34-20496
商品番号 34-20496

通販レコード→露ブラック銀文字盤
明日をもしれぬ時代の緊張感が、このような演奏にさせたのか、フルトヴェングラーだけが成し得た、人間感情の吐露が神々しさと凌ぎ合っている。 ― 今年1月末の鑑賞会で、『バイロイトの第九』を聴いて、ずっしりとした手応えを感じた参加者は多かったようだ。第一楽章が終わったところで深い深呼吸が起こった。ピリオド楽器演奏や、ベートーヴェン時代の音楽習慣が研究されて、それを反映した現代の演奏に慣れきると、極めて遅いテンポで、じっくりと始まって徐々に巨大に高揚していく。しかし、音楽が停滞したりもたれると感じることは全く有りません。フルトヴェングラーの演奏は急激なアッチェレランドなど部分的なデフォルメに驚かされるが、決して全体の統一感を損なわないし不思議と構造的な破綻を感じない。そんな相反することを同時に成し遂げられる演奏家はフルトヴェングラーしか居ないし、人間感情の吐露が神々しさと凌ぎ合っているところに魅力を覚えるのでしょう。フルトヴェングラーの『英雄』は10種類以上の演奏を現在は聞き比べることが出来るが、フォルテの一つ一つの音がまるで雷の一撃のように迫り来ますし、ウィーン・フィルのアンサンブルが驚くほど優秀で楽員が死んだ気になって弾いている姿が目に浮かびます。第二次世界大戦中のウィーンで収録され、マスターテープがソ連軍に接収された歴史的音源。本盤は1992年にメロディアより発売された全23巻のフルトヴェングラー・コレクションの中の第1巻で、新世界レコード社により輸入販売されたもの。戦時中の古い録音にしてはバランスが良く、この演奏は歴史的な記録ということを別にしても絶対に聴かれるべきです。明日をもしれぬ当時の時代の緊張感が、このような演奏にさせたのかヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、つねにトスカニーニ、ワルターと並称される20世紀最大の巨匠であるが、その役割は、ただ指揮者として偉大であったというばかりでなく唯物的感覚的な今日の音楽認識世界のなかで、正統的ロマン主義を意義づけ、音楽の思弁的有機的意味を復活した、というような点でも歴史的存在なのである。宇野功芳が1位に選ぶ究極のエロイカ。
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冒頭の二つの和音間の残響にまず痺れてしまう。こうでないと「エロイカ」は始まらないからだ。そしてチェロのテーマが朗々たる音量で歌い始め、テンポは悠々として急がず、この開始部、すべての点で最高である。第2主題に向けて前進性を増してゆくフルトヴェングラーは、その後曲想に従って緩急自在の棒さばきを示し、しかも音楽の呼吸と一体化して流れを失わず、名人芸の極みを見せてくれる。第2楽章は入魂の逸品で、ベートーヴェンでないところは一ヶ所として見られない。スケルツォ以下も、そのすべてが一期一会の音のドラマになっているのだ。 ― 宇野功芳が推す、1944年盤はいわゆる〈ウラニアのエロイカ〉だが、戦後、米ウラニア社がレコード化について事前にフルトヴェングラーの許可を得ずにLPを発売。演奏が白熱的なため話題になったが、訴訟沙汰になったために1958年に廃盤になり幻の逸品となってしまった。経緯を背景に一般にこれをして「ウラニアのエロイカ」と呼ばれ、フルトヴェングラーファン、「エロイカ」ファンの心をとらえてきた。フルトヴェングラーの「エロイカ」の録音は「運命」と並んで非常に多く、恐らく10種類以上は有るでしょうが、第二次世界大戦中、亡命せずにドイツに留まったフルトベングラーは、ナチスに協力するというよりは、自分が残ってドイツの文化を守ることで、芸術を脅かすもの全てに対抗しようとした。それはもちろんヒットラーに利用され、彼の奏でる音楽はドイツ国民を鼓舞し、戦争の悲惨な状況を慰める精神的柱となっていた。ナチスの崩壊後、ベルリンを占領したソビエトによって貴重な放送用の録音は全て持ち去られ、幻の演奏として辛うじてソ連のウラニアというレーベルから発売され、レアな音源として話題になっていた。その中でも超絶的名演として名高いベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」が、「ウラニアのエロイカ」だ。1944年12月19,20日ウィーン、ムジークフェラインでのRRG(ドイツ帝国放送)による聴衆なしの放送用録音。第1楽章の手に汗握る感興と推進力、ヴァイオリンの天を切り裂くが如き痛切な響き。第2楽章の沈静とロマン。第4楽章の雄大さ。この曲に求めるべきもののすべてが、凝縮されている。やはり最も印象的な、第1楽章では構成と劇的な思考がみごとに結合している。この結合をフルトヴェングラーほどはっきりと示した指揮者はまず見当たらない。彼のテンポはクレンペラーより速い ― トスカニーニより柔軟性があるが、彼とほぼ同じである。トランペットが、せわしく疾駆するオーケストラに乗って興奮を誘う効果に持っていく。再現部から引き続く緊迫したフレージングは、この楽章でもっとも際立った箇所である。
葬送行進曲は、1952年のEMIスタジオ録音盤にスタイルは、よく似ているが気合の入りようが異なるために細部の感情移入が強く、それに伴う緊張感が大いに高まっており比べてよりはるかに優れた演奏となっている。第2楽章全体に悲嘆の情緒に包まれている中で肯定的な意志の力が一貫しており、非常に強固なものを感じる。ここで重要なのは細部の正確さである。それぞれの小さなフレーズがはっきり示され、テクスチャアは完全にバランスがとれている。冒頭の引きずるようなフレーズにおける弦楽器の低音の明快さ、チェロとコントラバスのアタックで始まり、長く抑制された突き刺すようなトランペットの調べで最高潮に達するこの楽章のクライマックスにおける偉大な爆発は、楽章全体のバランスを崩すことなく、その完全な重量を与えられている。戦時下で生死を分けるようなひっ迫したものでなく、大らかで、柔らかく、包み込むようでもある。これがドイツの響きなのか ― ウィーンの華麗で瀟洒なものとも違う、フランスの雅ですましたものとも違う、イギリスのクールで透明な美しさとも違う。重厚で、渋く、ある種の田舎臭さを守っているのもドイツの音だが、それに積み重なるひたむきな精神のあり方を柔らかな響きの支えとした、ドイツの違う一面に気付かされた。宗教や権利の自由を戦いによって勝ち取ってきた、血塗られた歴史を持ち、国家の統一が19世紀末まで成されていなかっただいつだが、そんな中でもこんな素朴な伸びやかさを持ち続けることの意味の大きさが分かる。ベルリンの前衛的文化やナチスのようなエリート主義とは違う、地方での庶民の質実で大らかな生活があってはじめて、高い文化のレベルが維持されている。人工的人間的な演出ではない。この時のフルトヴェングラーにしか成し得ることのできなかった奇跡に近い、完璧な演奏。アナログLP時代、この録音はファン垂唾の逸品だった。アメリカとフランスの海賊盤レーベルのウラニアが東ドイツの放送局から、この録音テープを購入し1953年にフルトヴェングラーの許可なくこの録音をレコード化して発売、すぐに発売禁止措置がとられた。入手困難となったため以後、しばらくは「幻」となったが原テープを「戦利品」として接収していたソ連から、あるとき突然メロディア盤として市場に出た。さらにイギリスのレコード会社ハンター社がユニコーンレーベルとして1968年7月に発売、契約を結んだヤマハ経由でコロンビアレーベルで1970年にDXMシリーズとして発売した。アメリカのVOXも「TURNABOUT」で同じものを廉価盤で出し、やはり日本に大量流入(TV4343)。いずれにしてもエリザベート夫人には発売の了解を得ている。
先輩格のアルトゥール・ニキッシュ(Nikisch Artúr)から習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニーやウィーン・フィルハーモニーをヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンにおもむき、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区であらためて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味ぶかく見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。 … トスカニーニはムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。マンはヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてウィルヘルム・ケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険にさらすこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィル、つまりドイツのオーケストラの演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂のるつぼと化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルハーモニーとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」「運命」の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念をふたたび呼び覚ました。
フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたカラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
1944年12月16日ウィーン、ムジークフェラインザールでのSP録音。
RU MELODIA M10 06443 フルトヴェングラー ベート…
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