ロシア版太平記。 ― SPレコード時代から革新的だったストコフスキー。レコーディングの時にはオーケストラの前にはダミーの指揮者を置いて行った強者。楽譜にない楽器を加えたり、音を盛ったりたいそうなことをしたけど、グリエールのこの曲をレコード1枚に収めるために半分に切り詰めたのは大した技量だ。ロシアの英雄伝説に基づく交響曲第3番『イリヤー・ムーロミェツ』は1911年グラズノフに献呈。ストコフスキーがアメリカで盛んに指揮して広めた。このグリエールの交響曲第3番『イリヤー・ムーロミェツ』は今でこそ見向きもされないが、かつてはラフマニノフの交響曲第2番と並んでチャイコフスキー以降の代表的交響作品として世界的に知られていた。評価の定まった音楽より、新しく評価をすることは面白いし、何よりどう時代の新しい音楽は刺激がある。既に何十枚も録音のある独墺の過去の音楽をレコードにすることは虚しいものだ。時代が下ってビートルズの最初のレコードが、一件のレコード・ショップが自費制作したことから始まることに等しいだろう。戦前のSP時代ストコフスキーが、これをフィラデルフィア管弦楽団と録音しており、戦後も同じストコフスキーがステレオで再録音したほか、シェルヘン、フリッチャイ、オーマンディらが相次いで録音を残している。ジョゼフ・コーネルは自ら制作した無声映画の伴奏音楽としてこの曲を指定している。ただし、全曲が70分以上を要する大曲なので、SP録音に際してストコフスキーが拵えた短縮版(45分程度)が専ら親しまれ、LP時代にこれをオリジナルの全曲版で録音したのはシェルヘンだけだったと記憶する。さて、戦前の日本におけるストコフスキーの代表盤と言えば、「新世界」と「ハンガリアン・ラプソディ」でしょう。1937年に製作された映画「オーケストラの少女」でも使われました。この映画の大ヒットのおかげで、それまでクラシック音楽に縁のなかった多くの大衆が、その楽しさに開眼したそうです。当時の日本のレコード店には、それまで流行歌しか聞かなかったような半纏姿の丁稚さんが、このレコードを買いに押しかけて来たそうです。
レオポルド・ストコフスキー( Leopold Stokowski, イギリス 1882~1977)は老いを知らない、まるで逆に年をとっているのではないかと思われるほど、いつまでも若さを失わない指揮者である。あのみごとな銀髪、ギリシャ彫刻を思わせるような、彫りの深い芸術的な顔。指揮棒をすて、しなやかな10本の指からつくりだされる表情豊かな音楽。彼は言葉では表現できないふしぎな魅力をもった指揮者である。1882年、ポーランド人を父に、アイルランドの移民を母としてロンドンに生れた彼は、オルガニストとして音楽の第一歩を踏みだした。13歳で王立音楽大学に入学。1902年、ピカデリーの聖ジェームズ教会のオルガニスト、聖歌隊指揮者となり、1903年にはオックスフォード大学クイーンズ・カレッジで音楽学士号を取得。1905年アメリカに渡りニューヨークの聖バーソロミュー教会でオルガンを弾いていたが、夏の間はヨーロッパで研究を続けていた。1909年、パリで急病の指揮者の代わりに指揮をしてデビュー。その成功がきっかけで、シンシナティ交響楽団の常任指揮者に就任。ごく短期間のうちにその実力を相当な高みにまで引き上げた。そしてその腕が買われ、1913年、弱冠31才でフィラデルフィア管弦楽団の常任に迎えられた。それから24年間 ― 1912年から1940年までフィラデルフィア管弦楽団常任指揮者として同楽団を世界最高水準のオーケストラに育て上げたのである。その後、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団、ヒューストン交響楽団の指揮者をつとめ、その後みずから、全米青少年管弦楽団(1940年)、ニューヨーク市交響楽団(1944年)、ハリウッドボール交響楽団(1945年)、アメリカ交響楽団(1962年)を次々に結成し、その育成に心血をそそぐことでアメリカの交響楽運動の第一線にたち続けた。レオポルド・ストコフスキーは20世紀における個性的な指揮者の一人で、主にアメリカで活動した。SP時代に初めてブラームス全集を出したり、映画音楽を数多く録音したり、とにかく自由奔放に活動した。レパートリーは格段に広い。20世紀のアメリカの、いや世界の大衆にバッハ音楽を紹介した最大の功労者と言ってよい。一方で1971年までに指揮した7,000回の演奏会のうち、新作の初演はじつに2,000回に及ぶなど、現代音楽の紹介者としての功績も忘れてはならない。その音楽に対する情熱とスケールの大きさには驚かされる。どんな曲でも新鮮な刺戟的な演奏をし、たとえばホルンに強烈なビブラートをかけるのも特徴的で、さらに弦に関しては耽美的、神秘的な響きである。“ストコフスキー・サウンド”とか、“音の魔術師”と呼ばれた、それはまったく「怪物」という印象であった。
グリエールの、この交響曲は「イリヤ・ムーロメツ」と副題が附されている。4楽章形式の長大な交響詩というべき標題音楽でシュトラウスの「アルプス交響曲」や「家庭交響曲」の親類、同じロシアでいえばリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」に近しい存在といえようか。後期ロマン派ならではの長大な絢爛たる音の絵巻である。天才少年プロコフィエフの家庭教師として最初の手ほどきをしたレインゴリド・グリエール(1875〜1956)は、ドイツ人の父とポーランド人を母の次男としてウクライナのキエフに生まれます。父エルンスト・モーリッツは楽器職人(主に管楽器)で、自分の師匠の娘ジョゼフィーネ・コルシャークを妻とします。そのためいつも家庭には音楽が溢れていて、ここで育ったグリエールは幼くしてホルン、トランペット、フルート、クラリネットなどを操り、ヴァイオリンのレッスンも受けます。両親は息子に医者やエンジニアになることを望みましたが、階級や民族的制約によりそれはかないませんでした。19歳でモスクワ音楽院に入学、ヴァイオリンをフリマリー、和声をアレンスキー、対位法をタネーエフに、作曲をイッポリトフ=イワノフに師事します。卒業後、モスクワ・グネーシン音楽学校で教師の職を得ますが、その頃21歳のミャスコフスキーと11歳のプロコフィエフを教えたことがグリエールの名を歴史に留めた最初の出来事となります。グリエールが最も影響を受けたのはチャイコフスキーおよびグラズノフ、ボロディンなどの国民楽派の作曲家たちで、若い頃はベルリン修行時代に接したワーグナー、リヒャルト・シュトラウスなどのドイツ・ロマン派音楽、その後はアゼルバイジャン、ウズベクなどの東方の民俗音楽を取り入れています。『イリヤ・ムーロメツ』とは10~11世紀のウラジーミル大公の治世に活躍した伝説上の英雄であり、交響曲もその事績を下敷きに展開される。第1楽章が「さまよえる巡礼者達~イリア・ムーロメッツとスヴャトゴール」、第2楽章が「山賊ソロヴェイ」、第3楽章が「ヴラディーミル公の宮殿での祝宴」、終楽章が「武勇伝とイリア・ムーロメッツの石化」。キエフ郊外のムーロムというところで農民の息子で病弱だったイリヤは、30年のあいだ病床に臥していたが、30歳になったある時、二人の巡礼が現れて起こし、山にいる戦士の中の戦士と言われた英雄のスヴャトゴールに会いに行き魔力を授けられる。そのあとキエフの王子のもとへはせ参じる途中で山賊を退治して、王宮に行き、王子に仕えます。クライマックスはキエフに攻めてきたダッタン人を倒し役目を成し遂げたに見えたが、イリヤはさらに戦い続けることを告げると、天から様々な軍団が降りてくる。天使たちとの戦いによってじわじわと敗色が濃くなるうち、イリア・ムーロメッツが山に再び足を踏み入れると、何事もなかったかのごとく瞬く間に石となってしまう。力自慢の豪傑イリヤの勇ましい戦勲が野放図に物語られる。ロシア版の「太平記」とでもいおうか。モチーフをくっきり浮き立たせ、回想的フレーズを織り交ぜつつ壮麗な響きを背景にチャイコフスキーふうの構造を盛り込んだドラマをこれでもかと積み上げてから、各楽章にあらわれる主題の明確な回想を走馬灯のように流しつつ退嬰的に終わる。グリエールが全身全霊を傾けて完成させた記念碑的な大作である。ロシアの管弦楽曲の長い伝統を拠り所としており、ロシアの標題交響曲としては、リムスキー=コルサコフの《アンタール》とチャイコフスキーの《マンフレッド交響曲》に次ぐ作品となっている。指揮者のレオポルド・ストコフスキーはこの作品を非常に評価し、スラヴ文化の集大成と見なしていた。それでも1930年に、この作品が聴衆に親しまれていないことに鑑みて、この作品をカットすることを許可してくれるように作曲者に頼んでいる。グリエール自身が本気でそのような選択をしたのかはともかくも、アメリカ合衆国の大指揮者に取り上げられる可能性に動かされたのは間違いなく、ストコフスキーの提案に同意することにしたのである。1957年3月録音、3トラック・ステレオ・テープを使用して話題となったキャピトル盤。
US CAPITOL P8402 レオポルド・ストコフスキー グリエ…
US CAPITOL P8402 レオポルド・ストコフスキー グリエ…