34-20549
商品番号 34-20549

通販レコード→蘭レッド銀文字盤
各曲の個性を鮮やかに弾き分けたグリュミオーの名盤― ヴァイオリンの艶やかな美しさと端正でエレガントなスタイルで人気を博した名手アルテュール・グリュミオー。グリュミオーは、あらゆるジャンルにわたってヴァイオリン作品を幅広く演奏・録音した。そのレパートリーは、バッハやヴィヴァルディといったバロック音楽の作曲家をはじめとして、モーツァルトやベートーヴェン、ブラームスといった古典派やロマン派の協奏曲やソナタ、ヴィオッティの協奏曲、パガニーニの超絶技巧協奏曲やその他協奏作品、フランクやフォーレのソナタといった近代以降の定番や、ヴュータンのようなお国ものに加えて、ベルクやストラヴィンスキーのような20世紀の音楽までに及んでいる。ヒューマンな心の歌を奏でるのをモットーとしていたグリュミオーのレパートリーには珍しい20世紀の作曲家の作品2作をおさめた貴重な録音です。ストラヴィンスキーの音楽は常に革新的であると同時に新古典主義にみられるように過去の音楽に、その本流を探り、また12音技法の導入とジャズヘの関心という新しいものの弛まぬ摂取欲、そして作品の独創的な楽器編成、響きの不調和および独特なリズムへの関心は今までの音楽の殻を破るものであった。12音技法の中に深い抒情をたたえたベルクと、晴れやかで乾いたストラヴィンスキーとの描き分けが見事なグリュミオーの名盤。特に、グリュミオーのヴィブラートはバイオリンの演奏史上最も美しいと称される。いずれの曲目においても、グリュミオー独特のヴァイオリンの艶やかな音色と、瑞々しいまでの抒情性が抜きん出ており、同時に気高い品格を感じさせるのがグリュミオーの演奏様式の特色である。グリュミオーの柔軟な表現が作品に新たな光を投げかけています。ピカソのように曲のスタイルを変えるとまで言われたストラヴィンスキーのイタリア趣味が表現された協奏曲で、グリュミオーは一人称で対応する。メロディやパッセージが表情を変えようとも演奏する主体は「私」である。これはバッハやラロのスペイン交響曲でも同様だった。1935年8月11日に完成されたアルバン・ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》には、「ある天使の思い出に」(Dem Andenken eines Engels)の献辞が付されている。この「天使」とは誰のことか、親しくしていたマーラーの娘マノンが19歳の若さで急死した訃報を聞いたベルクが一気に書き上げたとか、虫刺されから敗血症を起こしたベルクは、この作品が自分自身へのレクイエムになるであろうと予測していた通り、その年のクリスマスに急逝、というところに興味惹かれて聴いた最初が、グリュミオー盤だったのが運悪かった。その「私」を押し出した美しいヴァイオリン演奏に、その後「作曲家」のスコアにそった演奏が味気ないものに思えたままいる。そんな思いが長く続いていて、“ベルクのヴァイオリン協奏曲を聴きたかったら、このレコードは危険です”と商品ポップに書いたら叱られた。もっぱらストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲演奏を比較する時のリファレンスとして、長く付き合うことになったレコードです。
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アルテュール・グリュミオー(Arthur Grumiaux、1921年3月21日〜1986年10月16日)はベルギーのヴァイオリニスト。ヴィレール・ペルワン(Villers-Perwin、ワロン地域のエノー州)で生まれた。労働者階級の出身だが、祖父の奨めにより4歳でヴァイオリンを学び、6歳でシャルルロワ音楽院に入り、11歳になるまでにシャルルロワ音楽学校のヴァイオリン科とピアノ科の両方で首席をとった。1933年ブリュッセル音楽院に進み、名教師アルフレッド・デュボワに師事。デュボアはウジューヌ・イザイの弟子にあたり、ブリュミオーはまさにベルギーのヴァイオリン演奏伝統を一身に受け継いだ訳です。1949年にはグリュミオー自身も、そのブリュッセル王立音楽院のヴァイオリン科で教鞭を執った。パリに留学してジョルジュ・エネスコに入門もして、早くからその才能は認められました。第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツ占領下のベルギーで室内楽の演奏旅行を行なった。戦後になってからソリストとしての名声がうなぎ上りとなり、ピアニストのクララ・ハスキルをパートナーに迎えて演奏活動を行なった。その美しい音色と華やかで流麗な芸風は“ジャック・ティボーの再来”と言われ、実演に、LPレコードに活躍しました。1960年にハスキルが急死してからは、一個人としても演奏家としても虚脱感に見舞われている。グリュミオーは音楽界への貢献が認められ、1973年に国王ボードゥアン1世により男爵に叙爵された。その後も持病の糖尿病に苦しめられながらヴァイオリンの指導を続けたが、1986年に心臓発作によりブリュッセルにて他界した。愛用したヴァイオリンは、グァルネリ・デル・ジェス:1744年製「Rose」。ストラディヴァリウス:1715年製「ティティアン(”Titian”)」、1727年製の「エクス=ジェネラル・デュポン(“Ex-General Dupont”)」も所有。ジャン=バティスト・ヴィヨーム:1866年製は「エクス=グリュミオー」として知られ、現在はジェニファー・コウが所有している。肩当ては、ドイツのGEWA社のModell ll を使用していた。
ストラヴィンスキーは、ペテルブルグ近郊のオラニエンバウムで三男として生まれた。父フョードルは、ペテルブルクのマリインスキー劇場で26年も務めた有名な主役バス歌手であった。家には図書館並みの20万冊もの蔵書があった。大学でリムスキー=コルサコフの息子と知り合い、20歳の時リムスキ=コルサコフに作曲を学ぶ機縁となった。両親は息子を音楽家にするつもりはなく、このまま1905年卒業まで法律を一応学んだが1902年末に父が亡くなり、この時すでに作曲家になる決心をしていた。ストラヴィンスキーの音楽の特徴は、西欧とは異なったビザンツ系の文化形態にあったロシアの音楽に端を発すると思われる。1908年、自作曲『スケルツォ・ファンタスティック』と『花火』を初演すると、ロシア=バレエ界に君臨したディアギレフに見出されバレエ音楽『火の鳥』(1910)、『ペトルーシュカ』(1911)を次々に作曲しパリで初演し、その名を不動のものとした。その生涯は実に旅行による一生といってよくヨーロッパの多くの国に滞在し、それぞれの地で多くの作品を生んでいる。ストラヴィンスキーの旋律、和声、リズムは独特といえ、対位法を持たない彼の音楽が管弦楽法の楽器の使い方で特徴づけられていく。第一次世界大戦勃発とともにフランスに住み、初期の表現主義、原始主義的作風から新古典主義に移っていく。
ストラヴィンスキーの新古典主義作品をあらためて聴いてみると、ラヴェル、ミヨー、プーランクあたりの新古典主義とは随分趣が違うように感じる。かなり新鮮に聴こえるものです。ストラヴィンスキーが1931年に作曲した、この「ヴァイオリン協奏曲」は、非常に変わったスタイルを持っています。ストラヴィンスキーの説明によると、バロック音楽に敬意を払って作曲したということですが、果たして、これはどうだか。かなり怪しく、胡散臭い。でも、この胡散臭さが、この作品の魅力になっています。全3楽章の構成であるが第2楽章のアリアを2つに分けることがあるため、「トッカータ」、「アリアⅠ」、「アリアⅡ」、「カプリッチョ」の4楽章構成。この構成を見ても判る通り古典的な協奏曲とは違う、上辺は古典曲の殻をかぶせてあるものの、その中身はまったくの現代音楽になっているというディヴェルティメント風で滅法楽しい。おそらく、この手の作品には古今の様々な作品のオマージュやらパロディが隠されているような気がしてなりませんが、「アリア」冒頭のヴァイオリンの和音は「トリスタンとイゾルデ」第2幕冒頭の引用かと思われますし、終楽章はバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番を連想させます。まるで、おにぎりを食べたのに、その具は生ウニだったみたいな感覚。多くの現代音楽とストラヴィンスキーの代表作品、さらにヴァイオリン協奏曲の歴史を知っていれば知っているほど面白く聴くことができる曲です。バロック音楽から借りてきたスタイルということなんでしょうが、ヴィヴァルディとも良く似たところがある。ストラヴィンスキーの場合、ソロ・ヴァイオリンの動きを阻害するパートは一切削除されており、簡潔なオーケストレーションが施されておりヴァイオリンの動きが良くわかる。それでいて、音色のパレットは非常に豊富です。ヴァイオリンと他の楽器1種類をパートナーに、刻々と進行されていくオーケストレーションの工夫。これがまた舞踏会でパートナーを変えていくという風でもあり、他の作曲家から借用して来たメロディーが原曲が何か気が付かないで通りすぎるほどにストラヴィンスキー流にアレンジされて登場する。果ては自作の火の鳥の有名な旋律がちらりと出てくる、どこからどこまでが本物で、どこからどこまでが偽物なのか、こうした聴き方というのも面白いものです。古典をベースに独自の視点で洗練していく、そこをストラヴィンスキーは新古典主義の目標に見据えていたのでしょう。
アルバン・マリア・ヨハネス・ベルク(Alban Maria Johannes Berg、1885年2月9日〜1935年12月24日)は新ウィーン楽派の一員として、シェーンベルク、ヴェーベルンと共に活躍したオーストリアの作曲家。師のシェーンベルクのもと、ヴェーベルンが未来を志向したと言われるのに対し、ベルクは過去と密接に繋がって無調や十二音の作品でさえ後期ロマン派的で濃密な気配を感じさせたのがポイント。裕福な商人の家庭に生まれたベルクは最初、文学や演劇に関心を持った少年でしたが、15歳から独学で作曲の勉強を開始し、歌曲などを書いています。この頃、恋愛事件によって自殺未遂まで追い詰められるなど、きわめて多感だったベルクでしたがシェーンベルクとの出会いによって、作曲家として身を立てることを決意したのも同じ頃のことでした。彼がシェーンベルクに師事したのは1904年から1910年までのことで、その間、ピアノ・ソナタ作品1や、4つの歌曲作品2、弦楽四重奏曲作品3を作曲しています。1911年には、オペラ歌手志望のヘレーネ・ナホヴスキーと結婚。翌年には《アルテンベルク歌曲集》を完成し、同作品は1913年3月31日にシェーンベルクの指揮によって演奏された際、大騒ぎを巻き起こし遂には警察沙汰にまでなるという反響を呼びました。シェーンベルクに批判されたベルクは、それに応えるため師の指示通りにオーケストラのための小品を書きます。が、実際の作品は小品とは名ばかりの強烈な作品となり、マーラー風の音楽をシェーンベルク的な語法で要約したかのような印象的な作品となりました。ちなみに同作品には、マーラーが第6交響曲で用いた「ハンマー打撃」の手法が用いられているのも興味深いところです。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
1967年1月(ベルク)、1966年12月(ストラヴィンスキー)アムステルダム、コンセルトヘボウでのステレオ録音。
NL PHIL SAL3650 グルミュオー ストラヴィンスキー・ヴ…
NL PHIL SAL3650 グルミュオー ストラヴィンスキー・ヴ…