34-386
商品番号 34-386

通販レコード→米マルーン銀文字盤
モノラルながら鮮烈なピーター・バルトークによる録音。 ― ジュリアード四重奏団リーダーとしてだけでなく、ソリスト、指揮者としてもバルトークと深く関わってきたロバート・マンが、大作曲家べーラ・バルトークの子息、ピーター・バルトーク(1924〜)が主宰するレーベル「バルトーク・レコーズ」に録音したレコード。ピーターは名録音技師として名を馳せ、LP初期に高音質LPを多数制作し話題となった。曲は「ピアノ協奏曲第1番」と「ラプソディ」。バルトークの音楽というと極めて高度な知性と鋭利な感覚に貫かれた峻厳さをイメージしがちであろう。事実、彼の多くの作品が、そのような性格を持っているし、たとえそれがヴァイオリン音楽であっても、かつてのヨーゼフ・シゲティのような人が弾くことこそ相応しいとも思える。余分な情緒性や甘美さを一切削り去って、あくまでも鋭く、禁欲的に …… 。もし、バルトークの演奏について、そのような姿のみを理想とする人にとっては持って来いの他を選択する必要なし。目の前で弦楽器がゴシゴシやり、管楽器が割れる寸前でブリブリ吹き、打楽器の振動がからだに伝わってくるというサウンドには驚かされます。もしかするとリアルすぎて、ナマでも、指揮台でも聴けない種類の音なのかもしれません。オーケストラのジンブラー・シンフォニエッタは、バロックから20世紀作品まで幅広いジャンルをこなしていた室内オーケストラで、二管編成のこの作品の録音では、小編成&オンマイクの効果によって凄いサウンドを聴くことができます。
録音をおこなったエンジニアのピーター・バルトークは、かつてシュタルケルのコダーイ:無伴奏チェロ・ソナタの録音で、「松ヤニが飛び散るような録音(まるで松ヤニ粉の飛散が見えるかのような高解像度な録音)」と評されましたが、高解像度な録音を説明するときに「松ヤニ粉の飛散が見えるかのような」が慣用句となっていますが、このバルトーク・レコードの鮮烈な音に魅惑された経験のある世代がよく使うようになった起源がここにある。ピアニストのレオニード・ハンブロは、1920年にロシア移民の子としてシカゴに生まれたアメリカのピアニスト。ジュリアード音楽院卒業後、ニューヨークで開催されたナウムバーグ国際コンクールで優勝、コンサート・ピアニストとして活躍しますが、1961年から1970年にかけてはコメディ・ピアニストのヴィクター・ボーグの相方を務め、P.D.Q.バッハや、ホフナング音楽祭での楽しい演奏でも知られることとなります。本盤のバルトーク「ピアノ協奏曲第1番」と「ピアノのための狂詩曲」は、ハンブロが、そうしたユーモア路線に転じる前のものですが、多彩な表情の演奏からは、ハンブロの創意あふれる音楽性が伝わってきます。ちなみにハンブロは同じバルトーク・レコーズのバルトークのヴァイオリン・ソナタでロバート・マンと共演してもいました。バルトークは後期ロマン派の影響下で作曲をスタートさせますが、ハンガリーや東欧諸国の農民音楽の収集・研究をおこない、民謡の語法をもとに印象主義音楽以降の同時代の手法を取り入れて独自の様式を確立しました。バルトークの単なる印刷物の音符の行列に生きた血を通わせるようなハンブロの才能が、潤いのある音楽を紡ぎ出していると云っても過言でない。端麗な美音とは違うが、バルトーク特有の闇に蠢く感じはよく出ている。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
ハンガリーの生んだ20世紀最大の作曲家のひとりといえば何びともベーラ・バルトーク(1881〜1945)を挙げる。否、20世紀最大の作曲家としても、まずバルトークから指を屈する人も少なくあるまい。バルトークは8歳年長のシェーンベルクのような芸術様式上の革命家でもなかったし、1年後に生まれたストラヴィンスキーのように若くして天才的な脚光を浴びた体験も持ってはいない。しかし、第2次大戦が終わり ― バルトークはこの年に亡くなってしまうが ― 新しい芸術活動の息吹が起こった時、バルトークに対する認識が急速に深まる。それは見失われていた芸術における精神活動の尊厳の回復を示すものであった。例えば、その頃の現代音楽を扱った書物の記述に数多くの例が窺われる。フランスの急進的な批評家だったアントアーヌ・ゴレアが1954年に刊行の「現代音楽の美学」(野村良雄他訳)の中で、「彼は死後僅か何年かで20世紀の作曲家の中で、おそらくアルチュール・オネゲルを除いては最も良く演奏される人となり、又現代音楽及び、その偉大と闘争と苦闘の象徴となった。 …… 現代の音楽的ヒューマニズムの代表者の中で最も悲愴な、又最も活き活きとした方法でこれを具象化している」。また1955年出版のドイツの音楽学者ハンス・メルスマンの「西洋音楽史」(後藤暢子訳)で「ストラヴィンスキーがヨーロッパ文化の汎ゆる思潮に向かって心を開いていたのに対し、バルトークは偉大な孤独の境地で生き、且つ創造したのである」、そして日本では柴田南雄が1958年刊の「現代の作曲家」の中で「バルトークを〈巨匠〉と呼ぶ時、今や我々はベートーヴェンに対する時と対して違わぬ感情を抱くに至っている。殆ど倫理的といえるほどの芸術と人生への厳しい態度が、この二人の人間像を相似たものにしているためであろう」、これらの引用はほんの一例にすぎないもので1950年代はバルトーク評価が非常に高まったことを示すものである。1960年代以降バルトーク熱は下降したかのように見えるが、そのことが彼の音楽史上の位置づけをより明確にさせることになった。20世紀前半を生きた作曲家の中でシェーンベルク、ストラヴィンスキーとバルトークが3大巨峰であることは定説となった。例えば、あの厖大な「新オックスフォード音楽史」は第10巻(1974)を現代音楽(1890〜1960)に充てているが、最も多くの影響を与えた作曲家としてドビュッシーとシェーンベルクを重視している、しかし個人としての記述に一番多くのページが割かれているのはバルトークの25ページであり、ついでストラヴィンスキー、ベルク、ウェーベルンとなっている。バルトークは多作家ではなかったが、寡作家とも言えない。彼の作品は、ほとんどあらゆるジャンルの音楽に及んでいた。広く言われるように彼は中欧・東欧の民族音楽の研究の成果を彼の芸術音楽に採り入れているが、その有り様は高度に芸術的に昇華されたものであった。バルトークはシェーンベルクの無調音楽の影響を受けているし、ストラヴィンスキーとも無縁の人ではなかった。しかし、それらが作品に具現された時、バルトーク以外の何びとも書き得なかったものとなる。このことは彼の妥協のない創作態度の厳しさを物語っている。作品の数に比較してオーケストラのための作品が異例と言ってよいほどに少ないことからも、それが窺われる。彼が名を成すに至った1910年代の中頃以降、バルトークの書いたオーケストラのための作品は「舞踏組曲(1923)」、「弦・打楽器・チェレスタのための音楽(1936)」、「弦楽のためのディヴェルティメント(1939)」、「管弦楽のための協奏曲(1943)」の4曲しか無い。またピアノ協奏曲は未完に終わった第3番までの3曲とヴァイオリン協奏曲が1曲、これも終結部を残して絶筆となったヴィオラ協奏曲の4曲あるのみである。
1950年代のモノラル録音。