34-23720

商品番号 34-23720

通販レコード→米6EYES白文字ロゴ盤 2枚組

ワルターの終始優しい眼差しもった明るい響きはロマン的 ― と題されるこの曲に相応しいものです。ブルックナーの最初の成功作となった《交響曲第4番》の特徴は、彼自身が付けた《ロマンチック》という副題が雄弁に語っている。これはドイツの奥深い森で味わう神秘的な感情をあらわしており、ベルリオーズやリストのような標題音楽と誤解されてはならない。ベートーヴェンの「田園交響曲」と同じように、ブルックナーの大自然に対する限りない愛情を盛り込んだもの、とでも思えば良い。そこには自然への憧れ、「遠い昔」への郷愁、神秘的幻想などが込められており、時代を超えて、私たちをそうした世界へと誘ってくれる。しかしブルックナーは無邪気にも、そういった誤解を招くような説明を、この交響曲に加えている。一種のこじつけであろうが彼は、この曲の第1楽章をワーグナーのローエングリーン第2幕に出てくるような中世の情景画として説明している。自筆譜の作曲家自身の書き込みは物語的だ。「中世の町 ― 夜明け ― リンツの教会の塔から朝を知らせるラッパが吹かれる」 ― 朝霧を思わせる〝ブルックナー開始〟から、のどかなホルン独奏の第1主題が登場。夜が明けるようにクレシェンドした後、〝ブルックナー・リズム〟の副楽想が登場する。「目覚めた町の門が開かれ、馬に乗った騎士たちが野外へと駆け出す ― 森のささやき」 ― 2つの旋律が同時に歌われる第2主題は、ブルックナーが生まれ故郷の上部オーストリアでよく聴いた「チチチッ」というヤマガラの鳴き声に由来している。ホルンとテューバなどが力強くブルックナー・リズムを吹き下ろすと、それが第3主題である。深い深い霧の中から、何かが次第に姿を表してくるかのような、こうした手法はブルックナー一流のもので、これを称して俗に「原始霧」といっている。彼の他の交響曲によく見られるミサ曲からの旋律の引用が全く無く、明るくまたやわらかな変ホ長調がとられ、0番から3番までの交響曲に見られた悲劇的、あるいは神秘的な雰囲気から脱したオプティミスティック、あるいはロマンティックなものが感じられる。ブルックナーの音楽には、いたるところに素朴なオーストリアの風光が潜んでいるのだ。ブルーノ・ワルター盤はオーケストラの響きがやや薄手で明るすぎるのが欠点だが、ブルックナーの世界に陶酔しながらも、一点一画も疎かにせず、精緻に優麗に田園的情緒を豊かに描き出している点が素晴らしい。ブラスの輝き、弦の艶、内声部の明確さなど、鮮烈な音で再現されていきます。ロマン主義の白鳥の歌とされるブルックナーの交響曲と、前世紀のクラシック音楽のロマンの名残をとどめたワルターの音楽。《ロマンティック》を輝かしい響きで完全に演奏した名盤です。
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ブルーノ・ワルターはクラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者として現れる。そして、ライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。これはワルター受容の一つのパターンと言えるだろう。そんな人物像を前提にして、想い出される《田園交響曲》に代表される温和で情緒的なワルター・イメージに支配されているなと気付かされる。ワルターはトスカニーニのようにオーケストラに対して威圧的な態度をとることがなく、穏和とか柔和というイメージがついているが、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。その両面を堪能させるのが、ニューヨーク・フィルハーモニックを指揮したドヴォルザークの交響曲第8番(1948年ライヴ録音)やブラームスの交響曲第2番(1953年録音)だ。ブラームスの交響曲第2番は聴き終えるのが惜しくなるほどの素晴らしさで、哀愁も優美も情熱も歌心も極まっている。数多ある同曲の録音の中でもトップクラスに位置する名演奏だ。ワルターのことがよく分からなくなるとドツボにはまる。戦前から5大指揮者に数えられ、ワルターも戦時下のウィーンの指揮者なのだ。あまりにも有名な1929年ベルリンのイタリア大使館で左からワルター、アルトゥーロ・トスカニーニ、エーリッヒ・クライバー、オットー・クレンペラー、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがならぶスナップがある。アルトゥール・ニキシュ、マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらしたワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はがさつとか下品と言われがちだったアメリカのオーケストラを使って、ヨーロッパのオーケストラの熟成された深みのある響きを自分なりのやり方で練り上げた。モーツァルトやブラームスで清澄で意味深い音楽を奏でるワルターは、勢い鈍重な表情を見せることで、一層の感銘を残す。強さだけでなく大きさを増していくようなこの指揮者の求心力には、心底驚かされる。ここが聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りを示す。
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter, 1876年9月15日〜1962年2月17日)はドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニックの演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア社(CBS)の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェン〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。コロムビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
天は永遠に青みわたり、大地はゆるぎなく立って、春来れば花咲く。けれど人間はどれだけ生きられるというのだ。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の綺羅星の如く存在する名録音の中でも、最も突出した名演として知られるものの1つに、ブルーノ・ワルターが1960年5月29日に行った「マーラー生誕100周年記念祭公演」があります。記念祭が、まずカーネギー・ホールで行われ、ウィーンでもワルターが招かれ交響曲第4番をエリーザベト・シュヴァルツコップのソロで演奏している。マーラーの作品ではウィーン・フィルとの交響曲第9番(1938年録音)、キャスリーン・フェリアーが歌っている「大地の歌」(1952年録音)が昔から知られている2大名盤。それに、コロムビア交響楽団との交響曲第1番「巨人」(1961年録音)もワルターの意図をしっかりと汲んだ演奏になっている。レコーディングの仕事には戦前から積極的に取り組んでおり、1930年代のウィーン・フィルとの録音は絶品と評されている。芯からエネルギーに満ちた音楽でさえ、オーケストラの歌わせ方が実にしなやかで、繊細な響きはどこか妖しさをたたえている。温厚な男らしさでオーケストラを束ねたのはワルター唯一だ。クラシック音楽を聴きはじめた人の前に、モーツァルトやベートーヴェンの作品の指揮者としてワルターの名前を覚えることになる。そして、勧められる名盤とされるレコード、CDのライナーノーツやレビューに書かれている「温厚な人柄」「モラリスト」といった人物評により、大指揮者には稀な人格者のイメージを植え付けられる。しかし温厚とは女々しいことではない。アルトゥーロ・トスカニーニやヴィルヘルム・フルトヴェングラーと並ぶ、戦前、戦中、戦後を通して活躍して音楽好きを魅了した3大指揮者だが、ワルターだけは激をオーケストラに飛ばすことはなかった。もっとも、1930年代の名録音はワルターが60歳前後であり、戦後のコロムビア響と一連の録音を行ったときは80歳になっていた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きく、そして芯の部分が柔軟であってのことだろう。しかし、当の本人は「私の関心は、響きの明晰性よりもっと高度の明晰性、即ち音楽的な意味の明晰性にある」とか「正確さに専念することで技術は得られるが、技術に専念しても正確さは得られない」と述べているように、音楽的な「明晰性」と「正確さ」を得るためであればアポロンにでもディオニュソスにでもなれる人だった。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、グスタフ・マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくような、この指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために米コロムビア社によって組織されたコロムビア響とのセッションに専心し、1962年2月に85歳で亡くなった。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。フィリップスは1982年10月21日コンパクト・ディスク・ソフトの発売を開始する。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのCD発表の華々しいCD第1号はイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ作曲の協奏曲集「四季」 ― CD番号:410 001-2。1982年7月のデジタル録音。現在は、フィリップス・サウンドを継承してきたポリヒムニア・インターナショナルが、これら名録音をDSDリマスタリングし、SACDハイブリッド化しています。
  • Record Karte
  • 1960年2月13,15,17,25日、1961年3月24,27日ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホールでのセッション、ステレオ録音。ジョン・マックルーアの制作。
  • US COL M2S622 ワルター・コロムビア響 BRUCKNER…
  • US COL M2S622 ワルター・コロムビア響 BRUCKNER…

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