34-20820
軽やかでありながら華麗、しかも燃えるような情熱を内に秘めた唯一無二のパフォーマンス ― 夭折の天才が残した、歴史的にも貴重な記録が刻まれた一枚。多数の名演奏、名録音が存在するショパンのワルツ集のなかでも別格、ひときわ光芒を放っている逸品。フランスで身に付けた華麗さや洗練さと、ラテン的な情熱が絶妙なバランスを保っている。33歳で夭折した天才、ディヌ・リパッティが遺した名盤のひとつで、自身の行く末を知っていたのか、時に疾走し、時にたゆたう緩急絶妙のテンポ変化、その結果として生まれる瑞々しい歌と躍動感が作品と一体となった稀代の名演。リパッティが、20世紀のピアノ演奏史に燦然と輝いているのは、単に残された数少ない録音の素晴らしさからだけではと思います。リパッティは録音に対しては何時も真剣で一枚のレコードが完成するまでは何度もテイクを重ね、それがより完成度を高めて、結果として強い説得力を生んだと云われている。それは、このレコードの曲順にも反映しているといえる。一般的に出版されている楽譜には14曲あるいは17曲のワルツが収載されており、CD時代になると17曲は当たり前。ショパンの存命中に出版されたのはそのうち8曲で、没後ユリアン・フォンタナによって6曲が出版されました。その後、さらに3曲が発見されています。この17曲以外にも草稿が2曲存在しており、全19曲を録音している演奏も多い。さらに、紛失した作品が3曲あります。本盤の曲目トラックは後述のとおり。ショパンが練習曲集で意図し、前奏曲集で為してみせた試みを、ワルツ集として一貫性をもたせたかったのか。ショパンはポロネーズ、マズルカ、ワルツと三拍子の舞曲を好んで書いています。ポロネーズでは民族意識を芸術作品として結晶化し、マズルカでは素朴な望郷の念を歌っています。そこに含まれるポーランド風の旋律やリズムは、フランス人には歴史深い異国を想像させ、ポーランド人には郷愁を思い起こしたことでしょう。しかし、表面的な気分を表現したワルツでは満足できなくなってしまっていたショパンの、三拍子のリズムをきっかけに次々といろいろな楽想が登場するワルツは、移り変わり行く心情の表現にも適しています。ショパンの心を反映した小品という点で、マズルカとワルツは似ています。実際、ショパンのワルツにはマズルカ風のリズムが混ざる作品もあります。そのためか、「私がワルツを作ると、どういうわけかマズルカになってしまう」という、自嘲気味な言葉も残っています。曲数ではマズルカが多いが、リズムの縛りが息苦しいし、ショパンのワルツは踊るためのワルツではないから、練りに練った配列とアゴーギグを組み立てたのだろうか。何度聞いても素晴らしい。まるでリパッティ自身が作曲した曲を、本人自身が演奏している様に聴こえてくるのですが。違うでしょうか。フランソワもルービンシュタインも素晴らしいのですが、リパッティーには敵わない。ショパンのワルツ演奏として最高のものです。ショパンの美しい響きの中に込めた悲しみや怒りのような感情までもが、リパッティの洗練された演奏から伝わってきます。
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ディヌ・リパッティは1947年9月にロンドンのアビーロード・スタジオで「ワルツ集」を録音しているが、仕上りにリパッティが納得せず、日を改めて録音し直すとした。しかし、同スタジオでの再録音の機会がないまま、結局1950年、死の数ヵ月前の7月にジュネーブで録音することになった。この録音のために英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグは最新の録音機材をジュネーブに空輸し、リパッティは当時の新薬コーチゾンの助けを借り、医師の立ち合いのもとで演奏し、やっとの思いで録音されたという感動的なエピソードも、日本で日本コロムビアから初めてLPレコードが発売された時には、広く喧伝された。そうだと、理解するような書かれ方によって、以降、日本では20年近く、スタジオ録音の「ワルツ全14曲」は〝1950年7月ジュネーブ録音〟とされていたが、無理をした1950年ジュネーブ録音の演奏の出来よりは、完璧主義者のリパッティ自身には不満で反故にされたはずの、1947年の出来が、はるかに良いと判断した。実は1947年ロンドン録音の原盤を、破棄せずに保存していたのだ。つまり、ここでもまた、〝バイロイトの第九〟や〝シュヴァルツコップの吹き替え〟と同様、レコード上のマジックを発動させたのだ。この希代の名プロデューサーは、リパッティの名演を全世界のファンに聴かせんがため、あの世まで秘密を抱えてゆく覚悟で、1947年録音のテイクを1950年のテイクだと偽って発売した。リパッティの胸の内を思えば、〝1950年7月ジュネーブ録音〟としてあげたいが。

Dinu Lipatti Plays The Waltzes of Chopin

Side-A
  • 第4番ヘ長調作品34-3「華麗なる円舞曲」
  • 第5番変イ長調作品42「大ワルツ」
  • 第6番変ニ長調作品64-1「小犬のワルツ」
  • 第9番変イ長調作品69-1「別れのワルツ」
  • 第7番嬰ハ短調作品64-2
  • 第11番変ト長調作品70-1
  • 第10番ロ短調作品69-2
  • 第14番 ホ短調 遺作
Side-B
  • 第3番イ短調作品34-2「華麗なる円舞曲」
  • 第8番変イ長調作品64-3
  • 第12番ヘ短調作品70-2
  • 第13番変ニ長調作品70-3
  • 第1番変ホ長調作品18「華麗なる大円舞曲」
  • 第2番変イ長調作品34-1「華麗なる円舞曲」
ディヌ・リパッティ(Dinu Lipatti, 1917年〜1950年)は、ルーマニアのピアニスト、作曲家。ブカレスト生まれ。アルフレッド・コルトーに魅入られて教えを受けるが、33歳でジュネーヴ郊外でこの世を去った。彼のピアノの特徴は、透明な音色でピアノを最大限に歌わせていることである。純粋に徹した、孤高なまでに洗練されたピアニズムは古今でも随一とされる。死因は白血病といわれることが多いが、実際はホジキンリンパ腫である。演奏会の直前まで40度の高熱を出して病床に伏していたリパッティであったが、医師の制止を振り切り、強力な解熱剤の注射により、ようやく立ち上がることができるような状態で、蹌踉めくようにステージに姿を現し、やっとのことでピアノの処まで辿りつくことができたという。しかし、この録音を聴く限り、そんな身体の状況などは微塵も感じさせず、集中力の高いピアノ演奏には驚かされるばかりである。彼のピアニズムを一言で言い表すとすれば、繊細、清潔、透明、端整といった表現が相応しいと思います。例えばブザンソンのライヴを聴いて居て感じることですが、既に迫り来る死を避けがたい運命と悟ってたと思われながら、そのような苦悩を微塵も演奏からは感じさせずに、常に聴衆の方を向いていたのではと思いたくなります。これがモノラル録音しか聴くすべが無い現代でも高い支持を得ている要因では無いかと結論づけては早計でしょうか。33歳で逝ってしまったことが、何故か、英国のジャクリーヌ・デュ・プレやイシュトヴァーン・ケルテス ― それぞれに病死ではありませんが、突然の最期として ― に重なりあう。リパッティの33歳の早すぎた死は、何枚も名盤量産するという輝かしい未来を奪い、歳月を重ねて到達する円熟の境地を与えなかったですが、このルーマニアの才能を惜しむ声は高まりこそすれ、一向に衰えずリパッティ初期盤収集に苦労します。
1947年ロンドン、モノラル録音。1947年は純粋にSP録音。
US COL ML4522 ディヌ・リパッティ ショパン・ワルツ集
US COL ML4522 ディヌ・リパッティ ショパン・ワルツ集
ショパン:ワルツ集
リパッティ(ディヌ)
ワーナーミュージック・ジャパン
2011-12-07