34-21537

商品番号 34-21537

通販レコード→米2EYESグレー白文字盤 "360 SOUND"STEREO

枯淡の境地、ブラームス晩年の哀愁を表現しきった名演奏 ― ブラームスといえばウィーン・フィルの響きを念頭に作曲していたのではないかしらとさえ思ってしまう。リヒャルト・シュトラウスが『ブラームスの交響曲第4番の主題は、ありゃ、主題といえるのかね? 違うね!』とウィーン・フィルの楽員に断固として言ったことがある。そして、『何もかも一緒くたにするような作曲家は、メニューも作曲できるに違いない』と言ったのは的を得ている。ブラームスはハンス・クナッパーツブッシュ以上に腰が重い人で、聴衆の拍手にさえなかなか応えようとしなかった。彼は自分の作品をムジークフェライン・ザールで聞き終わるとさっと姿を消してしまうのであった。そのためか、晩年には尊敬を受けながらも「もう時代遅れの人」という評価が一般的だったそうです。「時代遅れ」と言われることに開き直りのように、この第4交響曲で最終楽章に用いられた「パッサカリア」という形式はバッハのころでさえ「時代遅れ」であった形式です。最高のメロディーメーカーだったドヴォルザークがゴミ箱に捨てた旋律でブラームスは一曲書ける、と言われたぐらいに主題づくりに一番苦労したブラームスが、この第4交響曲では主題を労作すること自体を放棄している。それをリヒャルト・シュトラウスは嫌いだと言っているのです。ブルーノ・ワルターとオットー・クレンペラーのレパートリーはモーツァルトとマーラーの音楽が大きな柱の一つになっている。周知の通り、ともにユダヤ人であるワルターとクレンペラーはマーラーの直弟子にあたり、マーラーを熱心に取りあげていた。ワルターの演奏は情緒的とされながら、音の出し方は似ている。ワルターは、ウィーン・フィルの楽員によく極端な対象を要求した。例えば、モーツァルトの交響曲のピアニッシモのところで、オーケストラがまだ弾きはじめないうちに中断して、『皆さん、もう大きすぎます』と言うことがあった。また『フィガロの結婚』の序曲の練習では、やはりオーケストラが弾き始める前に中断して、『皆さん、もうテンポが遅すぎますよ』というのであった。こうしたことはワルターの個性というより、同世代の指揮者の特徴である。この第4交響曲でも、フレーズの変わり目でのリタルダンドも極端でなくなめらかに変化するのでカット割りで繋いだ映画のような唐突さを感じない。ワルターのブラームスはいずれも絶品で、滋味あふれる深遠な世界は多くのファンをひきつけてやみません。ブラームスが作曲に長い時間をかけた第1交響曲でも、ワルターの確かな構成力と、慈愛に満ちた表現を聴くことができます。その他の協奏曲、管弦楽作品、ドイツ・レクイエムも代表的名演として後世に聴き継がれる名演奏です。コロンビア交響楽団の性能は、お世辞にも高いものではありませんでした。しかし、ワルターによるスタジオ録音のために編成された特殊な楽団でしたから、ワルターの作ろうとする音楽を何としても形にするのだというひたむきな姿勢がひしひしと感じられ、指揮者とオーケストラが一つになったかのような演奏が展開されています。録音も極めて秀逸で、とても50年以上前のものとは思えない瑞々しさ。ブラームスの音楽に、愛情を持って寄り添うワルターの姿が彷彿とさせられました。ワルターがコロンビア響と残したステレオ録音によるブラームスの全録音は、同曲の永遠のスタンダードとしての位置は今後もゆるがないでしょう。
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ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)は1876年ドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。1962年没。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロンビア社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団での〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡ということになると思う。コロンビア交響楽団時代がなければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、本盤も含め米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
1959,60年ハリウッド、アメリカン・リージョン・ホールでのセッション、ステレオ録音。ジョン・マックルーアの制作。珍しい写真集綴り込み豪華解説書付、優秀録音、名演。4枚組。
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