34-16980

商品番号 34-16980

通販レコード→蘭シルヴァー濃紺文字盤 DIGITAL RECORDING

ドヴォルザーク等の中央ヨーロッパ音楽を得意とするドラティによる決定盤。 ― ドヴォルザークの柔らかくメランコリー全開の旋律の数々に心を奪われます。昨年、ハンガリー出身の名指揮者アンタル・ドラティが没後30年を迎えました。このドラティ盤は「のだめカンタービレ」で一躍有名になった「チェコ組曲」をはじめ、あまり演奏される機会が少ない、しかし魅力的なドヴォルザークの管弦楽作品集。ちょっと構えた感のある交響曲よりも、こういうドヴォルザークが好きだ。「新世界交響曲」を何度も聴くのなら、そのうちに本盤からの1曲でも聴く時間にあてて欲しいと思うくらい。全編、ドヴォルザークらしい魅力に溢れている。演奏はデトロイト交響楽団。と言っても編成は小さなものです。「前奏曲(パストラーレ)」 「ポルカ」 「ソウセドゥスカ(メヌエット)」 「ロマンス」 「フィナーレ(フリアント)」の5曲からなる《チェコ組曲》は、木管、ホルン、弦楽合奏が中心で、最後の曲にのみトランペットとティンパニが加わります。《プラハ・ワルツ》、《ポロネーズ》、《ポルカ》は1961年にようやく国際原典版として出版された。日本盤のLPも出ていたと思いますが、当時CDは出たのでしょうか。世間ではあまり評判にならなかったと思います。しかし録音、演奏ともデッカとしても最高クラスでしょう。オーケストラはマイクに近く、デジタル録音の成果を見せつけるように、細部の見通しも明瞭。打楽器の響きの極めて自然さが耳を惹きます。ドラティのDECCA録音といえば、ハイドンの交響曲全集があまりにも有名ですが、ハイドンからチャイコフスキーまで、広いレパートリーの中でもバレエ音楽が出色なのは「外盤A級セレクション」で知られる長岡鉄男氏が、「自然光で照明したような影があり、表情たっぷりゆったりとして、厚みと奥行きを感じさせる。いささかホコリは舞っているが、空気を感じさせる演奏だ。やや太めだが、馬力はあるほう。」と評価している。ドラティの作り出す音楽は、飾り気がなく無骨で筋肉質に引き締まった印象があり、特にそのリズム感は素晴らしく、聴くものを興奮させる力強さに溢れています。なかでもストラヴィンスキーの「春の祭典」は、20世紀最高の快演でしょう。
快活で豪快な気風に富む演奏で楽しませてくれるアンタル・ドラティ(Antal Doráti)は1906年4月9日、ハンガリーのブダペスト生まれの指揮者。1988年11月13日、スイスのベルンにて没。生地のフランツ・リスト音楽院でコダーイに師事した。ドラティが「コダーイの思い出」に書いているようにこの音楽院で38歳のコダーイは14歳のドラティをクラスの担当として4年間教えた。国民的作曲家であったコダーイと、少年ドラティの、多感な時期での畏敬と友情は生涯続いた。ドラティは作曲と指揮、チェロ、ピアノを勉強し、1924年に指揮デビュー。まず1924年から1933年までの9年間は、地元ブダペストのハンガリー国立歌劇場のコレペティトアからスタートしてドイツのミュンスター歌劇場の第1楽長までキャリア・アップ、ナチ政権樹立までの4年間をドイツのオペラ指揮者として過ごしています。ドラティの最初の名前は「アントン・ドイチュ」でしたが、オーストリア=ハンガリー帝国が第1次世界大戦の敗戦で消失し、短期間の紆余曲折を経て新たに「ハンガリー王国」が誕生すると、それまでの親ユダヤ的な政策方針が廃止、1920年にさっそく反ユダヤ法が整備され始めてさまざまな規制をおこなうようになったため、まず「アントン」を、母方の祖父の名でもあるハンガリー語の「アンタル」に変更しています。とはいえハンガリーの反ユダヤ法はドイツに較べればかなり緩やかなもので、たとえば音楽院のユダヤ系の学生数を、人口比に合わせた約6%に制限するという法律に対し、実際には約41%も在籍していたというほどで、ユダヤ教徒ではなかったドラティは、姓の変更までは行ないませんでした。しかし職場をドイツの公立歌劇場に移し、1933年にナチ政権が成立すると、姓の「ドイチュ」をハンガリー語の「ドラティ」に変更、以後は「アンタル・ドラティ」という名で過ごすこととなります。1934年にバレエ・リュス・ド・モンテカルロの指揮者に加わると、指揮と作曲の両面で活躍。ブダペストやドレスデンの国立歌劇場の指揮者を務めていたが、1935年、ナチスに追われイギリスに渡る。1940年2月にはヨハン・シュトラウス2世のワルツやポルカをアレンジしたバレエ《卒業記念舞踏会》をシドニーで初演しました。同団を退団後は、バレエ・シアターの指揮者に就任、1945年まで務めました。このように、ドラティはキャリアの初期をオペラ、バレエの指揮で名を馳せました。戦後はコンサート指揮者として活躍。ダラス交響楽団(1945〜48)、ミネアポリス交響楽団(1949〜60)、BBC交響楽団(1963〜66)、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団(1966〜70)、ワシントン・ナショナル交響楽団(1970〜77)、デトロイト交響楽団(1977〜81)、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(1975〜79)の首席指揮者・音楽監督を歴任し、同時に欧米の主要なオーケストラに多数客演して、数多くのLPレコードを録音。
オーケストラを育成する手腕は最高といわれ、ダラス交響楽団、ミネアポリス交響楽団、ナショナル交響楽団、デトロイト交響楽団などを世界一流のオーケストラに育て上げたことは有名です。屈指の〝オーケストラ・ビルダー〟として知られたアンタル・ドラティは、どんなオーケストラが相手でも、楽員の実力を着実に引き出し、アンサンブルを的確に仕上げる見事な手腕の持ち主でした。その後、ニューヨークのオペラ団体「ニュー・オペラ・カンパニー」の音楽監督に就任。臨機応変な能力の求められるバレエ団の指揮者・編曲者として成功した結果、英H.M.V.にさまざまなバレエ音楽をレコーディングできることとなり、その後、コンサート・オーケストラの音楽監督や客演指揮などに本格的に進出することとなります。このようなキャリアの流れは、実際の演奏時のトラブルへの対応力、財政面まで含む運営問題の解決力、レコード会社との交渉力などの向上にも結び付き、さらに数多くの客演や臨時編成アンサンブルとの付き合いによって育まれた強力な指導力によって、〝オーケストラ・ビルダー〟とも称えられる独自の個性を獲得することに繋がって行きます。そういう時期にあった、1937年から1967年にかけての録音では、ドラティが巨匠風スタイルに落ち着く前の、エネルギッシュで推進力に富む演奏を楽しむことができます。デトロイト交響楽団は、1914年に設立された。1922年2月10日に、ピアニストのアルトゥール・シュナーベルを迎えて、世界で最初にラジオ放送を行なった。1926年からは、児童のための教育的な無料演奏会も行なっている。ポール・パレーが音楽監督を務めた時代に飛躍的な発展を遂げ、アメリカ十大オーケストラのひとつに数えられるまでに躍進した。パレーとデトロイト交響楽団はマーキュリー・レコードにサン・サーンスの交響曲第3番を始めとする大量の録音を行い、その名声を全世界に轟かせた。しかしパレーとの黄金時代のあと、シクステン・エールリング(1963〜1973)、アルド・チェッカート(1973〜1977)が務めたが、デトロイトの街自体の衰退に合わせるかのようにチケット売上も減少し、楽団の財政状況の悪化と、レコーディングの機会も無くなるなどが相俟って、低迷が続いていました。
が、アンタル・ドラティの音楽監督就任によって再び黄金時代を迎えた。ドラティはいつものように厳しいトレーニングで演奏水準を全盛期のレヴェルにまで回復すると、オーケストラの起死回生のプランとして、ベートーヴェンの交響曲全曲演奏の様子を撮影して、アメリカの公共放送ネットワークであるPBSチャンネルで放映する計画を立てます。そのために、フォード自動車から325,000ドルの助成金を獲得することにも成功し、1978年に順調なスタートを切ることになります。当時ハイドン・シリーズの好調なセールスなどで親しい関係にあったデッカは、デトロイト交響楽団とのレコーディングにも乗り出し、1978年4月には、ドラティの名を一躍有名にした縁起の良い作品『1812年』を録音します。エンディングにはフィラデルフィアの自由の鐘と、ワシントンの国立大聖堂の鐘、および南北戦争で使われたカノン砲が用いられるなど話題性も抜群の録音でした。もっとも、ドラティの指揮そのものは20年を経たこともあってか、巨匠風な落ち着いたものとなっており、ヨーロピアンな洗練と重厚さといったサウンドで、ミネアポリス盤とは別な境地を描き出しています。ドラティは以後もデトロイト交響楽団とデッカへの録音を続け、シマノフスキ、ドヴォルザーク、コープランド、ストラヴィンスキー、バルトーク、リヒャルト・シュトラウス、グローフェ、リスト、ラヴェル等々、落ち着いた演奏スタイルによって数多くの優秀録音盤を生み出しています。ドラティ指揮の《春の祭典》のCDは、デトロイト響にとってグランプリ・デュ・ディスク大賞に輝いた最初のCDとなった。
第一次世界大戦の終息とともに共和国としての独立を達成したポーランドにおいて、その独立から1939年のドイツ軍侵攻による独立喪失までのいわゆる戦間期は、ポーランド語文学の中から優れたユダヤ系作家が次々と登場し、そのすぐ隣りでイディッシュ語文学が世界的に見てももっとも勢いがあった時期です。ハンガリーは、ユダヤ系の優れた指揮者を数多く輩出しており、1933年にナチ政権が成立すると、世界各国で目立つようになってきた反ユダヤ主義勢力の攻撃を少しでもかわす狙いがあったようで、アンタル・ドラティの、祖国をあとにしたユダヤ系ハンガリー人指揮者たちは、ファースト・ネームを他国語仕様に変更する場合が多いのですが、ヤーノシュ・リヒターからハンス・リヒターへ、アルトゥール・ニキシュから、綴りにhを追加したアルトゥール・ニキシュへ、フリジェシュ・ライナーから、フリッツ(フレデリック)・ライナーへ、ジョージ・セルはジェルジをゲオルクに、ユージン・オーマンディは、イェヌーから、カーロイ・ガラグリは、フォンも追加したカール・フォン、ゲオルグ・ショルティは、ジョルジをジョージに変更した。ポーランド人作曲家では、よっぽどショパンの方が有名ですが、成人してからは父親の国であるフランスを中心に暮らしていたこともあって、通常、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス名で呼ばれ、祖国ポーランドでは「フリデリク・フランツィシェク・ショペン」と呼ばれています。日本でその名を知る人は殆どいませんが、ポーランド語の教科書の中においては、スタニスワフ・モニューシュコ(Stanisław Moniuszko)は、ポーランド・オペラの父と称される。ショパンも歌曲を作曲した、アダム・ミツキエヴィチらの詩による12冊の歌曲集も残した。大衆的な題材を用いて、愛国主義的な舞台作品を残し、同じような傾向のバレエ音楽も手がけた。ポーランドのロマン主義音楽界において、モニューシュコはショパン以上に意味を持つ作曲家であった。今日でも、全てのポーランド人はモニューシュコの音楽を教育の中で必ず通過しなければならないのである。カロル・シマノフスキは、「国際的なショパンとローカルなモニューシュコ」という比較を行い、モニューシュコのもつ安易な地域色を克服することが20世紀ポーランド楽壇の課題であると喝破した。
ポロネーズやマズルカを世界にまで知らしめたショパンの功績は偉大と言う他ない。ポロネーズやマズルカはポーランドの舞曲だというイメージが、もっぱらショパン=ポーランド人という連想に由来している。地域ごとに固有の舞踊に起源をもつリズムを用いた楽曲の譜例が、ルネサンス期には既に多く見られるから、おそらく16、17世紀頃には、他のヨーロッパ諸国と同様、ポーランドの農村においても存在していたと考えられている。「ポーランド式の行列ダンス」が最初に言及されるのは1733年のフランス語の文献で、「1709年にフリードリヒ1世の宮殿の舞踏会で踊られた」とある。17世紀から18世紀にかけての、バロックや古典派初期の作曲家の手になる器楽のために書かれた代表的なものとしては、ヨハン・ゼバスチャン・バッハの『フランス組曲第6番』(1723年頃)や『管弦楽組曲第2番』(1730年代末)の中に見られる〝ポロネーズ〟があげられる。ポーランド内外で、人々がポーランド発祥と考えたり、ポーランド風だと感じた舞踊や舞曲を一般に、「ポーランド風の」という意味を持つフランス語の形容詞でポロネーズ(Polonaise)と呼んたのがことの始まりで、ポーランドで一般的になっている舞踊が国外に広まった言葉ではなかった。さて、現在ポーランドの首都であるワルシャワを中心としたマゾフシェ地方の農村で、17世紀頃から主に踊られたり歌われたりした、民俗舞踊や婚礼歌が今日〝ポロネーズ〟と呼ばれている舞踊・舞曲の前身とされている。やがて土着の小士族階級で踊られるようになり、貴族、宮廷へ広まることとなった。18世紀当時、ヨーロッパ中の貴族社会の共通語はフランス語であったことから、小士族階級や貴族たちはこの舞踊をフランス語でポーランド舞踊(la Danse Polonaise)と日常的に呼称していたが、やがて舞踊に当たる語を省いたポロネーズという名称で通るようになった。こうしてポロネーズのヨーロッパ中への受容によって、フランス語名がヨーロッパ中の宮廷に知れわたることとなったのです。
ポロネーズが小士族階級や貴族の屋敷で踊られ始めた当初、そのバックで宮廷付きの楽団によって生演奏されたポロネーズは、もっぱら踊りのための実用音楽として大量に作曲された。そしてコンサートで聴かれるようになってきたポロネーズは、音楽だけでも独立した芸術音楽としての性格を持ち始める。18世紀末頃になると、舞踏を前提としない純粋に演奏会目的の器楽曲や歌曲が登場するようになる。ピアノ曲としては18世紀末のミハウ・クレオファス・オギンスキ(Michał Kleofas Ogiński, 1765〜1833)を筆頭に、ショパンやスタニスワフ・モニューシュコ(Stanisław Moniuszko, 1819〜1872)を経て、19世紀末のカロル・シマノフスキ(Karol Szymanowski, 1882〜1937)にまで至る系譜がある。19世紀のごく初期の段階からは管弦楽曲向けにも書かれ、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、リスト、ワーグナーなど後期古典派やロマン派を代表する各国の作曲家の多くが、優れた作品を多く残している。器楽曲ポロネーズは、1792年から1830年の間に世界各国の作曲家680名によって、3,439曲 ― このうちポーランド作曲家163名、1,004曲が作曲されている。さらに1831年から1981年では作曲家数567名、曲数1,508曲 ― このうちポーランド作曲家は約400名で1,100曲となっていることから芸術音楽としてのポロネーズの人気ぶりは容易に知ることができる。18世紀末以来100年以上にわたって地図上からポーランドの名が消えた時代、ポーランド人が何より望んだのは祖国の回復であった。それは、領土としてのポーランド国家の復活という意味だけでなく、小士族階級共和制による平和で豊かな文化を持つ理想郷の実現という意味が込められていた。小士族階級のみならずポーランド国民のシンボルともなっていった〝ポロネーズ〟はポーランド人にとって次第にある特殊な意味を持つようになってきた。11月蜂起後から現れてくる標題つきのポロネーズ(軍隊ポロネーズ、英雄ポロネーズ)も、多分に愛国的であった。ポロネーズを書くこと、歌うこと、演奏すること、これらが即ち、亡国のポーランド人にとって愛国的表明となったのである。ショパンは少年時代にワルシャワ周辺の農村で、民俗舞踊や民謡に直接触れた経験をもとにしてその後の作曲活動を行っている。18世紀末から19世紀前半にかけて、ポーランド分割の頃からポーランド各地の民謡や民俗文化の収集、出版が盛んに行われるようになった。その中にはマズルカ・リズムによる舞曲や民謡も多く見られ、世に知られるようになった。19世紀に入ると、マズルカ・リズムを持つ舞踊はポーランド以外のヨーロッパ諸国でも舞踏会で取り上げられるようになってきた。パリで1809年、フィレンツェでも1823年に舞踏会で踊られたという記録がある。
第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
ドヴォルザーク:チェコ組曲
ドラティ(アンタル)
ユニバーサル ミュージック クラシック
2007-07-25

チェコ組曲 作品39(B.93)、プラハ・ワルツ集 B.99、ポロネーズ 変ホ長調 B.100、ポルカ 変ロ長調「プラハの学生たち」作品53a第1(B.114)、弦楽のための夜想曲 ロ長調 作品40(B.47)。1981年初発。Recorded 30 May - 3 June 1980 in the United Artists Auditorium, Detroit. Engineer – Colin Moorfoot, Producer – James Mallinson.
NL  DEC  SXDL7522 アンタル・ドラティ ドヴォルザー…
NL  DEC  SXDL7522 アンタル・ドラティ ドヴォルザー…