジファル』で魔法城の花園の乙女のひとりを歌ってデビュー。1943年にウィーン国立歌劇場と契約し、コロラトゥーラ・ソプラノとして活動を始めます。第2次世界大戦後、のちに夫となる英コロムビア・レコードのプロデューサー、ウォルター・レッグと出会います。レッグはロッシーニの歌劇『セビリャの理髪師』のロジーナ役を歌うシュヴァルツコップを聴いて即座にレコーディング契約を申し出ますが、シュヴァルツコップはきちんとしたオーディションを求めたといいます。この要求に、レッグはヴォルフの歌曲『誰がお前を呼んだのか』(Wer rief dich denn)を様々な表情で繰り返し歌わせるというオーディションを一時間以上にもわたって行います。居合わせたヘルベルト・フォン・カラヤンが「あなたは余りにもサディスティックだ」とレッグに意見するほどでしたが、シュヴァルツコップは見事に応え、EMIとの専属録音契約を交わしました。以来、レッグはシュヴァルツコップのマネージャーと音楽上のパートナーとなり、1953年に二人は結婚します。カール・ベームに認められ、モーツァルトの歌劇『後宮からの誘拐』のブロントヒェンやリヒャルト・シュトラウスの楽劇『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタなどハイ・ソプラノの役を中心に活躍していましたが、レッグの勧めもあって次第にリリックなレパートリー、モーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』伯爵夫人などに移行。バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭にも出演し、カラヤンやヴィルヘルム・フルトヴェングラーともしばしば共演します。1947年にはイギリスのコヴェントガーデン王立歌劇場に、1948年にはミラノ・スカラ座に、1964年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー。1952年には、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『ばらの騎士』の元帥夫人をカラヤン指揮のミラノ・スカラ座で歌い大成功を収めます。以来、この元帥夫人役はシュヴァルツコップの代表的なレパートリーとなります。オペラ歌手としてもリート歌手としても、その完璧なテクニックと、並外れて知性的な分析力を駆使した優れた歌唱を行い20世紀最高のソプラノと称賛されました。ドイツ・リートの新しい時代を招来したとまで讃えられシューマンやリヒャルト・シュトラウス、マーラーの歌曲を得意とし、中でもとりわけヴォルフの作品を得意とし、1970年代に引退するまで男声のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウと並んで最高のヴォルフ歌いと高く評価されています。1976年にオペラの舞台から、1979年には歌曲リサイタルからも引退し、後進の指導にあたっていました。2006年8月3日、オーストリア西部のフォアアルルベルク州シュルンスの自宅で死去。享年90歳。
ブラームス:ドイツ・レクイエム
カラヤン(ヘルベルト・フォン)
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-08-20

1947年10月20〜22日、10月27〜29日ウィーン、ムジークフェライン・グローサーザール、モノラル・セッション録音。
US COL SL157 カラヤン ブラームス「ドイツ・レクイエム」
US COL SL157 カラヤン ブラームス「ドイツ・レクイエム」