34-16915

商品番号 34-16915

通販レコード→蘭イエロー黒文字盤

その汚い音を止めてくれない? ―  突然の冷ややかな声に演奏を止めて振り向くと、若い音楽家が立っていた。「あなたの音楽の書き方は大げさすぎ、旋律なりの自然な響きを奪っている」その音楽家は老作曲家を押しのけると、髪をなびかせ、鍵盤の上に白い指を滑らせた。「おい、勝手に」「気が散るから黙ってて」一度奏でられただけの老作曲家の演奏が正確に再現されているのに感心していると、リズムを変えて、装飾が加えられる。足かせから解き放たれた旋律が躍動して、リーダーシップを得ていく。しかも、この若い音楽家は修正箇所を弾き直すことなく、ノンストップで和声や旋律を修正していた。「これで少しはマシになったでしょう」若い音楽家は演奏を終えると微笑んだ。その若々しい情動、不本意ながら本能的に見とれてしまう。ヨハン・アドルフ・シャイベと名乗った若い音楽家は、ライプツィヒにオルガン製作者の息子に生まれる。1725年からライプツィヒ大学で法律と哲学を学んでいたが、経済上の理由で断念した。やがてオルガンとチェンバロの教師となり、1729年には聖トーマス教会のオルガニストを目指したが不採用だった。こうしたモーツァルトへとつながる世代。とくに啓蒙思想の影響を直接に受けた世代からは、絶対王政の宮仕え音楽家たちのスタイルは時代遅れで煙たがれていたことも垣間見える行為でした。そんなこと百も承知、若い音楽家に叩かれた老作曲家=ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、息子たち世代の〝ギャラントな〟最新の音楽様式にももちろん関心はあったのですが、はいそうですか、と時代に流されることはまるでなくて、息子たちを応援し、新しい時代の音楽を楽しみながら、自分の目指す高みに向かって、音楽という時間芸術の持つ可能性をとことん追求する道を選びました。彼も若い時はやんちゃもしました。創作力の衰えがあったのではなく、晩年のバッハは残された人生の時間を、シンプルな〝単一主題〟からいかに豊かな音楽が創造できるか、その可能性を極限まで探求することに並々ならぬ関心がありました。パレストリーナにまでさかのぼる古様式(スティレ・アンティコ)と呼ばれる〝対位法技法の保存〟のほうにより強く惹かれていました。それは老作曲家の死後に実を結び始める。モーツァルトが、ベートーヴェンが、そしてシューベルトが、ウィーンでバッハをはじめて聴いて、フーガの魅力に囚われた。同じ主題の旋律が提示と応答を繰り返していく音楽形式であるフーガは、一つの主題旋律が模倣、拡大、縮小、転回、ストレットとさまざまな技法で料理されます。このフーガを極めた音楽作品がバッハの《フーガの技法》です。グレン・グールドがフーガの虜になるのはよくわかる。グールドほどピアニストらしくないピアニストはいなかった。個性的な天才ピアニストであるグールドですが、7歳にしてトロントの王立音楽院に合格した彼は、レオ・スミスより音楽理論を、アルベルト・ゲレロよりピアノを、そしてフレデリック・シルヴェスターよりオルガンも学んでいました。14歳の時には、世界各国のすぐれたオルガン奏者5名が出場するトロントのカサヴァン・シリーズに出演するほどの腕前で、1945年にオルガン奏者としてデビューしたのだそうです。そのグールドが1962年にバッハの《フーガの技法》に挑んだのが本盤です。音楽史上の天才たちがこぞって仕上げたフーガ作品には、いずれも永遠不朽の力が宿る。1960年、スタインウェイ社の技術者により肩に傷害を受けたとして、同社を告訴していたグールドは、かねてより、演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向していたこともあり、1964年3月28日のシカゴ・リサイタルを最後にコンサート活動からは一切手を引くことを決断する。フーガをして「音楽の形式に関する考え方の歴史のなかで、もっとも長もちする創作上の工夫の一つであり、音楽家にとってもっとも神聖な実践方法の一つである」と断言するグールドは、彼自身も人生において常にラウンド(輪唱)を繰り返そうとしていたのではなかろうか。解説を書いているデイヴィッド・ジョンソン『フーガの技法」には人間味とか感情は感じられないが、それらはこの作品が真に目指しているものではない。と書いていますが、この実験的で数理的な作品と対面して、さすがのグールドも背筋が伸びているのでしょうか。珍しくオルガンを演奏したグールドが、常とは異なる愉悦に溢れた ― 時と偶然を乗り越えて、純粋な論理の永遠の美しさを湛えている ― 素顔を垣間見せている。
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グレン・グールドはピアニスト、作曲家。1932年9月25日カナダ、トロント生まれ。1982年10月4日没。母親にピアノの手ほどきを受ける。1940年、7歳の時トロント音楽院に入学。1945年、オルガニストとして13歳でデビュー。翌年にはピアニストとしてトロント交響楽団と共演。同年14歳の最年少で同音楽院を卒業するなど、早くから神童として知られる。北米を中心に活動し、1955年にバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を弾いてワシントンとニューヨークにデビュー。1955年にコロンビア・マスターワークス(現ソニー・クラシカル)と専属契約を結び、1982年に亡くなるまで同レーベルに録音を続けました。1956年に衝撃的な『ゴールドベルク変奏曲』を発表。このアルバムはデビュー盤にかかわらずベストセラーとなり、その衝撃的な演奏とともにセンセーションを巻き起こす。1957年にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューする。さらに旧ソ連への演奏旅行も行う。1959年にはザルツブルク音楽祭に出演し世界的な名声を築き上げていったが、1964年のロサンジェルスでのリサイタルを最後にコンサート活動から引退し、以来レコード録音とテレビによる放送などを通じての世界のみから出ることはなかった。伝統を読み直し再構築してゆく斬新な視点は、常に聴き手に問題提起をし続けた。デビュー作と生前最後のアルバムと映像収録は『バッハのゴルトベルク変奏曲』であった。最後の〈アリア〉を弾き終えたグールドが、両腕を持ち上げ祈るように掌をあわせるシーンに心打たれる。
  • Record Karte
  • 1962年1月&2月トロント録音。
  • NL CBS CBS60291 グレン・グールド バッハ・フーガの技法
  • NL CBS CBS60291 グレン・グールド バッハ・フーガの技法

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