34-22064

商品番号 34-22064

通販レコード→波レッド黒文字 フラット重量盤[レア]

帝王カラヤンと同じ没後30年の名匠 ― 第二次世界大戦中にドイツから逃れた音楽家がいる一方で、クラクフ音楽院にてヴァイオリンと作曲を学んだヴィトルト・ロヴィツキ(Witold Rowicki, 1914.2.26〜1989.10.1)は、戦時中にドイツに渡り、ルドルフ・ヒンデミット(有名な作曲家パウル・ヒンデミットの弟)に指揮法の個人指導を受けるが、終戦まではヴァイオリン奏者として活動を続けた。彼はロシア領タガンログに生まれた、ポーランドの指揮者。本姓はカウカ(Kałka)である。ヤン・クレンツやスタニスワフ・ヴィスウォツキとともに、俗に「ポーランド三羽烏」と並び称せられた。戦後は祖国解放までにポーランド国立放送交響楽団やワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団の結成に参加し、1958年から1977年まで後者の音楽監督を務めた。名声が国境を越えてから、1982年から1985年までバンベルク交響楽団の首席指揮者に迎えられた。 彼もまたヘルベルト・フォン・カラヤンと同じ1989年にこの世を去ったが、巨匠というより名匠と呼ぶのが相応しい指揮者であった。1967年から6年の歳月を掛けて完成させたドヴォルザークの交響曲全集は未だに知る人ぞ知る名盤に挙げられる。ショパン国際ピアノ・コンクールの協奏曲審査でのオーケストラ演奏でもいくつかの録音がある。よく知られているのはマルタ・アルゲリッチがコンクールで第1位を得た時のショパンのピアノ協奏曲第1番のライブ録音であろうが、ほか、同時代のポーランド人作曲家(例えばシマノフスキやルトスワフスキ)の諸作品を好んで録音した。同国人でもあるシマノフスキの作品をまとめて録音したものが、MUZAから出ている。ポーランドが国家的プロジェクトで録音したシマノフスキだろうと思うが、その中心的な指揮者にロヴィツキが選ばれたことだけでも、彼がポーランドでどれだけ尊敬されていた音楽家であったかがわかるだろう。民族色の濃い作品を得意としたが、その堅実ななかにも切れ味鋭く、あるいは渋い表現は、決して演奏を通俗化させるものではなかった。1970年代にすでに読響との共演でドヴォルザークの「新世界より」の演奏を残したり、鶴屋百貨店クラシックサロンでの熊本地震後すぐに開いた鑑賞会で聴いてもらった、中村紘子とのショパンの協奏曲第1番などを録音するなど、日本にとって馴染み深い指揮者でもあったのだ。キャリアに比べて影が薄いが、味わいのある演奏だったことを思い出させ、渋いというよりどことなく温かい人肌を感じさせるような優しさがあることにすぐに気づく。
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ポーランド楽派の黎明期に活躍したヴィトルト・ルトスワフスキ(Witold Lutosławski,1913〜1994)は、1937年にワルシャワ音楽院を卒業するが、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻から、戦後の共産主義政権の樹立と、表現を旨とする者として複雑な時代を生きた作曲家だ。ナチス占領下のワルシャワでは、音楽院の閉鎖、ポーランド作品の演奏禁止、集会、コンサートの禁止など、厳しい弾圧の下におかれた。独ソ戦でソ連が反撃に転ずるとドイツ占領地域はソ連軍によって解放されていったが、1945年にポーランドはソ連の占領下に置かれることになる。そしてポツダム会談の決定によって新たにポーランド共和国に定められた領土は、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲することになる。それからのポーランドは、ヤルタ会談などで仕組まれた社会主義体制に巻き込まれていきました。芸術の世界も言わゆる〝スターリニズム ― 社会主義レアリズム〟のあおりを受けたのです。前衛音楽を〝西側世界の堕落したブルジョワ音楽〟として認めない〝社会主義リアリズム〟が強要され、作曲家も音楽によって社会主義を讃えなければならないとされていた。ポーランドの人たちにとっての〝音楽〟とは、食べる物以上に生きていくための日々の糧なのです。ナチス占領下の時も、この〝社会主義レアリズム〟の嵐が吹き荒れていた時でも、ポーランドではルトスワフスキの指導のもと、未来ある作曲家が集まって極秘裏にヨーロッパの最新の作曲技法を学んでいたのです。やがて1953年にヨシフ・スターリンが死去し、ニキータ・フルシチョフがソ連共産党書記長に就任すると、〝雪解け〟の時代がやってくる。遂に、ルトスワフスキはソ連政府の一切の文化的抑制に対して屈しないことを公的に表明し、第1回ワルシャワの秋、国際現代音楽祭が開催されることとなった。
そうして1954年に代表作、『管弦楽のための協奏曲』をワルシャワ国立フィルハーモニー交響楽団の音楽監督だったヴィトルト・ロヴィツキの委嘱に基づき1950年から1954年にかけて作曲した。1954年11月にロヴィツキ指揮ワルシャワ・フィルにより初演され、UNESCO国際作曲家会議で第一位受賞、頭角を現す。1959年〜1965年は、 国際現代音楽協会ISCMのポーランド支部委員に選出。1963年からは、ヨーロッパ全土で活躍。各地で絶賛される。作曲時期、特に「ヴェネチアの遊び」以前と以後で作風は大きく変わるが、音楽の持つエネルギーを完璧に制御する技術を手中に収め、クライマックスを築く書法は生涯全体において共通する。第1楽章「序奏」、第2楽章「夜の奇想曲とアリオーソ」、第3楽章「パッサカリア、トッカータとコラール」の3楽章から成る、『管弦楽のための協奏曲』ではコンチェルト・グロッソの様式が取り入れられていたが、1968年に作曲された《オーケストラのための書》は、それまでの新古典主義的作風から脱皮し、前衛主義の影響を受けていた時期に当たる。よって、作風も無調的で旋律は見出し難く、響きは混沌としている。とても長い時間かけて段々とずり上がったり、ずり下がったりを繰り返す弦楽器の大規模なグリッサンドがとても不気味な印象を与える。文字面では如何にも取りつき難しい音楽に聴こえるが、実に伝統的な響きもその奥から聴こえて来る。大オーケストラを駆使し混沌としたソノリティを築きながら、伝統的な構成感や覚えやすい特徴的なフレーズを見いだせるところが、人気の秘密かもしれない。1983年からは、伝統的なスタイル「交響曲」、「協奏曲」、「ファンファーレ」、「パルティータ」といった楽曲を作曲する事が優勢になった。ポーランド初のISCM名誉会員へ選出。ヴィトルト・ルトスワフスキの民族主義から12音を経て、のちには不確定性や偶然性といったスタイルまで追究した音楽作りは、ピアニストとしても指揮者としても一流だったという演奏家としての手腕の反映もあってか、現代作品にも関わらず取り上げられることが多く、伝統から前衛まで守備範囲とした多彩な内容が各国で高く評価されていました。アンネ=ゾフィー・ムターにヴァイオリン協奏曲を書いたり、ピアノ協奏曲の初演をクリスティアン・ツィメルマンが行うなど、著名な音楽家からの支持も篤く、録音も多い。1994年2月7日、ヴァイオリン協奏曲を作曲中に急逝。81歳没。妻も同年に没した。
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  • 「Polskie Nagrania Muza」はポーランドの国営レーベル。ポーランドのヴォイチェフ・キラールの作品と盟友ルトスワフスキの作品を、ロヴィツキーが入れた珍しい盤。何とキラールのサインが書いてあります。Engineer – K. Urbańska, Producer – J. Urbański
  • PL MUZA SX1370 ロヴィツキー・ワルシャワ国立フィル w…
  • PL MUZA SX1370 ロヴィツキー・ワルシャワ国立フィル w…
Venetian Games / Symphony 2
Lutoslawski
Polskie Nagrania
1993-10-08