34-18809
商品番号 34-18809

通販レコード→米ダーク・グレー黒文字盤
モーツァルトには悪いがアダージョの指定をアレグレットにして ― 天衣無縫の天才モーツァルトの音楽を、現代の天才ピアニスト、グレン・グールドが自由奔放に甦らせた作品。半世紀ほど前にロックに感動した少年が、ブルースを愛する父親にギターを無心した。父親もブルースだと納得してもらえた少年の演奏はテンポだけが早いブルースだったが、それが少年が感動したロックだった。ギターの腕を上げて青年に育つとファンクを生み出した。そしてハードロックの呼称が定着することになる。2018年から40年遡る、1968年のことだ。テンポだけが早くなったブルースは変質していない。グールドは1955年に収録したバッハ「ゴルトベルク変奏曲」で一躍世界の脚光を浴びたが、そもそもグールドはメジャーデビュー前、CBCの音楽番組などに多数出演、母国カナダではすでに有名な存在だった。デビュー以前の12、13歳頃にはオール・ショパン・プログラムでのリサイタルを開いたこともある。1947年にプライベートでモーツァルトなどを録音したものを別にしても、1951年に録音したウェーバー「コンチェルトシュテュック」、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番、1952年〜54年のバッハ「イタリア協奏曲」、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第5番「幽霊」、シェーンベルクのピアノ協奏曲などを聴くと意外にロマンティックな演奏で驚く。その後16歳頃から取り組む楽曲を厳格に精査するようになり自身が弾きたい曲を舞台に乗せるのではなく、自身をあまり好んでくれない曲を削ぎ落とすようになったと語っている。グールドは真摯に楽譜のみに対峙し、そのピアニズムは伝統的演奏とは全く異なるアプローチを示す。複雑な声部を鮮やかに弾き分け、躍動と沈潜、大胆さと繊細さを織り込みながら全体を明快に彫刻するのはグールドの独壇場だ。テンポでは有名な話があって、ブラームスのピアノ協奏曲第1番の録音でレナード・バーンスタインと衝突し、録音はグールドの意見に譲ったのですが、発売されたレコードには「これは僕のテンポではありません」と聴き手に向かって語りかけています。グールドはロマン派的思考や主情的演奏にきっぱりと背を向けたピアニストであるが、演奏会を嫌い、スタジオを好んだ彼の録音は、ある意味強烈な個性として訴えかけてくるものがあると思う。グールドは演奏のときは手をお湯で温め、強く握られると危険なので握手は絶対にしなかったそうです。極度の潔癖症でストイックな演奏スタイルの彼が晩年 YAMAHA製CF#1983300 に魅せられていた事も、何となく理解できますね。本盤で聴くモーツァルトは、従来のモーツァルト弾きといわれるピアニストたちの、それに比較しても無意味なほど個性的ですが圧倒的な説得力が漲っているのは言うまでもない。
ハードロックの起源とされるのはビートルズの「ヘルター・スケルター」や、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、ブルー・チアー、ヴァニラ・ファッジなどで、ロック、ブルーズとサイケデリック・ロックを融合し新しいスタイルを呈示してみせた。1950年代はアメリカのロック音楽が、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代だった。イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段としてブルースが優れていたことから、ブルースを基調とする骨太でソリッドな音楽を演奏する者が次々現れた。1960年代には、イギリスではちょっとした「ブルース・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点となる。この頃のアメリカCBSレコード専属のピアニストでいうとウラディミール・ホロヴィッツはRCAに取り返された、ロベール・カサドシュは高齢だったし、ルドルフ・ゼルキンより30歳若くて“ゴールドベルク”で大当たりしたグールドは伝統に反発するアンチ・クラシックの若者たち、ジャズ・ファンにもアピールできる売れる金の卵だったでしょう。何でも好き勝手に録音させた感じがします。それを御用評論家が箔付けして、グールドを聴くことがクラシック好きのステータスみたいなイメージができてしまいました。折しもアメリカで起こっていた公民権運動、これと同時進行する形で世界各国で学生運動が勃発、少し時代が下ってベトナム反戦運動が、この流れに合流する形で「反権力」を旗印とした市民運動が全世界的に盛り上がった時代を背景に、うまいマーケティングでしたね。これはハードロック誕生と重なる。
イ短調(K.310)は本当に悲劇的なソナタである。 第1楽章の終りのハ長調への転調すらも明るさをもたらさない。 そしてまた、なるほど緩徐楽章(コン・エスプレッシオーネ)でも展開部はいくらか慰めるように始まるが、全体の印象は再現部の前の不気味な興奮に結びついて離れない。 影に覆われたプレストは始めから終りまで不気味である。 ミュゼット風に始まる挿入された旋律の花にもかかわらず、不気味なのである。 イ短調は ― ときには特別な照明を受けたイ長調も ― モーツァルトにとって絶望の調性である。 このソナタには最早「社交性」がない。 ― アインシュタイン
ブルースの流れを踏襲しているロック音楽全般がプロテスト的色彩を帯びたのは自然の流れである。1968年にはジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリンがデビューした。1970年には後にヘヴィメタルの代表的存在となるブラック・サバスがデビューし、ディープ・パープルがハードロックに転向する。このころには、ハードロックが欧米中心にブームとなった。若者を中心に人が集まる「市民運動団体」と「レコード会社、コンサート興行主等の音楽産業界」双方の思惑が一致したことから、このコラボレーションは次第に大規模化されていく。10歳代のグールドはプログラミングについてもかなり自由だったし、たっぷりとしたレガート奏法でロマン派作品を弾いていた。1951年にはウェーバー「コンチェルトシュテュック」、アーネスト・マクミラン指揮トロント交響楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番。1952年にはベートーヴェン「創作主題による6つの変奏曲 作品34」、「6つのバガテル」、「エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ」、シェーンベルク「ピアノ組曲 作品25」、「3つのピアノ曲 作品11」、ベルクのピアノ・ソナタ、バッハ「イタリア協奏曲」、「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の9番。1953年にはジャン=マリー・ボーデ指揮CBC交響楽団とのシェーンベルクのピアノ協奏曲。1954年には、ヴェーベルン「ピアノのための変奏曲」、バッハ「ゴルトベルク変奏曲」、アレクサンダー・シュナイダーのヴァイオリン、ザラ・ネルソヴァのチェロとベートーヴェンのピアノ三重奏曲第5番「幽霊」などをカナダ放送協会(CBC)などで録音している。それが1955年の「ゴルトベルク変奏曲」を機に、いわゆるグールド的志向に変化していくのであるが、それではなぜ、グールドはロマン派音楽と距離を置くようになったのか。この不完全で奇態なモーツァルト演奏は、どれも15分に満たないソナタながら1966年から1970年までの4年間に渡っている。
グレン・グールドはピアニスト、作曲家。1932年9月25日カナダ、トロント生まれ。1982年10月4日没。母親にピアノの手ほどきを受ける。1940年、7歳の時トロント音楽院に入学。1945年、オルガニストとして13歳でデビュー。翌年にはピアニストとしてトロント交響楽団と共演。同年14歳の最年少で同音楽院を卒業するなど、早くから神童として知られる。北米を中心に活動し、1955年にバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を弾いてワシントンとニューヨークにデビュー。1955年にコロンビア・マスターワークス(現ソニー・クラシカル)と専属契約を結び、1982年に亡くなるまで同レーベルに録音を続けました。1956年に衝撃的な『ゴールドベルク変奏曲』を発表。このアルバムはデビュー盤にかかわらずベストセラーとなり、その衝撃的な演奏とともにセンセーションを巻き起こす。1957年にカラヤン指揮ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューする。さらに旧ソ連への演奏旅行も行う。1959年にはザルツブルク音楽祭に出演し世界的な名声を築き上げていったが、1964年のロサンジェルスでのリサイタルを最後にコンサート活動から引退し、以来レコード録音とテレビによる放送などを通じての世界のみから出ることはなかった。伝統を読み直し再構築してゆく斬新な視点は、常に聴き手に問題提起をし続けた。デビュー作と生前最後のアルバムと映像収録は『バッハのゴルトベルク変奏曲』であった。最後の〈アリア〉を弾き終えたグールドが、両腕を持ち上げ祈るように掌をあわせるシーンに心打たれる。
1969年1月30日&31日、2月13日(8番)、1970年8月11日(10番)、1965年9月28日&29日、1966年5月17日(12番)、1966年5月16日&17日、1970年1月22日&23日、8月10日(13番)トロント、イートン・オーディトリアムでのアンドルー・カズディン、ハワード・H・スコットによる録音。
US CBS M31073 グレン・グールド モーツァルト・ピアノソ…
US CBS M31073 グレン・グールド モーツァルト・ピアノソ…